毒見の悪役令嬢は後宮の友情を守る

毒見の悪役令嬢は後宮の友情を守る 第12話「第11章」

廊の端に置かれた椅子は、昼の光を受けて冷たく光っていた。背もたれにはまだ、かつて誰かが寄りかかった跡のように布のしわが残る。だが座る者はいない。空気は張り詰め、木の床に靴底が当たる音がやけに大きく響いた。

廊の端に置かれた椅子は、昼の光を受けて冷たく光っていた。背もたれにはまだ、かつて誰かが寄りかかった跡のように布のしわが残る。だが座る者はいない。空気は張り詰め、木の床に靴底が当たる音がやけに大きく響いた。

アイラは椅子をじっと見つめたまま、手のひらで小さな硝子の粒を撫でた。それは、彼女がいつも袖に隠している「選択の勾玉」――誰も見たことのない、彼女の力の残滓だった。表面にはひびが入っていて、内側で淡い光が揺れている。触れていると、ときどき未来の断片がフラッシュのように流れる。まだ見ぬ結婚式、交わされる言葉、あるいは誰かの悲鳴。けれど今は、ただ冷たく、重い。

「判決は……保留にできた」ミラが言った。声は細く、でも震えてはいない。彼女の黒髪が一筋、額に張り付いて汗の粒を作る。ミラは薬師として後宮にいたとき、誰かの命を救うことしか考えられなかった。だが今は違う。彼女は手の甲に黒墨で文字を書き、それを見せる。墨は滲んで、読めないが、見る者に強い決意を伝えた。

「保留だって、判決はひっくり返っていない」レオンが吐き捨てる。彼はかつて法務の報告を書いていた男で、役人の冷たい笑いを忘れていない。口元に血を滲ませ、袖で拭う。昨夜の抗争の爪痕がまだ残っていた。レオンの目が燃える。彼は椅子とアイラを交互に見て、短く言った。「ここで絆を切り捨てられるのを見てられない。自分の手で取り返す──それしかないんだ」

廊の入り口に、数人の侍女たちが並んでいた。彼女らの目にも決意がある。誰もが自分の運命を形作る権利を求めている。だがそれは、宮廷の制度が与えないものだ。制度は古い文書と儀式と、声に出さぬ合意で成り立っている。アイラはその中に小さな矛盾を見つけ、それを読み替えられる。ただし条件がある。全員の合意が原則だ。合意がないとき、力は形を変える。以前と同じように一方的に決めれば、そのたびに彼女は自分の選択肢を一つ失う。

「どうするつもり?」カレンが問う。彼女は今回の騒動で顔に擦り傷を負っていた。普段は冗談ばかり言う鋭い舌を持つが、今は言葉を選んでいる。カレンは椅子に近づき、手の甲をその背にもたれに置いた。皮膚が冷たさを感じる。空っぽの椅子と、その周囲に集った友人たちの顔。それらが交互に彼女の視界を占める。

アイラは息を吸い、ゆっくりと吐いた。「私が……一つ、強制的に決める」彼女の声は震えなかったが、喉の奥に重さがあった。「対象は、一人だけ。今日、裁礼で断罪されようとしているエリナを、いまここで保護する。私が文書を撥ね直す。だが、代償を払う。私の選択肢を一つ、失うことになる」

一瞬、周囲が静まる。ミラの薬袋の符がかさりと音を立て、レオンの肩が軋むように動いた。カレンの目が潤む。「そんな代償を……あなたが?」彼女は呟いた。質問ではなく、拒絶でもなく、驚きだった。アイラは小さく首を振る。

「誰にはばかることもない。私が払う。けれどこれだけは言わせて」アイラは硝子の勾玉を握り直し、指先でひびを辿る。「これ一つで、制度を覆すことはできない。けれど、君たちがそれぞれ、自分で行動するならば、私はそのための時間を作る。私は一人の命を救い、その間に君たちが自分の意思で行動してほしい。それが、私たちの戦い方だ」

ミラが息を呑む。レオンの肩が震え、やがて彼は拳を握る。「いいだろう。俺は文書の隙を突く。役人の通達に偽りがあることを証す手筈を整える。だがそれには、君の停止が必要だ」

「私が止める──それが合図になる」カレンが言った。彼女は周囲を見渡し、小さく笑う。「私たちは、それぞれの場で『いま』を奪還する。侍女たちは自らの申告書に署名し、寝殿の者たちは『断罪を拒む』と声を上げる。それが同時に起きれば、制度は有名無実になる。少なくとも、今日だけは」

言葉は炎のように廊に広がった。侍女たちが互いに目で合図を交わす。誰もが恐れていたのに、それでも抗うという決意を固めていた。

アイラは立ち上がり、ゆっくりと正面の祭壇に向かった。祭壇の上には古い羊皮紙が広がっている。そこに記されたのは、断罪の儀礼と、個々の後宮人が誰に仕えるべきかを示す文書だ。文字は黒く堅く、何世代も前の筆致で書かれていた。アイラは掌を紙に触れさせ、低く囁いた。読み替えの儀文。普段は当事者全員の同意が必要だが、今はそれがない――だから代償を払うつもりだ。

最初の言葉が舌を離れた瞬間、頭蓋の奥が締めつけられるような痛みが走った。金属の味が口に広がり、暗がりのような圧迫感が視界を覆った。硝子の勾玉が、指の中で熱を帯びてひびが広がる。内側の淡い光が一瞬鋭く閃き、記憶の断片が剥がされる感覚があった。幼い頃に夢見た別の未来――静かな屋敷で穏やかな夫と過ごす午後の情景がぼんやりと消えた。胸の奥に小さな空洞が生まれ、そこに風が吹き込むようだった。

「アイラ!」ミラの叫びが耳に届く。だが彼女は口を閉ざし、言葉を続ける。力は紙の文字に近づき、文字はゆっくりと形を変え始めた。意味の網目が緩み、知らぬ言葉が滑り落ちる。その間にも、外からは通路を踏み鳴らす足音が迫っていた。宮廷の役人たちだ。枢相ナヴァールの冷笑が、すぐそこまで聞こえる。

「保留。エリナの断罪は、一時停止する」アイラの声は震えていたが、確かにそこにあった。文字は最後の一線を描き、縫い目のように閉じた。羊皮紙の縁からは、薄い光のようなものが立ち上り、祭壇の周囲に柔らかな風を作る。

瞬間、廊が動いた。侍女たちが口々に声を上げ、寝殿の者たちが身を乗り出した。カレンが椅子に触れ、冷たさを確かめてから、その椅子に一度膝をついた。「ここに座る義務はない」と彼女は言った。声は小さいが、廊の端にいた者の耳に届く。

だが代償は現実だった。勾玉がひび割れ、最後の光がにじんで消えたと同時に、アイラの胸の中にあった未来の一つが本当に失われた。心の奥で、もう戻らない感覚が確実に決定される。彼女は膝をつき、床に手をついて息を整える。頭の中の空洞が重く、喉の奥に鉛の塊が落ちたようだった。

「どう──感じる?」ミラが息を切らして問いかける。アイラは顔を上げ、眉間にしわを寄せる。

「寒い。砕けたときの残骸が、まだ身体の中を這っているよう」彼女は小さく笑った。「だが、この痛みは私のものだ。いまはこれでいい」

足音がさらに近づく。枢相ナヴァールの姿が廊の奥に見えた。彼はいつもの薄笑いを浮かべ、群がる役人たちに命令を下す。「何事かと聞きたい」その声は低く、石を割るような冷たさがある。

カレンが立ち上がり、枢相の方を向いた。「断罪を続行するのですか。それとも、あなた方自身の合意を示すのですか?」彼女の言葉は簡潔で、刃物のようだ。侍女たちの一部が後に続き、声を合わせて「断罪に抗議する」と告げる。次々と、小さな声が一つの大きな波になっていく。

枢相は眉をひそめ、口元に驚きの色を一瞬浮かべる。制度を揺るがすのは容易ではない。だがその瞬間、レオンが役人たちの書類を叩きつけ、証拠の束を床に広げた。改ざんされた届出、偽の連署、枢相側の言葉を裏付ける細工の数々。役人たちが慌てて取り繕おうとする。廊は騒然とし、守衛が詰め寄る。刃先がかすかに光る。カレンの袖が