雪国の郵便局で生真面目な弁当屋は観客のいない舞台に立つ

雪国の郵便局で生真面目な弁当屋は観客のいない舞台に立つ 第5話「第4章」

雪は一晩中、屋根を慣らすように降り続いていた。椎名直哉の弁当屋「木洩れ日」は、早朝の白い息と共に目を醒ます。戸を開けると冷気が一度に流れ込み、鉄鍋の縁から上がる湯気が窓ガラスを曇らせる。直哉はうつむきながら米を研ぎ、手早く木のしゃもじに力を入れた。季節の匂いが湯気に混じる。焦げた味噌のにおい、手に残る塩の粒のざらつき。朝はいつも、作ることだけしかない。

雪は一晩中、屋根を慣らすように降り続いていた。椎名直哉の弁当屋「木洩れ日」は、早朝の白い息と共に目を醒ます。戸を開けると冷気が一度に流れ込み、鉄鍋の縁から上がる湯気が窓ガラスを曇らせる。直哉はうつむきながら米を研ぎ、手早く木のしゃもじに力を入れた。季節の匂いが湯気に混じる。焦げた味噌のにおい、手に残る塩の粒のざらつき。朝はいつも、作ることだけしかない。

郵便局の自動ドアが外の寒さを吐き出しながら閉まる音がした。ベルが二回、鈍く鳴る。直哉は包丁を止め、袖で手を拭いた。客かと思ってレジに向かえば、白いマフラーを巻いた宮坂悦子が入ってきた。郵便局の局長代理だ。顔は疲れているが、目だけは町の義務のために研ぎ澄まされている。

「おはようございます、椎名さん。時間、いいかな?」

「おはようございます。どうぞ、熱いの淹れますよ」

悦子の指先がカウンターに触れると、冷たさが伝わってきた。直哉は湯気の立つお茶碗を差し出し、悦子はそれを両手で包むように持った。

「先日の町のイベントのことで。郵便局で告知する件、正式にお願いしたくて」

直哉は背筋を伸ばした。言葉より先に、胸の奥に小さな緊張が走る。町で開かれる「縁札(えんふだ)フェスティバル」。郵便局が中心になって宣伝している――それは既に町で囁かれていた。縁札のランク、得票。関係を評価する仕組みだ。直哉は出店を断ることもできたが、拒否する代わりに自分のやり方を提案していた。――観客のいない回を一枠作ってほしい、と。

悦子はその提案を端的に受け取れないらしかった。お茶を一口含んでから、言葉を選ぶように話し始める。

「郵便局としては、参加者全員に公平に扱ってほしいという声が多いの。広告も出している。町の活気を取り戻すために、票が集まる仕組みが必要で……。ただ、あなたの言う『無観客回』というのは、どういう意図なの?」

直哉は見開いたまま唇を開いた。「観客がいると、関係は観客に消費される。誰かの評価や噂で測られる関係を、僕は作りたくないんです。だから一回、観客がいない場で、二人が共同で作るものだけに気持ちが残るか確かめたい」

悦子は静かに頷いたが、その目には困惑と職務の板挟みが映っていた。「大泉課長に相談しないと。彼は数字に厳しいから」

大泉誠は、町役場と連携してイベントを取り仕切っている人物だった。背が高く、頬骨が張っている。電話でしか会ったことがないが、町のためと称して物事を強引に進める男だと噂されている。それは悪意ではなく、追い詰められた必死さだ。直哉はその点を知っていたが、言葉にはしなかった。

その日、午前の鐘が鳴って間もなく、大泉が郵便局から直哉の店へと現れた。長靴の音が雪を踏むたびにリズムを刻み、襟の振動が冷気を引き裂いた。大泉はコートを脱ぐと、ふわりと店内の匂いに眉を緩めた。商売人の嗅覚が働いたように見えた。

「椎名さん、直接頼みたい。縁札フェス、うちの局と町が共同主催でやる。観光客を呼ばんと……収入が落ちている。弁当屋さんの名が挙がっただけで、町のPRになる」

「無観客の回については、署内で議論しました。だが、イベントは『公開』が前提。観客がいない回は評価対象から外す――でなければ、票を操作する温床になりかねません」

大泉の声には理屈と冷たさが同居していた。直哉はそれを静かに受け止めながら、店の隅に置かれた小さな木箱に目を落とした。そこには、彼が大事にしている道具が入っている。しゃもじ、布巾、木の弁当箱。どれも長年使い込まれた面影を湛えている。

「だけど、観客がいると、それでしかない評価が生まれる。誰かの選択が奪われる瞬間をたくさん見てきました。僕は、それを変えたい」

直哉の声は震えていなかった。そこに確かな怒りも不満もあったが、何より守りたいものを言葉にしていた。大泉はしばらく黙ってから、書類を机に滑らせた。白い紙に黒々とした活字体で、参加基準が並んでいる。

「一つ言っとく。無観客回を認めると、透明性の担保が必要になる。君の提案はいいが、ルールを作らねば。でなければ公平性を求める他の出店者が黙っていない」

「公平性って、何のための公平性ですか? 誰かが誰かを見て得するための公平性なら、僕は賛成できない」

「感情は計れない。だからこそ、票で決めるんだ」

その言葉に、直哉の胸に小さな波紋が広がる。――感情は計れない。直哉は自分の持つ、少し変わった能力のことを思い起こしていた。二人が共同で作ったものにだけ気持ちの痕跡が残るという力。彼はそれを人前で語ることはほとんどなかった。便利で万能なものではない。決めつければ痕跡は消え、急げば共同制作は壊れる。代償もあった――痕跡を覗こうと強く意図したとき、胸を切られるような痛みが走り、しばらく五感が鈍る。

それを確かめる機会が、直哉の弁当屋には日常的にある。常連の高橋玲奈は、直哉が開店する前から手伝いに来る若い女性だ。今日も、エプロンを前で結びながら店に入ってきた。雪のついた髪が乱れている。玲奈は幼馴染であり、誰よりもこの店と直哉を知る存在だった。

「また大騒ぎ? あのイベント、見た人の噂だけが残るの、私も嫌だよ。椎名さんの考え、面白い。やってみようよ」

玲奈の瞳は冷たい朝の光を映していた。直哉は救われる思いがした。だが、彼は慎重だった。能力は実験によって条件と代償を示さねばならない。今日の朝、彼は言葉よりも手を選んだ。

「じゃあ、一緒に作ってみようか。ゆっくり、焦らずに」

二人は台所に立ち、初めて一緒に「無観客のための縁札」ではなく、小さな弁当とおにぎりを作り始めた。飯を握る。煮物を切る。切っ先を合わせる。呼吸が合わさるたびに、直哉には奇妙な波が伝わってきた。粒子のように、誰かの居心地や昔の約束、些細な後悔がこびりついている。だがそれは言葉ではない。触感と匂いと音が混じった痕跡だった。

手が重なった瞬間、直哉はそれを覗いた。ほんのわずかに意図を込め、痕跡をなぞるように――「これには、どんな気持ちが残っている?」と。だが言葉にしてしまえば、触れてしまえば、痕跡は消える。案の定、掌に伝わる温度がふっと薄くなり、味噌の香りが散った。直哉の胸をするどい痛みが襲った。目の前が揺れて、数秒息が詰まる。玲奈が慌てて背中をたたく。

「大丈夫? 椎名さん!」

直哉は咳き込むようにして顔を上げた。「ごめん、ちょっと……力入れすぎた」

痕跡は彼の意図によって見えなくなる。彼はそれを再確認した。だがそれだけでは終わらない。夕方、イベントの事務的な締め切りが大きな足枷となって圧し掛かる。大泉が提示した期限は厳格で、出店者たちは短時間で縁札を量産し、応募者は事務局に提出しなければならなかった。時間が迫れば、人は走る。走れば共同制作のリズムは崩れる。

郵便局の受付は、次々と町の出店希望者の話し声で満ちていた。挨拶もそこそこに、桐生舞という女性がやって来た。彼女はイベントでの人気を既に得ているようで、髪の毛を丹念にセットし、派手なスカーフを巻いていた。周りの視線が彼女に集まる。直哉は心の中で小さな針を感じた。舞は無意識に人の注目を求めるタイプだった。彼女の笑いは、自然と誰かの評価へと