植物園で目立たないヒーローは小さな店を救う 第23話「第21章」
温室のガラスは夕刻の雨を細い筋にして受け止め、電灯は湿った葉を金色に縁取っていた。土の匂いと発酵した葉の甘さが混ざる中、白河は小さく息を吐いた。彼の手は封筒を握りしめ、紙の縁が赤く擦れている。
温室のガラスは夕刻の雨を細い筋にして受け止め、電灯は湿った葉を金色に縁取っていた。土の匂いと発酵した葉の甘さが混ざる中、白河は小さく息を吐いた。彼の手は封筒を握りしめ、紙の縁が赤く擦れている。
「ここで、いいのか?」透は声を落とした。植物園の奥、一般客の足が届かない管理通路の端。熱気と水滴の音が二人の間の沈黙を溶かしてゆく。
白河は頷き、封筒を差し出した。封筒には薄く、内部のページを透かすような重さがあった。透の指先が紙に触れると、ほんの一瞬、手のひらの温度が変わった。共同で作ったものにだけ残る「痕跡」が、封筒の折り目に潜んでいる。白河と透がここにいる——その事実が、物質の表面に微かに刻まれていた。
だが透は知っている。痕跡は静かで繊細だ。決めつけるように読み解こうとすれば色は消える。急いで形にしてしまえば、そもそも痕跡が残らない。だから今は、ただ触れて、感じるだけだ。
「これを……討論会で使うのか?」透の声は乾いていた。
白河は顎を引いた。「あのリスト。強制的に閉店に追い込むための判断記録。設備不備とか、平気で数字の改ざんをしてる。俺が担当してた分だ。内部のログもある。だが、これを出したら、俺は——」
言葉が切れ、白河の肩が細く震えた。彼の目は、植物灯に反射する水滴のように揺れている。透は封筒を引き寄せ、内側のページを一枚一枚めくるようにして、ふたりの手で小さな作業を始めた。討論会用の証拠を隠すために、ただの園内案内の折りパンフレットに滑り込ませるつもりだった。共同で折る作業が、痕跡を確かに残す条件になる。
「ここで一緒に折る。ゆっくりでいい。急がないで。」透は低く言って、白河の手を取った。紙を合わせる指先が触れ合うたび、ふたりの気配が物質に混じる。土の匂いが近く、白河の呼吸が荒い。透は、痕跡を探る準備をした。感覚を澄ますと、紙の折り目に色が差して見える——白河の恐れ、吐露するときの静かな決意、そして、遠くに小さく揺れる希望。
初めは淡い色だった。白河の「失うもの」への恐怖は灰色に近く、だが確かな線で走っている。透はその色に触れ、慎重に広げようとした。だが、彼の心のどこかが早く結論を求めた。
「彼は裏切ったのか、仲間なのか——」透の頭が、勝手にラベルを探す。裏切りならば対策はここ、仲間ならば守り方は別だ。彼は心の中でそのラベルを当てはめそうになった瞬間、紙に差した色が一瞬で掠れていくのを感じた。痕跡が消えかける。決めつけることが痕跡を曖昧にするという感覚が、身体の奥で鋭く反発した。
「やめろ」白河の声が、驚きと切羽詰まった厳しさを帯びていた。「決めないでくれ。俺のことを、ここで決めないでくれ!」
透は自分の手を引いた。心臓が早鐘のように鳴る。紙の折り目は無傷だが、痕跡が浮かんでこない。二人で作った行為の速度が、ぎこちなくなっていることを透は知った。焦りは共同作業を壊す。彼らが急いだ瞬間、インクはにじみ、糊は変な位置に固まる。小さな予定外が重なれば、証拠としての信頼は簡単に崩れる。
「ゆっくり、でいいんだよ」恵が肩越しに言った。管理通路の影から、蓮と明里と恵が現れた。三人とも濡れた髪を雑にまとめ、唇を噛んでいる。彼らは自分の意思でここに来た。仲間たちの顔に、透は少しだけ安堵を覚えた。
「白河さんがこれを出す覚悟をしてくれたんだ。俺たちが守る。だが無理はしないでほしい」明里の声は冷静で、しかしどこか震えていた。
白河は小さく笑ったように見えた。「覚悟なんて大袈裟だ。正直、怖いだけだ。だが、あの店のことを考えると——」言葉が消える。植物の葉に降る雨音が、その空白を埋める。
透は再び紙を折り始めた。今度は無理に色を探さない。手と手が同期すると、折り目が静かに合わさってゆく。恵が小さく息を吹きかけ、指先を整える。蓮は両手でパンフレットの端を押さえ、透を見つめる。その視線が透に「急ぐな」という合図を送った。
だが、痕跡を取る代償は、やはり現れた。折り目をたどる最中、透の視界に薄い白い霧が落ちてきた。身体が重くなり、記憶がふわりと薄れていくような感覚。彼はあわてて目を閉じて、折り目を確かめる。掌に残る震え。ほんの数十秒のことのはずだが、目を開けると白河の表情が少し変わっていた。彼らが一緒に折っている最中、透は深く白河の恐れの層を覗き込み、そこで代償として自分の感覚の一部を差し出していた。短期記憶の一部が、使徒のように抜け落ちた。
「……大丈夫か?」蓮が訊ねる。透は口を開けたが、直前の数分間の流れがふわりと抜けている。何を話したか、誰が最初に来たか、その連続が欠けている。彼は頭を振って、言葉を探す。だが口から出たのは、ふとした雑談のひとことだった。
「水やりの時間、遅れてたな」それは、無関係な記憶の断片だった。仲間たちの顔に不安が走る。
「透、大丈夫?」恵が近づく。彼女の指が透の手の甲を押した。透は暖かさを感じたが、同時に頭の奥で鈍い痛みが波打つ。代償は毎度同じではない。今回の代償は「その場の直近の出来事」を失う、という形で現れた。重要な時間が抜け落ちていることが、いま最も怖い。
「……うん、多分。ちょっと、頭が回らないだけ」透は微笑もうとしたがそれは歪だった。恵は眉を寄せ、白河を見る。白河はそれを見て、申し訳なさそうに肩を落とした。
「この封筒の中身は、討論会で全部晒すつもりだ。ただし、白河は証言を控えたい。立場が無くなる。俺はそれでもいいと思ってる。だが俺ひとりの言葉じゃ弱い。映像とログ、そしてここで共同作業したことの物証が必要だ」蓮が低く言った。
「映像は?」明里が訊いた。討論会は生放送になる可能性が高い。現場での証言だけでは相手側の反撃も激しい。彼らは即座に防御の段取りを考える。植物園の管理棟には監視カメラがあるが、内部のものはすべて園側の管理下にある。白河の資料は内部文書だ。公開すれば白河の立場は危うくなる。彼はそれをわかっているからこそ、渡してくれたのだ。
透は封筒をそっとパンフレットに差し込み、糊の代わりに小さな折り札を作ってその上を押さえた。「これで来場者の手に渡る一部として紛れさせる。誰かが『共同で作った物』として手に取れば、痕跡が残るかもしれない」彼の提案に、恵と蓮は肯き、白河は目を閉じた。
だが扉の向こうで、足音が近づいた。スタッフの巡回か、あるいは——。瞬間、恵が薄く息を呑む。透も耳を澄ませる。足音は一度止まり、ガラスの反射の中に人影が揺れた。巡回のはずだが、止まった場所が温室の反対側ではなく、裏手の監査室に向かっているように見える。
「待って」白河が囁いた。「監査の時間は普段もっと遅い。誰か、見てくれないか」
蓮がすばやく動いて、入り口の方を見張りに行く。明里はスマートフォンを取り出し、手早く回線を確保する。恵は封筒を胸に近づけ、守るように腕を組んだ。透はパンフレットの上に手を置き、そこに今刻まれている微かな温度差をもう一度確かめる。
そのとき、封筒の端に差し込まれた薄い紙片が、風に揺れて透の指先に触れた。彼は何気なくそれを引き抜く。そこには小さな写真が一枚、四分の一サイズで挟んであった。写真の中の人物は笑っている女性。肩