放課後の工房で通知を切ったふたりは雨の終わりを待つ 第21話「第19章」
工房の蛍光灯が低く唸る。外では雨がまだ細く落ち続け、風に混じって窓ガラスに細かな砂のような音を立てている。木屑の匂いと、溶けたハンダの金属臭が混ざり合う放課後の空気を、湊は深く吸い込んだ。指先に小さなガラス片のような冷たさが残っている。さっきまで使っていたヤスリだ。
工房の蛍光灯が低く唸る。外では雨がまだ細く落ち続け、風に混じって窓ガラスに細かな砂のような音を立てている。木屑の匂いと、溶けたハンダの金属臭が混ざり合う放課後の空気を、湊は深く吸い込んだ。指先に小さなガラス片のような冷たさが残っている。さっきまで使っていたヤスリだ。
「ここでいいか」歩が静かに言った。彼は作業台の端に置かれた、小さな木箱を指している。二人で合わせた寸法、二枚の側板に残る歯の跡、接着したときに残った指紋跡──それだけが、彼らの共同性を証明するものになるはずだった。
湊は蓋を持ち上げ、内側を覗き込んだ。内壁にはペンで小さな線が数本引かれている。歩が思いつきで描いたのだろう、無造作で愛嬌のある線だった。湊はその線に自分の爪でそっと触れ、かすかに残るざらつきを感じた。気持ちを込めるというのは、彼らにとって実際の作業だった。言葉よりも、手の動きと呼吸のリズムを揃えること。
「準備は?」歩が視線を上げる。窓の外は淡い灰色で、向かいの校舎のシルエットが波打っていた。雨のせいで景色は濡れ、すべてが少し輪郭を失っている。
「うん」湊は答え、二人は同時に蓋に手を当てた。掌と掌が木の温度を媒介して、ゆっくりと重なる。いつもの始まり方だ。共同で作ったものにだけ残る痕跡を探るための、二人の小さな儀式だ。
指先から伝わるのは、自分たちの体温だけではない。湊は目を閉じると、木の中に細い光の筋が走るのを感じた。歩の息遣い、彼が先週図書室で見せた小さな困惑、笑いをこらえた顔、夜に送った何気ないメッセージの文字の端──それらが、湿った記憶のように木目に絡みつく。湊の胸に、歩が誰かに「将来」を話している瞬間が浮かんだ。駅の階段を二人で上がるときに歩いた左足の感覚。手のひらに、歩の恐れが冷たく伝わる。言葉にならない不安。
湊はそのまま視覚を募らせる。木の表面に現れる像を、彼の内側の言葉で辿ろうとした。
「あの……歩は、進学のこと、どう考えてる?」湊の声はいつもより少しだけ低かった。問いは明確で、答えを得るための問いだ。共同制作に残った痕跡を、進路の材料にしたかった。直感を借りれば、選択の重さが少しは軽くなるだろう、と計算した。
しかし、湊が言葉で轮郭を付けようとした瞬間、イメージはざらついて崩れた。握っていた蓋の感触が、ふっと薄れる。掌の下の木目が滑るように白く抜け、さっきまで確かにあった温度が表面を這う霧のように消えていった。
「……見えたのに」湊は小さな声で言った。目を開けると、歩の顔が近くにある。彼の眉はぴくりと動き、唇の端が引きつっている。
歩は冷静に蓋を見つめた。「決めつけたら消えるんだよ」
二人の間に短い静寂が落ちた。雨音だけが、工房の隅に残る機械のように一定のリズムを刻む。湊は頭の中でさっきのイメージを再生しようとしても、もう輪郭が掴めないことに気づき、手のひらをぎゅっと握りしめた。締め付けた爪が皮を押す痛みだけが本物だった。
「どういうことだ?」湊は問い返す。彼は能力のルールを知らないわけではなかったが、曖昧さが多すぎた。これまでの使い方は、感情の痕跡を見つけて推し量る程度で済ませてきた。しかし、進路という重さを問うことは、それ以上の干渉を意味した。
歩は息を吐き、棚の上から小さな白い封筒を取り出した。角が擦れて柔らかくなっている。封を開ける指先の動きに、生徒会室の古い時間が混じるような匂いがあった。中から出てきたのは、古いレポート用紙で、何かのメモが走り書きされている。
「クラブの古い記録だよ」歩が言った。紙を広げると、鉛筆の文字が読み取れた。『使用後の副作用:当面の間、片方の進路に関する直感が薄れる』──それだけが、真っ直ぐに書かれていた。下には細い字で、誰かの署名と日付があるが、文字は擦れて読めない。
湊はその一行を三度読んだ。胸に冷たいものが落ちるのを感じた。自分たちが見た「痕跡」を、ただの好奇心で掘り返そうとしたことが、どれほど危ういことだったかが急に分かった。
「片方って、どっちが薄れるんだ?」湊の声は震えた。自分の「直感」が消えるのか、歩のそれが消えるのか。あるいは、二人のうち一方だけが──そうなると、その人の未来を自分たちが知らないまま決めることになる。
歩は紙を指でなぞり、ゆっくりと答えた。「ここにはランダムって書いてあるわけでもない。だけど、順番とか誰かが決められるって書いてもいない。――要するに、分からないんだよ。だからこそ、使いどころを慎重に選べって書いてある」
湊は紙を握りつぶしそうになったのをこらえ、机の角に拳を乗せた。雨音が大きくなり、外の光が窓ガラスを流れる。二人の影が長く伸びて、床に重なり合う。
「もし、俺の直感が消えたら」湊は思考を続けた。「俺は歩にとって何がいいのか分からなくなる。逆に、歩の直感が消えたら、歩自身が選べる範囲が狭まる。どちらにしても、相手の選択を奪うことになるんじゃないか」
「それを避けるために、慎重に使えって書いてある」歩は淡々と言ったが、その瞳には決意があった。肩は震えていない。表情だけで、湊には歩が自分と同じ恐れを持っていることが分かった。
湊は蓋をそっと机に置き、視線を歩に向ける。工房の光が二人の輪郭を柔らかく照らし、木の匂いが鼻の奥に残る。歩の指先には微かな切り傷の痕があり、そこに薄い膿のような光が宿っているのが見えた。それは、歩がこの数週間でどれだけ手を動かしていたかの証だ。
「俺……代わりに背負うよ」歩が言った。言葉は唐突で、湊は一瞬何を言われたのか理解できなかった。背負う、という言葉は物理的には意味を持たない。だが歩は続けた。「俺が、湊の直感が薄れることを受ける。君が判断を失うのが怖いなら、俺が代わりにその代償を受ける。交互に。あるいは、重要なことは二人で話し合って、能力に頼らない。だけど、どうしてもってときは、俺が受ける」
湊の胸の中で、何かが押しつぶされるように縮んだ。歩の言葉は優しさと、ある種の覚悟を帯びている。湊は自分がそのために歩を傷つけることを考えただけで、手のひらが冷たくなった。
「歩……」湊が言いかけたとき、工房の扉が低い音を立てて開いた。入って来たのは清掃員の老人で、二人を見て一瞬目を細めると、にやりとした笑みを浮かべた。「まだいたのか。夜も遅いぞ」
老人は無言で棚の方を見やり、ふと古い箱を取り出してきた。煙草の匂いがする紙包みだ。箱の蓋の裏には、何枚かの古い写真と一緒に、黄色く変色した紙片がテープで貼られていた。湊はその紙に見覚えのある字を見つけ、手が震えた。そこにはこう書かれていた。
『連続使用は副作用を強める。強度に比例して、当面の間――期間の伸びあり。使用は十二時間以上の間隔を空けること。』
湊は紙を読み終える前に、胸の中がざわつくのを感じた。十二時間以上の間隔。連続使用で副作用が強まる。つまり、何度も繰り返せば繰り返すほど、相手の直感が長く、深く失われる可能性があるということだ。
「……そんなことまで書いてあったのか」湊は紙を返し、額に手を当てた。背後で雨の音が減り、窓の向こうに薄く光が差し始めている。朝が近づいているのだと気づく。時間がないに