毒見の悪役令嬢は後宮の友情を守る 第19話「第17章」
市の伝言板の周囲には、燃えた紙片が薄い灰となって風に舞っていた。焦げたインクの臭いが朝の冷気に混ざり、黒い手形のように貼り付いたビラが石畳にくっつく。アイラは人込みをかき分けながら、はためく旗や張り紙に視線を走らせる。そこには彼女の決められた「役」を嘲る絵と、秩序の崩壊を喚く大きな文字があった――「毒見の劇は後宮を乱す」。
市の伝言板の周囲には、燃えた紙片が薄い灰となって風に舞っていた。焦げたインクの臭いが朝の冷気に混ざり、黒い手形のように貼り付いたビラが石畳にくっつく。アイラは人込みをかき分けながら、はためく旗や張り紙に視線を走らせる。そこには彼女の決められた「役」を嘲る絵と、秩序の崩壊を喚く大きな文字があった――「毒見の劇は後宮を乱す」。
「ここにも、こっちにも」と、レナが低い声で言いながら、素早く一枚の伝文を剥がす。レナの指先には微かな震えがあって、それが先刻までの逡巡を語っていた。ミオは後ろで腕を組み、周囲の動線を計算するように冷静に目を走らせる。三人の後ろには、寄せていた市井の庇護者たち――料理人のタハン、修繕屋のカーヴ、そして昨夜遅くまで泣いていた若い侍女ミリィが続く。
「燃やされているのは、私たちが伝えようとしているものだ」とタハンが悔しげに言った。彼の掌にはよく使い込まれた革の袋から出された新しい写しがある。料理場の帳簿、後宮の調達記録、そしてある一枚には――古い制度文書の断片。黒い線で縁取られた同意欄があり、判で押されたはずの席名が、後から付け足されたように見える。
「この町の人たちに見せるんだ」とアイラは言った。声は震えなかった。彼女の胸には、いつもと違う冷たさがある。観衆の視線、燃えるビラの音、そして何よりも彼女に向けられた「役柄」を壊さなければならない重さ。後宮の友情を守るため、彼女は言葉と文書を武器にせねばならない。
だが、文章を読み替えるには当事者全員の合意が必要だ。アイラの能力は不完全で、懐に寄り添うような交渉術でもある。制度の文言をその場で別の意味に落とし込むには、影響を受ける全ての当事者がその読み替えに同意しなければならない。合意がない限り、たとえ真実が手にあっても、制度という名の歯車は動かない。
「全員の同意なんて、ここにはない」とミオが低く言った。「守旧院の広報司長、シドールがここにいる。彼が声を上げれば人々は再び恐れる。彼らは恐怖で秩序を守ろうとしているだけだ」
声は言い終わるか否かで、遠くで人混みがざわついた。群衆の向こう側に立つ一人の男が、胸に紋章の入ったマントを翻していた。広報司長シドールだ。彼は鼻先を少し上げ、紙を踏みつけるように足を動かした。近くにいる取り巻きたちが扇子で顔を隠している。彼は静かに口を開いた。
「混乱の元凶はこの者たちだ」と、シドールは冷ややかに言う。その声は、広場に張られた大きな太鼓の音のように響いた。「彼らは『読み替え』などと言って、我らの秩序を壊そうとする。秩序を壊せば混乱が生まれ、混乱は露骨な危険を招く。後宮の安全が第一だ」
群衆がざわめく。燃えかけた紙片が足元でチリチリと音を立てる。ミリィの顔が青ざめ、彼女の肩が小さく震えた。噂を撒いたのは守旧派だけではない。昨日夜、村の噂屋が「毒見役が仲間を操っている」と囁いた。今日、シドールがその囁きを増幅したのだ。
「ならば、ここで読み替えよう」アイラは言った。言葉は刃のように群衆に投げられた。「当事者全員の同意を得れば、文書の矛盾は別の意味に開ける。公開の場で合意を得る。証人を出せ――私たちは嘘をつかない」
タハンが帳簿を掲げ、市の人々がそれを囲む。ミオが冷静に指示を出し、数名の若者が記録を読み上げる。ミリィは小さくうなずいた。だが、シドールは硬く口を結んだ。彼が合意の輪に入ることを拒めば、アイラの能力は動かない。だが、シドールの拒否は人々の恐怖を煽るだけでなく、今夜にもミリィを「秩序の観点から」「調整」のために後宮から追放することが決まっているという知らせが、一人の使者から届いた。時間は刻々と迫る。
群衆の中で、誰かが叫ぶ。「彼女を追い出すのか。そんなことを許せるか!」一瞬、波紋のように同情の声が広がったが、すぐに別の者が恐れで声を落とした。「秩序が崩れたら、誰もが困る」その言葉がまた人々の手を凍らせる。
「全員の同意がなければ読み替えはできない」とミオが静かに、しかしはっきりと言う。彼の眼差しはアイラを見据えていた。言外に「やれるのはアイラだけだが、それは代償を伴う」と言っている。
アイラの手首には、細い銀の鎖が巻かれている。小さな印章が七つ連なった飾り――彼女はそれを密やかに「選択の珠」と呼んでいた。それは自分の能力の「余地」を目に見えるようにしたものだった。珠は冷たく、時々軽く振れては先の決断を思い出させる。誰かの運命を一方的に決めると、その珠の一つが黒く変わり、欠ける。返っては来ない。
「私は、この子を救いたい」とミリィが震える声で言った。「後宮で、私は……私は友達を失いたくない」
言葉は集まった誰の胸にも刺さった。だが、シドールは笑ったように肩をすくめた。「それは良い願いだ。しかし制度は感情では動かない。秩序を保つための線引きが必要なのだ」
時間が止まるように感じられた。ミリィの手が縛られそうになり、使者は既に手に紋章を握っていた。合意を紡ぐにはもう時間がない。目の前で、友が引き離されようとしている。
アイラは深く息を吸った。冷たい空気が肺に入り、銀の鎖が軽くこすれる音が耳に入る。思考は明晰だった。彼女は、いつもこうではなかった。前世の記憶などない。だが今、目の前の痛みは明確だった――選ぶべきは友情を守ることか、能力の温存か。守るために自分の余地を失うことは許されるのか。
「私が決める」と、アイラは低く言った。言葉は誰も止められない力を持っていた。
合意は得られなかった。だが彼女は身を翻し、文書を手に取り、古い条文に指を当てて声を低く読み上げた。読み替えの儀式のように、彼女は言葉を編み替えた。通常ならば当事者全員の合意でしか真の効力を持たないはずの「読み替え」が、アイラの行為で何か変わる。彼女は一方的に「暫定停止」を宣言したのだ――法の穴を塞ぐことではなく、時間を止める決断。
鎖に繋がれた一つの珠が、濁った光を吸い取られるように黒く変わる。小さな鋭い音がして、珠の一つが裂け、指先に刺さるように痛みが走った。周囲の空気が引き締まる。ミオが顔を曇らせ、タハンは目を見開いた。レナが震える手で口元を押さえる。
「やったのか……?」ミオが呟く。その問いに、アイラはゆっくりと頷いた。
効果は即座に現れた。使者が紋章を上げる手を止め、縛られていたミリィの縄が緩んで落ちた。群衆のざわめきが一瞬で変わる。恐れから生じていた手が解かれ、好奇心と恩義に変わる者もいた。ミリィは床に崩れて、アイラの足にすがりつく。冷たい石の上で、ミリィの頬には涙が光った。
だが代償は確かだった。珠が欠けた瞬間、アイラは胸の奥で何かを失った感触を得た。自分の未来を一つ閉じたという確信。選択の余地が減ったという痛みは、単なる視覚的な欠損を超えていた。彼女は手の中の裂けた金属片を見つめる。そこには、もう戻らぬ一つの可能性が示されている。
「今、あなたは一つを使った」とミリィが震える声で言った。「私を救ってくれて……でも、あなたは」
「分かっている」とアイラは答えた。声に後悔は混じっていなかった。代償を払うことは、最初から受け入れていたことだ。ただ、代償が現実になると、それでも心