連絡船の待合室で嘘をつけない教師は告白しないまま守る 第15話「第13章」
夜の校舎は、昼間とは違うテンポで呼吸していた。廊下の蛍光灯は一定のリズムでチカチカと小さなため息をつき、教室の窓からは帯状の光が外の暗闇に切れ切れに投げ出されている。仁(じん)は窓際の机に肘をつき、冷えた粉末コーヒーの残りを飲み干した。頭の芯が重く、左こめかみで微かに鼓動が鳴る。昨夜からの連続行動で溜まった疲労ではなく、彼が能力を強く引き出したときに来る――針のような痛みだ。
夜の校舎は、昼間とは違うテンポで呼吸していた。廊下の蛍光灯は一定のリズムでチカチカと小さなため息をつき、教室の窓からは帯状の光が外の暗闇に切れ切れに投げ出されている。仁(じん)は窓際の机に肘をつき、冷えた粉末コーヒーの残りを飲み干した。頭の芯が重く、左こめかみで微かに鼓動が鳴る。昨夜からの連続行動で溜まった疲労ではなく、彼が能力を強く引き出したときに来る――針のような痛みだ。
「遅かったな」と、背後から声がした。高野(たかの)が書類の束を抱えて教室に入ってきた。額に汗を光らせ、ネクタイは緩められている。校長面談のあとらしい。
仁は顔を上げ、返す言葉はない。嘘がつけない自分にとっては沈黙もまた表現だ。高野は机の上に書類をばさりと置き、そこに載っている署名や判子を指で滑らせた。
「処分通知の予備調書だ。『教育観測プログラムへの協力不履行』——くだらない建前は山ほどあるが、要は君たちの動きが学校の評価に悪影響を与えると。教委と揉めるのは避けたいってさ。俺は……」高野は喉を鳴らして笑った。笑いは疲れていたが、目はまだ諦めていない。彼の両手は震えていた。保護者の信用を得たいという彼なりの焦りが、細かい震えとなって現れている。
「それでも、生徒たちと保護者を味方につける。資料を公開して、『評価』の根拠を晒す。君のやり方が必要だ」高野が言った。
仁は喉で小さく息を吐く。必要だと言われれば、動くべきだろう。しかし彼の能力は万能ではないし、条件と代償がある。それは言葉で説明するほど単純ではなく、身体で学んだ戒律だ。共同制作に残された痕跡──そこにだけ、彼は人々の本心の残滓を読むことができる。だが、痕跡を「これだ」と決めつけるほど、視界は霞む。急いで共同作業を進めれば進めるほど、その作業自体が壊れてしまう。今夜もそれを確認したばかりだった。
教室の扉が静かに開き、菫(すみれ)が入ってきた。肩に掛けたバッグが薄暗がりの光を受けて揺れる。顔は蒼白で、呼吸は早い。彼女が床に置いた紙束を仁が見て、鼓動が一段と速くなるのがわかった。
「見つけた……」菫の声はかすれていた。指先が紙の端を撫でるようにして、そこに映る文字列を追った。彼女の共同制作、前に学校側と協働で作った大型の壁画プロジェクト——それが、データ上で「関係評価」のサンプルデータとして利用されていた可能性があるというログを、彼女は夜半にこっそり見つけたらしい。
「私が描いたラインが、タグとして使われてた。『接触頻度』って項目で切り出されて、他のデータと結び付けられてたの。あれって、生徒同士の交流の強さをスコアにするために解析されてたんだって。私の色使いが──」菫は言葉を引き裂くようにして唇を噛んだ。指の甲が白くなる。
高野が紙を掴んで覗き込む。ログの行間には小さなコード、CB-XY のような短い識別子が何度も並んでいる。凡庸な記号だが、そこには不気味な秩序があった。
「これが本当なら、あの壁画は生徒の交流を監視するためのデータソースにされていた、ということか。無自覚な共同制作が、君の意思とは無関係に計測されていたと」高野の声が低くなる。「菫、君はどうしたい」
菫の目が潤んでいたが、決意が芽生えている。彼女は自分が作ったものが誰かを傷つけたかもしれないことを知り、責任を背負おうとしていた。だがそのとき、仁は胸の中に小さな警告を感じ取った。力を使えば、もっとはっきりする。だが、はっきりさせようとするあまり、彼らの作業が「証拠」になると同時に「裁定」に変わり、痕跡は消える。
「ここで急いで公開しようとすると、痕跡が消える」仁は静かに言った。「俺が強引に意味を決めてしまうと、読み取れなくなる。共同で作ったものだけが残る。しかも、共同制作っていうのは時間と信頼が必要だ。急ぐほど、壊れる」
高野が疑いの目を向ける。「つまり、君の能力は使えるが不確かだと?」
「不確か、というより《保護の条件》がある」仁は自分の耳に馴染んだ言葉を確かめる。使う代償も、昨夜の痛みで再確認されている。紙に触れて、ほんの短時間だけだが、舌の先が麻痺した。声がうまく出なかった。能力の行使は、彼の言葉を一時的に奪うのだ。嘘をつけない教師が、言葉を失うということ。――守るための代価は、守る手段の一部を同時に奪う。
菫が紙束を抱きしめるようにして机に座った。「それでも、何かしなくちゃ。みんなに知られて、選べるようにしたい。私、一人でやったことじゃない。共同制作って、そういうものだよね?」
「その通りだ」高野がため息を付き、紙をたたんで胸に当てた。「だけど、さっきのように急ごうとして失敗したら、誰かが直に害を受ける。今朝も、三年の石田が放課後に教務室に呼び出されてな。『話を聞かせてもらう』って。保護者からの問い合わせだって。石田は泣いてた。俺たちの動きが原因かもしれない」
菫の顔がさらに硬くなる。指先が震える。石田は菫のクラスメイトだ。彼らの小さな反抗心が、予想外のところで噛み合って、弱い立場の生徒を追い詰めていた。仁はその場で何か言いたくなったが、言葉は本当に出なかった。頭の中で千の説明が渦を巻き、そのどれもが不完全にしゃべられては消えていく。能力の余波が、確実に彼を縛っている。
「俺は謝るべきだ」仁はやっと口を開いた。言葉は細かったが真実だった。「石田に直接、無理させたみたいになってしまってる。守るつもりが、逆に危ない方向に行ってしまった。謝る」
石田のことを直接謝ることはできない。彼は今、保護者と面談中だろう。だが、言葉が出ないことが誠実さを曖昧にするわけではない。仁はその矛盾を抱えたまま、代替手段を考えた。
「急がないでやる」菫が言った。声は震えていたが、その揺れの中に芯がある。「私が先に出る。私の壁画を、もう一度、ちゃんと共同で作り直すところから始める。時間をかけて、たくさんの人を巻き込んで。そうすれば、痕跡は消えないはず。もし誰かが強引に解釈しようとしたら、その意味はもう一人の判断じゃなくて、みんなのものになる」
高野が眉を上げる。静かに笑ったように見えた。「闘い方を変えるってことか。暴露だけが正義じゃない。参加を取り戻す。いい。だが、時間はかかる。学校も外も待ってくれない」
「わかってる」菫は紙束をぎゅっと握りしめて、窓の外の軒先に浮かぶ黒いシルエットを見た。遠くに、連絡船の小さな明かりが点々と浮かんでいる。彼女の目はそこで止まる。連絡船の待合室。序盤から象徴されてきたその場所は、ただの風景ではなく、記憶と共同性の交差点になっていた。
高野は書類の一枚をめくって、そこにあるコードを指差した。CB-XY。ふと、彼の声が低くなる。
「これだけじゃない。管理システムのログをもう一つ追ってみたら、同じコードが連絡船の待合室で集まった署名や申し込みのメタデータと紐付いてる。つまり、あの場所が物理的な共同制作の収集点として使われてる可能性がある。人々が自然に共同で作るものを、制度側がデータ化していた」
菫の指が震えた紙の端をもっと力強く握る。仁はその瞬間、胸の奥を何かが突くのを感じた。連絡船の待合室が、ただの景色から、制度の触手の一端へと翻って見える。彼