ラジオ局で働きすぎの広報担当は名前のない関係を選ぶ 第21話「第19章」
朝の会議室は、いつもより薄い空気をまとっていた。窓が開け放たれ、外からは通りを行き交う人々の話し声とバスのブレーキ音が入りこんでくる。天井の白い蛍光灯が淡く震え、壁に掛かった大型モニターには局が用意したスライドの表紙が映っている。「透明性強化プロジェクト――指標と説明責任を両立する新方針」。白石局長が前に立ち、紙を折りながら言葉を紡いだ。
朝の会議室は、いつもより薄い空気をまとっていた。窓が開け放たれ、外からは通りを行き交う人々の話し声とバスのブレーキ音が入りこんでくる。天井の白い蛍光灯が淡く震え、壁に掛かった大型モニターには局が用意したスライドの表紙が映っている。「透明性強化プロジェクト――指標と説明責任を両立する新方針」。白石局長が前に立ち、紙を折りながら言葉を紡いだ。
「これからは我々も、数字と説明を隠さない。誰が何をしたか、どれだけ届いたか。リスナーに向けてオープンに示します」
拍手はあった。だがその拍手には、どこか計算されたテンポがあった。モニター脇で腕組みをしていた経営の尾崎が、満足そうに頷いている。綾音はその顔を見て、胸の奥が冷えた。
会議室の片隅で、真白が小さく唸った。「要するに、手柄は数字で測るってことか」
「名前を出せ」「ペアでやるなら誰とだ」――尾崎の口から出る言葉は、いつの間にか「誰の物語が売れるか」という式にすり替わっていた。綾音はノートに何かを書こうとして止め、代わりに自分の指先をペン軸に沿って転がした。彼女の手はいつも冷たい。冷たさは、長い時間マイクと画面の前に立ち続けた証だ。
会議が終わると、局内はいつもの午後の雑音に戻る。でもその雑音の色が、前と違って聞こえた。制作フロアのモニタからは既に「透明性強化」のプロモが流れている。誰もが短いトークを求められ、誰もが誰かの名を添えられる。それを避けたい人間は、もういないのだろうか。
綾音は自席に戻ると、手早くヘッドホンを取り、昨日深夜に仕上げたはずの二十秒のスポットを開いた。ターゲットは若年層。内容は「聴くことの自由」を訴える、匿名性を尊重する短いメッセージ。共同作成したのは綾音と航──彼女が一番自然に心を置ける相手だった。二人で、深夜にコンビニのカウンターでおにぎりを頬張りながら作ったものだ。言葉の端々に、彼の笑い声が混じっている。
モニターを見つめながら、綾音は能力を使えるかどうかを考えた。彼女が持つのは、人の核を覗く力ではない。共同で作られた「物」にだけ、微かな気配が残る。曲の一節、手書きのポスター、二人で縫った布切れ――そこにしか、互いの痕跡は宿らない。その痕跡は万能ではなく、幾つかの条件を抱えている。ひとつは、二人がその制作に「同じ目的と時間」を注いでいること。急いで寄せ集めたものは、痕跡を受け付けない。もうひとつは、痕跡に意味を決めつけることの禁忌。決めつけるほど、痕跡は見えなくなってしまう。
綾音はヘッドホンを耳に当て、スポットを再生した。航の低い声が流れ出す。二十秒の世界に、ふたりの夜がきらりと光るはずだった。ところが、音が途中で引きちぎれたように感じられる。録音室の空気は明らかに乾いていて、彼らが一緒にいた夜の湿り気が再現されない。綾音の胸に小さな不協和音が鳴る。
「急ぎで作ったから、かな」
彼女は呟き、窓の外の街路樹を見た。あの夜、彼と彼女は時間をかけて言葉を練り、笑い、沈黙を共有した。だが今は、局の都合で締め切りが迫り、数分で編集される。綾音は能力を使って痕跡を探ろうとした。だが、指先で空気を掬い取ろうとするほど、痕跡は滑って消えた。決めつけようとした瞬間、さらに曖昧になっていく。
「頼むよ、綾音さん。これで数字に繋がらなかったら、また指示が下りてくる」制作部の美海が背後から言った。彼女の顔に焦りの筋が入っている。美海は自分の制作物に対する誇りを持っているが、今の局は誇りよりも数値を優先する。美海は自分の努力が軽視されることを恐れていた。
綾音はスポットをもう一度聴き、編集の波形に指を這わせる。痕跡は確かに、そこに一瞬だけちらつく。航が笑いを含ませた小さな「はは」と、彼女が間を置いた呼吸――それが共同作成の痕だった。しかし、波形を拡大しすぎると、その形は細くなり、何も示さなくなる。解釈しようとする彼女の思考が痕跡を蒸発させた。
結局、スポットは予定どおり流れた。放送直後、SNSは予想通り数字を求める声で埋まった。「誰と作ったんだ」「ペア企画にならないのか」「この局は何を考えている?」。意図とは違うところで話題になり、局内の電話は鳴りっぱなしになった。綾音は胸が締め付けられるのを感じた。自分の手で作ったはずのものが、勝手に解釈されていく。彼女の能力は、他人の選択を奪うためのものではない。なのに、それで誰かを守れなかった。
翌日、編集部の外で小さな騒ぎが起きた。若手ディレクターの結城が外に出て、チラシの束を配っている。彼の顔は日焼けしており、目尻に笑い皺がある。彼は局の方針に反発しているというより、自分たちのやり方を守ろうとしていた。美海は自らのアカウントで長文の投稿をしている。普段はツイートを選ぶタイプの彼女が、一晩でサポートの呼びかけを書くのは珍しかった。田上は機材の入った箱を肩にかつぎ、街角の小さなイベントに向かおうとしている。彼らは一人ひとり、局内の方針を公然と否定するわけではなく、自分たちの手で場を守る選択を始めていた。
綾音は自分が、その選択に近づけないことを重く感じた。彼女がいると、仲間が余計な負担を負うのではないか。自分の能力が「共同制作」に縛られる以上、彼女が関わったことで相手が巻き込まれるリスクがある。そう考えると、胸の中で何かが折れた。デスクの引き出しから休職申請書を取り出し、ペンを手にした。離れたほうがいい。綾音はそう考えた。自分がいなくなれば、仲間は自由に動けるかもしれない。
ペン先が申請書の上で震えた時、航がデスクの前に立っていた。彼のシャツの襟元には、昨夜と同じ小さな粉の跡が残っている。彼は綾音に向かって、小さく笑ってから言った。
「外に出るんだろ? 手伝わせてよ」
綾音はびっくりして顔を上げた。航の瞳はいつもより真剣で、彼の手には紙の小箱がある。開けると、中には古いカセットテープが数本、手作りのラベルとともに入っていた。田上が余った機材で作った、小さなアナログの再生機も一緒だ。航は続けた。
「放送に残せなかったものって、放送だからって壊れるわけじゃない。これ、みんなで作ってみたんだ。声でも、言葉でもなく、ただ一緒に並べたもの。局外で配れば、誰かが拾ってくれるかもしれない」
その小箱は、ぎゅっと握ると暖かさを感じた。中のテープには二人で雑談した断片、街の音、誰かが笑った音がそのまま入っている。綾音はテープを取り出し、指でラベルを撫でた。紙の凹凸が肌に触れて、見覚えのある記憶の匂いがした――駅前の古本屋の匂い、航が飲んだ缶コーヒーの甘さ。
「共同で作るって、こういうことだよね」航が言う。彼の指先が小さなテープの上で踊る。綾音はそのとき、能力の新しい風景を感じた。放送という形ではなく、手渡すための物なら、痕跡は守られるかもしれない。しかも、急がなければいい。誰かを待つ時間が、痕跡を育てる余地を作るのだ。
だが、同時に別の恐れも差し込む。局は公の場で指標を求め、それが評価と報酬に直結する。彼らが外にテープを配るのは、局の方針と真っ向から衝突する行為だ。見つかれば処分の対象にもなり得る。それでも結城はチラシを配り、美海は長文を投稿し、田上は機材を運んでいる。彼らの決