女子寮の台所で失恋中の音響係は気まずい再会をやり直す 第17話「第15章」
鍋の底から焦げた匂いが立ち上る。蛍光灯の冷たい光が、女子寮の台所の細かい傷を白く浮かび上がらせた。葵音(あおい おと)は、コンロの前で木べらを握ったまま、ぎこちなく笑っている仲間たちを見つめた。手元の鍋に混ざる玉ねぎの音、フライパンに跳ねる油の音、遠くで誰かが勝手に鳴らすタイマーの電子音──音が積み重なって、彼女の耳の中で薄い波紋になった。
鍋の底から焦げた匂いが立ち上る。蛍光灯の冷たい光が、女子寮の台所の細かい傷を白く浮かび上がらせた。葵音(あおい おと)は、コンロの前で木べらを握ったまま、ぎこちなく笑っている仲間たちを見つめた。手元の鍋に混ざる玉ねぎの音、フライパンに跳ねる油の音、遠くで誰かが勝手に鳴らすタイマーの電子音──音が積み重なって、彼女の耳の中で薄い波紋になった。
「だから、こうすればいいんだって」音は深呼吸をしてから言った。声はいつものように落ち着いているが、指先は震えていた。「共同制作って、二人だけの密室でやるもんじゃなくて、『公開参加型』にする。参加の合意が見える形で出るように。合意の合図、全員でやるルール、痕跡が個人の所有物にならない仕組み——そうすれば、痕跡を独り占めして噂に利用することも、評判で恋を消費することもできなくなる」
テーブルの向こうに座る百合川リナが、眉を寄せる。彼女は寮の自治委員で、いつもルール作りにうるさい。手にはキウイが半分に切られていて、果肉のつぶつぶが手の甲に残っている。
「公開、って具体的には?」リナは静かに問うた。「音が聞けるっていう能力があるのは分かるけど、それをみんなでやるって、どういうふうに?」
音は厨房の丸テーブルの周りを見回した。そこには佐藤真希、屋代くるみ、白石優──それぞれが自分の考えを持っている顔。真希は眉間に皺を寄せ、くるみはいつもより真剣な目で湯気を見ている。優は携帯越しに寮の掲示板をちらりと見て、ため息をついた。
「合意の合図を必須にする。手順を決める。例えば、丸テーブルに集まって、全員が手を重ねる。そのときに白い布を一枚、中央に広げる。布は合意があった証拠で、上に置く共同制作物に痕跡が残る。参加は自由だけど、始める前に全員の合意が必要。それで痕跡は『公開参加』のプロセスの一部になる。誰かが後から『彼はこう言った』って勝手に決めつけられないようにするんだ」
真希が腕組みをした。真希は噂に敏感だ。寮の評判が崩れることを最も恐れている一人だ。
「でも、その白い布って、どう証明になるの? それに参加を強制しないなら、結局声の大きい人がしゃべり続けるだけじゃない?」
音は首を振った。「布そのものが証明というよりも、手順と合図を見える化するんだ。『手を重ねる』『声は録音しない』『後で痕跡を断定しない』というルールを同時に守る。痕跡が残っても、それを個人の所有物にしない仕組みが重要なんだよ」
屋代が小さく笑った。くるみは、料理用のヘラで鍋をかき混ぜながら言った。「音が言うと、合理的に聞こえる。けど、実際にやると面倒くさいし、それに――」
「面倒くさいっていうのは、正直な感想よね」白石が割り込む。「でも私、面倒な方が安心かもしれない。面倒だと、勝手に入れないから」
議論は静かに、しかし確実に熱を帯びていった。そのとき、窓の近くで鞄を床に置く音がした。全員の会話が吸い込まれるように止まった。東雲翼(しののめ つばさ)が、ドアの影から顔をのぞかせている。彼女は寮の外で講義があったはずだが、なんだかんだ言って戻ってきたのだ。
「予定より早かった。ごめん、何の話?」つばさは肩にかけた鞄を下ろしながら、厨房の空気を一瞬で読むようにこちらを見た。彼女の視線で、白い布の話が一瞬だけ形になった。
音は、つばさに向けて一度だけ微笑んだ。つばさはその笑顔に反応して、自然とテーブルの椅子に腰を下ろした。音は今が実験の好機だと直感した。ここで計画を実行できれば、公開参加型の有効性を示す小さな証拠になる。
「今、ちょっと試してみない?」音は言った。「簡単なものを一緒に作るだけ。手順と合図を全員でやる。最初だから、参加は任意。誰も情報を外に持ち出さないって約束できる人だけ」
「……参加は匿名でいいの?」真希が厳しく聞いた。「顔まで晒すのは嫌だって人もいる」
「顔は晒さない。でも、手を重ねる瞬間は見える形でやる。匿名と可視性のバランスをとるために、全員が布を被るとか、アイマスクはありだと思う」音は即座に提案を変えた。彼女は失敗を恐れていた。何よりも、ここで人を追い詰めることがしたくなかった。
結局、参加者は六人のうち五人になった。白石が一歩引いた。彼女は「今日は見学」とだけ言って、シンクの端で手を洗った。残る五人は丸テーブルに集まる。音はテーブルの中央に小さな白い布を広げ、布の上に作業小皿と木のヘラを置いた。布の縁が蛍光灯の光を受けて微かに光る。
「合意の合図は?」くるみが聞いた。
音は一歩前に出て、全員の目を見回した。「三つ数えたあと、全員で手を重ねる。重ねる前に『参加する』って声を小さく言う。声は、今は内声でもいい。手を重ねた時点で合意成立。合意がなかったら、制作を中止する。制作中に誰かがやめたいと言ったら、すぐやめる。裁判の証拠にしたり、噂に流したりは絶対にしない」
真希がゆっくりと頷いた。「手順と撤回の権利が明確なら、やらせてみる価値はあるかも」
全員がテーブルに近づく。手の温度が黒い木の表面を伝って伝わってくる。中央に置かれた白い布は、皺がひとつできるたびに小さく風を送ったように見えた。音は手をそっと置き、胸の奥がぎゅっと痛んだ。次に置くのは、彼女が本当に享受したい形――過去を否定しない再会のやり直しだ。
三、二、一。手を重ねる。五つの掌の皮膚の擦れる音が小さく鳴った。その瞬間、台所の音が一瞬だけ違う層で鳴った。木のテーブル越しに、遠い誰かの吐息や、昔二人で作った曲が希薄な輪郭で立ち上る。音はそれを吸い込み、胸の中で音の断片を並べ替えた。
「聞こえる……」音は囁いた。言葉は危険と紙一重だと彼女は知っていた。痕跡は痕跡でしかない。それを断定するほど、彼女の能力は目が曇る。だが胸がそれを言わせた。
「彼、謝ってた。――いや、違う、後悔してた。たぶん謝ってた」
言い終えたとき、世界の輪郭がすっと細くなった。まずは台所の空気音が遠のいた。鍋に浮く油の小さなはねる音が、まるでクローズアップのマイクから遠ざかるように小さくなり、平板なノイズに変わった。音の耳に入る「痕跡の層」が、急に曖昧になったのだ。色彩感覚ならば色あせるように、音の世界は白黒に変わる。
「音、大丈夫?」つばさが手を放して心配そうに言った。彼女の指先が音の手首を軽く押すと、音はハッと現実に引き戻された。耳鳴りが静かに始まり、そこに低い圧力がかかったような感覚があった。能力が代償を返したのだ。
「……聞き違いをした。ごめん」音は顔をしかめて、そっと手を引っ込めた。「今のは私の主観だ。断定してはいけなかった」
だが代償は既に払われていた。耳の奥で、影のようなサワサワとした音が残る。音は数秒間、台所のすべての音が同じ強さでしか聞こえないことに気づいた。聴覚が歪むわけではない。彼女が痕跡を区別する能力そのものが、薄くなっていく感覚だ。説明しようのない喪失だった。
「痕跡を断定するほど、見えなくなる」くるみが静かに言った。「言った通りだよね」
真希が顎に手を当てた。「そしてもう一つ。私たち、急いだ。つばさが来たことでテンポが変わった。共同制作って、時間の積み重ねなんだよ。急ぐと壊れ