雪国の郵便局で生真面目な弁当屋は観客のいない舞台に立つ 第23話「第21章」
雪はゆっくりと、郵便局の窓ガラスに音もなく降り積もっていた。硝子の外側に白い薄絵ができて、灯りを通した雪の粒が小さなランプのように光る。沢弁当の裏口で、澤日和はエプロンの裾を引き寄せたまま立ち尽くしていた。手のひらに残るごはんのつぶ。冷えた空気が鼻の奥に刺さると、昨夜の失敗の匂いがよみがえった――混じってしまった、第三者の期待の味。
雪はゆっくりと、郵便局の窓ガラスに音もなく降り積もっていた。硝子の外側に白い薄絵ができて、灯りを通した雪の粒が小さなランプのように光る。沢弁当の裏口で、澤日和はエプロンの裾を引き寄せたまま立ち尽くしていた。手のひらに残るごはんのつぶ。冷えた空気が鼻の奥に刺さると、昨夜の失敗の匂いがよみがえった――混じってしまった、第三者の期待の味。
「日和さん」
声は郵便局の佐渡(さど)局長だった。佐渡は雪の重みで首をすくめながら、封筒を指先で擦っている。封筒の角は濡れて、ポストから持ってきたばかりのようだ。差出人は県の文化課、規制の文字が見えた。
「暫定の措置です。縁札の運用に関する一時的な規制。窓口で読む行為は当面控えるように、との通達がありました」
日和は言葉を飲み込んだ。郵便局の暖簾の向こう、ロビーには数人の住民がコートを脱ぎながら噂話に花を咲かせている。噂は雪のように、音だけで降ってくる。日和の胸の中で、小さな舞台が震えた――観客のいない舞台。あの日、照明が急に照らされてしまったのだ。
「でも、一方的に封じるのは違う。彼女の能力は制度で守られてきた」と局長は続けたが、その目には不安が宿っていた。規制の文言は曖昧だ。混乱と危険を理由に取られた措置だが、誰がその「混乱」を作ったのかは書かれていない。
郵便局の扉が開き、青山美香が雪を叩き落として入ってきた。若く、まっすぐな郵便局員だ。彼女の肩には、昨夜の出来事を見た者たちの怒りと疑念が重そうにのしかかっている。
「告発の動画を残したのは、局にいた人たちの中だけじゃないみたいです。ネットにも出て、街中で話題になってる。『第三者の期待を注入した』っていう言い方で。私、見ましたけど……編集が入ってるように見えました」
美香が差し出したスマホの画面には、先週の一件の切り取りが再生されていた。カメラはゆっくりと回り込み、局の中を一定に追う。――まるでステディカムで注視するかのように、告発の瞬間を確定させるために作られた映像だ。音声は揺れて、会話の断片だけが漂う。日和の口元は乾いた。
「編集……誰が?」
「わからない。だけど、編集があるなら『混乱』を演出した可能性がある。そう言えば、告発したふたりが証言を固める前に、縁札の結果が一気に広まった」
その瞬間、裏口の扉が勢いよく開いた。来客は馴染みの顔、倉本大樹だ。大樹は駅前の小劇場を仕切る男で、日和の“共同制作”の実験に何度も協力してくれた仲間でもある。手には白い包みを抱えていた。中身は木の札が二つ、薄く紙で包まれている。
「これ、試してみるつもりで作ったんだ。日和、君にしか見えないものがあるなら、君のやり方を守ったうえで、きちんと証明したい」
大樹は包みをテーブルの上に置くと、札をそっと広げた。二人が手で彫り、絵を重ねたものだ。二人の共同作業の痕跡がある。日和は知らずに指先を伸ばしていた。温度が指先に伝わる。木の香り、削り屑の乾いた匂いが鼻孔を打つ。
「やめて」と誰かが言った。それは佐渡局長の声だった。しかし日和はもう手を引かなかった。木札に触れると、感覚が開く。共同で作った物だけに残る“痕跡”が、かすかに輪郭を持って現れる。そこにあるのは、二人だけの声、手つきの時間、互いの呼吸が刻んだ溝。
だが、前よりも薄い。輪郭は揺れて、第三者の舌の味が混じろうとする。日和はそれを感じ取り、歯を噛んだ。あの日――彼女が他人の期待を混ぜてしまった瞬間を思い出すと心臓が跳ねる。あのとき、彼女は自分の見解を確定させるために「決めた」瞬間があった。決めることで見えなくなった。あの禁止を、彼女は身体で知っている。
「見える?」と大樹が耳元で尋ねる。雪の音が窓から忍び込むように、部屋の中を満たした。
日和は首を振った。薄い輪郭が、まるで雪の上の足跡のように消えかかっていく。彼女は試しに一つの判断を口に出してみた――「これは、別れの痕跡だ」と。しかし言葉が出た瞬間、感覚が塞がれた。風が止む。木札が重さを失い、指先は空気しか触れられない。目の前の二つの彫り跡は一色の影のようになり、微かな震えが耳鳴りになって返ってきた。痛みではない。代償が喉の奥に冷たく広がる感覚だ。
「戻ってきたか?」と美香が囁いた。日和は小さく顔を上げた。喉がカラカラで、味覚の端に金属の味がした。これは以前にもあった。「決める」ことで彼女は、その対象に対する多層的な読みを失うのだ。判断は情報を刈り取る鋏になる。刈られた刃は自分の手も切る。
「代償を見せてくれましたね」と佐渡は黙って頷いた。「危険はある。だから規制が出たんだ。だが、封じることは――」
「それが私の仕事なんです」と日和は短く言った。声は震えないよう努めていた。観客のいない舞台に立とうとする人間が、灯りを奪われるわけにはいかない。彼女は弁当箱を詰めるときと同じ手つきで、しかし今は自分の能力と向き合っていた。
部屋の空気が張り詰める。そこへふいに、局のドアが開いて扉の隙間から冷たい風が吹いた。来客は告発した男女のうちの一人、筒井絵里香だった。頬は紅く、怒りで目が強ばっている。手には昨日の縁札のコピーの束を抱えてきた。
「あなた、説明すべきよ」と絵里香の指先は震えていた。彼女は日和を見据え、そこに演者としてではない真人間の痛みを見せつけた。「私たちの関係が壊れた。あなたが介入したからよ!」
声は局内に響いた。噂はまた雪のように舞い上がる。誰かが隣の椅子で舌打ちする。日和は絵里香に向き直る。弁当屋の日々の手つきで、彼女はゆっくりと話し始めた。
「絵里香さん、あの日私がしたことは――あなたの悲しみに触れようとして、でも失敗しました。あのとき私が決めてしまった。だから、あなたの声が届かなかった。ごめんなさい」
絵里香の瞳に、怒りの下にある、真っ直ぐな虚無が見えた。言葉は返ってこない。だがその代わりに、筒井の隣にいた筒井の相手、田中淳平が一歩前に出た。彼は絵里香の肩に手を置き、低い声で日和に言った。
「俺たちだって、責めて終わらせたいわけじゃない。誤解があったのかもしれない。でも、今はどう話せばいいのか、わからない。その場の空気が全部を決めてしまった。もし、もう一度――ただもう一度、二人で作るところを見せられたら」
その言葉は薄氷を渡るように冷たく、同時に生き物のように温かかった。日和は震える指で桜の箸を握りしめた。共同で作ること。彼女の能力はただ読むだけではない。二人が一緒に作るプロセスそのものに残る痕跡を開くことができる。しかし、それには時間と相互の意思が必要だ。急げば、共同は割れる。
「封印しましょうか」佐渡が静かに提案した。「日和さんのためにも、町のためにも。制度が落ち着くまで、貴女の行為を止めさせる。安全第一だ」
局の中に重たい沈黙が流れた。誰も答えなかった。その時、倉本大樹が立ち上がった。彼の目は疲れているが、決意で鋭く光っている。
「封印なんて、逃げだ。制度に従うのが安全だと言うなら、確かに安全だ。だが、誰かが勝手に安全を定義しているだけだ。俺は劇場で、観客がいない舞台をやってきた。観客が来ないからって、舞台を消すことはしなかった。日和のやり方を、