女子寮の台所で失恋中の音響係は気まずい再会をやり直す 第6話「第5章」
鍋の縁に立ち上る湯気が、台所の蛍光灯をかすかに滲ませる。金属のヘラがフライパンの表面を滑るたびに、細かい音がまるで心臓の鼓動のように鳴海 音(なるみ おと)の耳に届いた。音は右手で小さなハンディレコーダーを抱え、左手の指先でヘラの柄をぎゅっと握っていた。音響係の仕事は身体に染みついている。音は触れずに「聴く」ことができる。だが、それはいつだって代償と制約を伴った。
鍋の縁に立ち上る湯気が、台所の蛍光灯をかすかに滲ませる。金属のヘラがフライパンの表面を滑るたびに、細かい音がまるで心臓の鼓動のように鳴海 音(なるみ おと)の耳に届いた。音は右手で小さなハンディレコーダーを抱え、左手の指先でヘラの柄をぎゅっと握っていた。音響係の仕事は身体に染みついている。音は触れずに「聴く」ことができる。だが、それはいつだって代償と制約を伴った。
「さ、決めるよ。今日のやり方。」
自治会長の沙良(さら)が、鍋の向こう側で表情を整える。台所のテーブルを挟んで美月(みづき)が両腕を組み、眉を寄せたまま沙良を睨む。二人の間にある空気は、冷たく切れた弦のようだ。カメラマンがいたら、台所の対角線をゆっくりパンさせるような構図になるだろう。
「穏当にいくなら、まずは寮のルールを使うべきなの。問題を公にせずに、制度の枠内で話し合って解決させる。被害者の保護もできるし、評判へのダメージも最小限に抑えられるから」
沙良の声は平穏だが、どこか強さが混じっている。彼女にとって政策は盾であり、矢を引き受ける術だ。美月はそれを受けつけない。
「それじゃ、真実が宙に浮いちゃうだけだよ。事実を示して、寮のみんなに判断してもらおう。噂で終わらせるよりよっぽどまし」
美月の声には燃えるような熱がある。彼女は台所の窓を開け、外の風を腕の中に取り込んだ。音は二人の対立を聴きながら、震えを覚える。どちらの道にも利点があるし、どちらにも危険があった。
「音、どうするの?」
美月が手を伸ばして、レコーダーを指差す。音は一瞬、窓の外の暗がりに目を投げ、夜風に乗って遠くから聞こえる自転車のチェーン音を聴いた。自分の胸の音も、いつもより大きく聞こえる。
「ここで……共同で何かを作れればと思ってるんです。二人で作ったものには、痕跡が残るって、私にだけ見える。そこから本音が分かるかもしれない」
言いながら、音は自分の意図に釘を刺すように小さく舌打ちした。ルールを思い出していた。「痕跡を決めつけるほど見えなくなる」——解釈で塗りつぶせば、何も聞こえなくなる。急げば、共同制作は壊れる。彼女はその両方を同時に恐れていた。
「誰と?」沙良が訊く。言葉は薄刃、しかし核心を切り裂く。
音は一度だけ窓の外を見た。そこに立っているのは、この寮の元サークル仲間で、気まずい再会をしてしまったあの人だ。――藤堂 悠(とうどう ゆう)。彼が寮の廊下で躊躇する音が、木の床を踏むたびにかすかに鳴った。足音がここまで届く。音は吸い込んだ息を吐き、決断を固める。
「悠さんと。二人で作ったことのある、あの餃子をもう一度作りたい。あの日のやり直しを、物に刻ませるんです。急いだり、私が先に答えを決めつけたりしなければ、——」
音は黙って、フライパンを火から少し離した。美月がにやりと笑った。
「面白い。じゃあ、私が誘ってくる」
美月は待ったをかけることもなく廊下へ駆け出した。沙良は机に手をつけ、ため息のような声を漏らす。「無茶だけど……この寮じゃ、変化はやっぱり必要かもしれない」
悠が台所の扉を押して入ってきた。彼の匂いは、いつもの乾いた洗濯物の匂いと、少し焦げた香りが混じっていた。視線が三人を秒速で行き来する。悠は肩にかけたバッグを下ろすと、ぎこちなく笑った。
「呼んだって聞いて。……あの、珍しい時間にごめん」
音は彼の手の震え、ナイロンのバッグが扉に擦れる微かな音、そして言葉の裏に隠れる呼吸の乱れを全部聴いた。だが、聴くだけではいけない。手を差し伸べる代わりに、彼女は大きなボウルと皮の包みを差し出した。
「餃子を作るよ。あの日と同じ、二人で。何か言うべきことがあれば、その手つきに任せて。私は傍で聴く」
悠の指先が、餃子の皮に触れる。二人の手が同じ包みを持った瞬間、空気が変わる。音はレコーダーを耳にあて、じっと「聴いた」。最初に聞こえたのは、包むときに立つ小さな囁きだった。ふわりと、謝罪の気配。続いて、ぎこちない照れ。包み方のリズムに、その日の言い訳と後悔が折り重なっていた。
音は見ないようにする。自分で物語を作らないために、あえて目を伏せ、耳だけに集中する。だが、美月が横で囁く。
「ちゃんと聞いてよ。こんなときだから、真実を——」
その瞬間、音の中にノイズが走った。包みの中の痕跡を「これだ」と決めつけようとする思考が、像をかき消した。音は本能的に口を押さえ、耳を塞ぎたい衝動に駆られる。体の奥がくすぐったく、頭の中で高い金切り声が鳴る。彼女はそれを振り切り、再び静かに「聴く」ことを選んだ。
二人はゆっくりと、言葉より先に手を重ねながら餃子を包んだ。指先が触れるたび、互いの躊躇や励ましの気配が生地の繊維に浸透していく。音が感じ取ったのは、謝罪だけではなかった。悠の手には迷いがあり、でも包む速さが次第に安定していく。その変化が、まるで小さな気持ちの修復を示しているように聞こえた。
「二つ目の皮、もう少し薄く伸ばすね」
悠が言う。その声に、音はまた小さな希望を感じる。だが台所の扉が乱暴に開き、数人の寮生が入ってきた。にぎやかなさざめきが瞬間的に台所に押し寄せる。誰かがスマートフォンを振る音、笑い声。情報は瞬時に拡散する。音は胸が急に締め付けられるのを感じた。外圧だ。噂が刃を研いでいる。
「手早くしよう。時間がない」美月の声に、焦りが混じる。
焦りは双方の手のリズムを乱し、二人の包み方が速くなる。音は即座に違和感を覚えた。料理には余白が必要だ。手数を増やせば増やすほど、共同の所作はすべり、痕跡は薄れる。かすかなアルゴリズムが頭の中で警告のビープ音を鳴らした。
「急ぐなって言ったのに」沙良が低く呟くが、声は群衆に飲まれる。
鍋に油がはね、火が一瞬高く立ち上る。誰かが笑い、誰かがカメラを向ける。慌てた二人の共同作業は、やがて一つの皮が破ける音に導かれた。破けた瞬間、音はまるで薄いガラスが粉々になるような音を聴いた。共同で作られたものは一つの形を保てず、痕跡は細かな粒子となって散っていく。
「……駄目、もう」悠が腕を引く。彼の顔に浮かんだのは、失望と内面の萎縮だ。音の胸に、冷たい痛みが走る。自分が焦りを招いたのではないか。自分の存在が、彼らを急がせたのではないか。
音は反射的にレコーダーを耳に当て、最後の残滓を拾おうとした。だが今度は代償が顕著に現れた。聴覚の一部が急に遠のき、世界が鈍色のカバーを被ったように聞こえる。高音域が消え、細やかな響きがぼやける。耳の奥で低い残響がぐるぐると鳴っている。彼女は堪えきれず椅子に沈み込んだ。
「音、大丈夫?」沙良が慌てて椅子を引き、彼女の肩に手を置いた。美月も駆け寄る。悠は躊躇いながらも、包みの破片を握り締めたまま、視線を音に戻す。
音は目を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。耳が戻るまでには時間が必要だ。これは能力を使うたびに払う代償の一つだ――彼女が、誰かの感情を拾うために、自分の聴覚の精度を一時的に差し出す。音はその代価を幾度も支払ってきたが、今回ほどはっきりと効力を感じたことはなかった。
ひとしきり静寂が流れた後、音が弱々しく言った。「残ったのは、小さな断片だけ。