女子寮の台所で失恋中の音響係は気まずい再会をやり直す

女子寮の台所で失恋中の音響係は気まずい再会をやり直す 第3話「第2章」

湯気がまだシンクの上で渦を作っている。台所の蛍光灯はいつもより少し黄ばんで見え、壁のタイルに映る蒸気の輪郭がぼやけている。音(おと)は両手を洗い、指の隙間から水滴を吹き飛ばした。先ほどの出来事の余韻が、まるで鍋の蓋に閉じこめられた匂いのように抜けきれずにいる。

湯気がまだシンクの上で渦を作っている。台所の蛍光灯はいつもより少し黄ばんで見え、壁のタイルに映る蒸気の輪郭がぼやけている。音(おと)は両手を洗い、指の隙間から水滴を吹き飛ばした。先ほどの出来事の余韻が、まるで鍋の蓋に閉じこめられた匂いのように抜けきれずにいる。

「まだいるのか。そんなに居座るなっての」

声は結(ゆい)だ。結はエプロンの紐をきゅっと結び直して、作業台に肘をついた。ソースの匂いとお茶の湯気が混じって、台所が昼と夜の境目を引き伸ばしている。

「ごめん。手伝ってくれてありがと、結」音はうつむいたまま応える。まだ胸の中の音がうまく整理できず、言葉は端折られる。彼女は音響係だ。音を扱うのが仕事で、日常の中の小さなずれを敏感に拾う。それなのに、あの一瞬、黎(れい)とすれ違った台所では、音がうまく拾えない沈黙だけが残った。

結はくすりと笑って、洗い桶に残った箸を取り出す。水滴がぽたぽたと音を立てる。小さな生活音が、音の内側の雑音を少しだけかき消した。

「みんな、掲示板で話の種にしてるよ。『台所のドラマ』って見出しで。恥ずかしいから消してって言っておいたけど」

「うるさいな……」音の声は干上がった。掲示板と言えば、女子寮の名物みたいなものだ。ちょっとした噂で輪ができ、輪が広がる。関係はいつの間にか評価になり、評価はみんなの娯楽になっていく。音はその過程が嫌いだった。恋も友情も、誰かの手柄や話題に塗り替えられるのが怖い。

「それで、どうする?もう諦めるとか?」結は真剣な顔になった。エプロンの紐の結び目が少し歪んでいる。

「諦めないよ。ただ……やり直したい。普通に、普通の会話を」音は小さく首を振る。普通。二人だけの、余計な枠のない時間。

「それなら、台所でまた会うしかないんじゃない?公にするか私的にするかで雰囲気は全然違う」結は指を鳴らす。壁の時計が短い音を一つ鳴らした。

「公にするって、誰かが実況するの?」音は眉を寄せる。結は困ったように笑った。

「実況とは言わないけど、掲示板にイベント登録すれば人は来るよ。歓迎会って名目で。みんなでご飯作るって体でさ。参加者が多いから場が和めばちょっと気まずさが薄れるかも」

音はその案を噛みしめる。場を和ませるための公開。誰かが場を作ることは悪いことじゃない。でも、公開はいつだって「噂になる」危険を伴う。黎と自分の間に残るあの微妙な空気を、見世物にするのは本意じゃない。

「私的に、ただ二人で作る。お茶でも。おにぎりでもいい」音は自分で口にした案を自分で守るように言った。結の目が細まる。

「それで行けるならいいけど。黎は……どういう人か分からないよ。向こうから行動しないタイプかもしれないし」

結の言葉が正鵠を射ている。黎は音が音を通して知った人物だが、私生活や意思決定は音には見えない。だから音は、自分の能力に頼りたかった。だがその能力は便利なものではない。共同制作物に残る「痕跡」を読む、というやり方は、安易に使えば自分の望む結論しか見えなくなってしまう。

「試してみる?ここで、二人で何か作ってみるの。能力の確認になるかも」結が提案する。結が言う“能力”について、音はまだ人に明かしていない。だが、台所はその場として最適だった。手を動かしながら話すことで、空気が変わる。言葉だけで作るものと、手で作るものの差は大きい。

音は迷った。だが結の顔を見て、うなずいた。「短時間で、簡単なものにしよう。おにぎり――握るだけの」

結の背中越しに、乾いた米の袋の角が見えた。二人は手早く炊飯器を引き、冷えたご飯をしゃもじで崩した。米の粒が指の間で温かく、つぶれていく感触。音はその触覚に神経を集中させた。共同制作とは、単に同じ場所で同じことをするだけではない。呼吸やタイミング、手の圧力、交換される視線が微細な履歴を残す。音はそれを「痕跡」と呼んでいた。

結が塩を指先にとって、そっと米の中心に乗せる。音も同じように塩を取り、指をかぶせる。二つの指先が同じ米の塊を包む瞬間、音の胸に何かが触れた。それは音とかつて感じたことのある「残響」と似ている。音は目を閉じ、耳を澄ませる代わりに手の感覚を研ぎ澄ました。

温度が増す。米の湿り気、結の息遣い、台所の換気扇の回る低い唸り。痕跡は像のように形を取らず、さざ波のように広がった。笑い声の断片、話が途切れたときの軽い気まずさ、誰かが困ったときに出す小さな「待って」――そうした断片が、塩と米の間に層をなしている。

「来る?」結の問いかけに、音は首を縦に振る。だが同時に、心のどこかで警鐘が鳴った。痕跡は情報ではない。手で作ったものに染み込んだ「振る舞いの痕跡」。そのまま読むことはできる。だが解釈する力を急いで持ち込むと、その感触はすっと薄れてしまうのだ――音はこれを幾度かの失敗で学んでいた。

二つのおにぎりを作り、結はひとつを差し出した。「やってみて」

音は結から受け取ったおにぎりをそっと口に運んだ。塩の具合、米の固さ、海苔の手触り。情報が舞い戻るように、さっき手で感じた断片がやはり、音の中に立ち昇る。だが彼女は自分に「決めつけるな」と言い聞かせた。痕跡は複数の可能性を含む。一つの断片を恋だと決めれば、その断片のほかの側面が見えなくなる。

「どう?」結が尋ねる。音は一瞬だけ目を閉じた。そこに、黎の小さな笑い声が混ざっていた。台所の隅で誰かのシャツの袖がばたつく音。手の角度を気にする仕草――不可視だった過去の行為が、触れた物に一枚の光を落としている。

「楽しかった」音は言いかけて止めた。言葉が口を出ると同時に、手元の感覚が薄れる。おにぎりの味がどこかのっぺりとしていく。米の甘みが消え、代わりにべたつくような無味が口の中に広がった。音は慌てて飲みこむ。結が不思議そうに眉を上げる。

「今、なんか変じゃなかった?」

「あ、うん。ごめん」音は顔をしかめる。決めつけた途端に、痕跡は雲のようにかき消された。視界にあったものがひとつ欠け落ちた気分だ。これが「痕跡を決めつけるほど見えなくなる」という代償の一端だった。情報を自分の世界観に合わせて整理しようとすると、せっかくの層が消えてしまう。

結はおにぎりを自分の皿に戻し、黙って端をかじった。台所の空気はまた少し変わった。二人で作ったはずのものが、音の強引な解釈で割れてしまったような後味が残る。

「なるほどね」と結は小さな声で言った。「急ぎすぎると壊れる、って本当なのかもしれないね」

二人の会話に、さっき洗い場の奥で用事をしていた沙希(さき)が加わる。沙希は寮の自治委員を務めていて、掲示板の管理にも首を突っ込んでいる。沙希の手には、誰かが置き忘れた金属製のスプーンがあった。先端に小さな傷があり、柄にはかすかな油が染み込んでいる。

「これ、誰のかな?前に見かけた気がするんだよね」沙希はふと呟き、無造作にスプーンを音に手渡した。スプーンは冷たかった。金属の冷たさと微かな油の匂いが鼻腔をくすぐる。指に伝わる振動が、音の中で微かな光景を呼び覚ました。台所の夜、誰かがふと笑った形、匙を置いたときの疲れた肩のライン。

だがそれは強烈な証拠ではない。痕跡はある。しかし、こ