植物園で目立たないヒーローは小さな店を救う 第18話「第16章」
ビニール屋根に雨粒が小刻みに当たる音が、植物園の温室棟には似つかわしくないリズムを刻んでいた。湿った空気の重みが指先に伝わり、杉本陽斗(すぎもと はると)は素手でポスターの端を押さえた。根っこ屋の手描きポスターは、乾きかけた絵の具と指紋の凹凸が残るキャンバスのように見えた。匂いは土と緑茶、インクと人の息が混ざった匂いで、彼の胸をざわつかせる。
ビニール屋根に雨粒が小刻みに当たる音が、植物園の温室棟には似つかわしくないリズムを刻んでいた。湿った空気の重みが指先に伝わり、杉本陽斗(すぎもと はると)は素手でポスターの端を押さえた。根っこ屋の手描きポスターは、乾きかけた絵の具と指紋の凹凸が残るキャンバスのように見えた。匂いは土と緑茶、インクと人の息が混ざった匂いで、彼の胸をざわつかせる。
「ここに、三宅が描いたツタを重ねよう。色はもう少し深くして」 三宅萌(みやけ もえ)が息を弾ませ、短い筆で刷き足していく。萌の袖口には泥とペンキがついていて、彼女が笑うたびに小さな葉の形が舞って見えた。
「それなら、こっちに来て、根岸さんの手書き文字を残しておこう。手の跡、残るように」 根っこ屋の店主、根岸夢(ねぎし ゆめ)は細い手でマジックを取り、ゆっくりと「根っこ屋」と書いては指先でわずかに滲ませた。文字の縁に残る指紋が、見る者に「生」を与えるようだった。
安藤翼(あんどう つばさ)は段ボールから小さなガラスの蓋を取り出し、そこへ湿らせたミズゴケを詰めた。蓋の内側に、みんなで小さな手印を入れていく。共同作業の象徴──それが陽斗の能力が反応する対象だった。「二人以上でつくったもの」にだけ、心の痕跡が薄く残る。彼は目を閉じると、いつもそれを「見よう」としたわけではない。ほんの指先で触れるだけで、色や温度のようなものが指の腹に浮かんでくるのだ。
指先でポスターに触れた瞬間、紫がかったあたたかい糸が彼の感覚に這い寄った。糸は萌の笑い声と根岸の呼吸を揺らす。そこには「守りたい」という固い結び目がいくつもあり、誰かが差別的な評価や見せ物にしてしまうことへの恐れがにじんでいた。共同創作の中に、根っこ屋を取り巻く人々の――店を守るために集まる人々の「決意」が残っていた。
陽斗はその糸をたどりながら、一つの言葉に固執した。もしこの「決意」を、フォーラムでの反論の切り札にできれば──と思った。彼はいつものように小さな声で、三宅と安藤に寄り添って囁いた。
「このポスター、ただ『可愛い』って言わせない。見せ方を変えれば、来る人の気持ちが、ほら、動くはずだ」
三宅が顔を上げ、笑みをかすかに歪めた。「陽斗、なんか急に上から目線じゃない?でも、この色はそうね…人が守るってことを見せたい。」
根岸が手を止め、墨の光る字をじっと見た。「守るって…私たち、守ってほしいだけなのかね?」
その言葉に、陽斗の胸がぎくりと小さく縮んだ。自分たちが守られる側であることを、彼はいつも内側で感じていた。目立たぬ存在でいることは、守る側に回ることでもあった。けれど今回、守る対象を守るために動くことが彼の目的でもある。矛盾が渦を巻いた。
ビニール越しに、植物園のホールから低い音が伝わってくる。スポンサー側のプレゼン練習だ。プロジェクターの光が白く揺れ、洗練されたCGの都市景観と「恋人向けスペース」なる模型が映し出された。画面の端には男性のアナウンス(録音だとわかる)が、「訪れるカップルの幸福を最大化する演出」と機械的に語る。それは確かに見栄えがして、行政に受けが良さそうな言葉で詰められていた。
その瞬間、陽斗の感覚にもう一つの反応が来た。スポンサーの模型――大理石に見立てた細工やLEDの照明には、ほとんど何も残っていなかった。工場で「仕上げられた」痕跡が、感じられない。だが彼は薄い妙な動きを察した。作られた「恋人像」を演出するために、演者の表情データを収集して微妙に編集している。人の感情を演出に転換する設計図のようなものが見え、そこには他者の選択を消費する冷たい厳しさが潜んでいた。
「それは……偽物だ」 陽斗は吐き出すように言った。自分の言葉は、いつもより震えていた。
「偽物?」 安藤が眉を寄せる。「どういう意味?」
陽斗は言葉を選んだ。彼の能力は、誰かの本音を直接読むものではない。共同で作られたものの痕跡を読むだけだ。スポンサーの模型に痕跡がないという事実を伝えることはできても、「あの人たちは嘘をついている」と断定することはできない。だが彼は、そこにあった設計図のようなものを、ついひとりの言葉で"決めつけ"てしまった。
「彼らはこれを『恋人向け』として売る。過剰に演出して、選択を簡単に見せる。だけど…」 陽斗は言葉を続ける前にふと迷った。言語化するたび、彼の手の中にあるものが変わる感覚があった。共同制作の痕跡は、定義されるほど色褪せる。彼はそれを知っている。
しかし芽生えた怒りが、注意を奪った。陽斗は勢いで続けた。「ここで育むものは、人が選んで育てるんだってことを見せよう。安っぽい演出に売られちゃだめだって、わからせるんだ!」
言葉を発した瞬間、指先で触れていたポスターの色が微かに沈んだ。萌が不意に息を飲み、根岸の目が曇った。筆跡をなぞった指の跡が、べたつき始める。三宅が慌てて布を取り、撫でるようにして乾かしたが、絵の具は滲み、色が下から溶け出したように下地に混ざり始めた。
「陽斗、何をしたの?」 三宅が短く言った。安藤は蓋のついた小さなテラリウムを見つめた。ミズゴケがほんの少し縮んで見える。共同で押し込んだ小さな手形が、ぼやけて輪郭を失っていく。
陽斗の胸が冷えた。「決めつけたから……見えなくなったんだ。」
根岸が恐る恐る息をつく。「あの、あのポスターは……私たちの手で、守るっていう気持ちを入れたはずだったのに。」
「共同でつくるってことは、勝手に『こうだ』って決めちゃいけないんだ。そうすると、残るはずの一つ一つの痕跡が、逃げるように消える」 陽斗の声は震えていたが、言い訳ではない。彼はいつもこの「不可逆な代償」を恐れていた。能力は便利ではあるが、使い方を間違えれば――共同の絆そのものを壊すことがある。
「でも時間がないのよ!」 三宅が手を強く握りしめた。「フォーラムは明日よ。園側もスポンサーのプレゼンをまとめてる。これが壊れたら、もともと足りない材料で何を出せっていうの?」
安藤が低く唸った。「焦るとまた壊す。俺たちの作業は、急かされて壊れるのが一番だめなんだ。だったら、作戦を変えよう。見せ方を変えるんだ。壊れない形で残す方法を探す。」
彼らは結局、手直しを選んだ。だが直すたびに、共同で形作った痕跡は薄くなっていった。貼り直し、重ね塗り、押し直し──すべてが「急がされた共同作業」だった。作業台の隅に置かれたガラスの小瓶の中の小さな苗が、葉を縁からわずかに落とし始める。安藤がそれを見て手を伸ばし、静かに水を差した。
そのとき、温室の入り口が引かれ、平島(ひらしま)という植物園の運営担当が入ってきた。彼の革の手帳には表彰用の勲章が描かれた資料が挟まっていて、その来訪は何かを告げる雰囲気を持っていた。
「皆さん、ちょっとよろしいですか」 平島は手を差し出しながら言った。「管理側としては、スポンサーの提案に興味がある。だが、これを来月の『園の祭典』で最終決定する。フォーラムは、あくまで意見聴取の場だ。だがね、東堂(とうどう)さんの陣営は、先行でメディアスポンサーを抑えている。つまり、フォーラムの様子が生配信される可能性が高い。明日の討論で大きな印象