劇場の奈落で代筆屋と依頼人は気まずい再会をやり直す 第27話「第二部幕間」
奈落は、いつものように音を吸い込んでいた。床板の継ぎ目から立ち上る古い木の匂い、湿った空気に混じる埃の甘さ。上手の戸袋から舞台灯の光が漏れて、床に差した一本の細い帯が床塵を金色に縁取っている。僕はその帯の先、薄暗い角に置かれた小さな木箱の蓋をそっと開けた。中には、先ほどの稽古で二人が共同で書き残した紙片が折り重なっている。紙の端に、僕たちの指の跡のような淡い光が揺れて見えた。
奈落は、いつものように音を吸い込んでいた。床板の継ぎ目から立ち上る古い木の匂い、湿った空気に混じる埃の甘さ。上手の戸袋から舞台灯の光が漏れて、床に差した一本の細い帯が床塵を金色に縁取っている。僕はその帯の先、薄暗い角に置かれた小さな木箱の蓋をそっと開けた。中には、先ほどの稽古で二人が共同で書き残した紙片が折り重なっている。紙の端に、僕たちの指の跡のような淡い光が揺れて見えた。
「見える?」と高城綾が囁く。声は低く、震えていた。彼女は袖口で腕を擦りながら、段差に腰を下ろしている。稽古着の細かな綻びに舞台灯の光が当たって、そこに小さな影が生まれている。
僕は手袋をして、紙片を空中に掲げた。紙の繊維に沿って、二色にも見える痕が波打つ。痕跡は僕たちが共に発したものだけに残る。そう説明して、僕は指先をその光に触れさせた――触れた瞬間、冷たい震えが指先から肘まで走った。痕跡の光は微かに震え、そして僕が内容を推し量ろうと目を細めるとたちまち薄れていった。
「また……消えた」綾の吐息が、紙の上で小さな渦を作る。
「ごめん、我慢だ」僕はすぐに手を引いた。舌先に金属の味が残る。痕跡は、決めつけるほど、明瞭さを失う。何がどうして残るかを断定しようとする――たとえば『この行は彼の本心だ』とラベルを貼るような行為は、痕跡そのものを曇らせる。いつもそうだ。言葉にすると単純だが、実際に目の前で痕跡を消してしまうと、違う種類の痛みが胸に広がる。
綾は僕の指の震えを見て、眉を寄せた。「もっと見たいの。どんな風に書いたか、どんな気持ちが混じってるのか。私、知りたいんだ」
僕はその欲望の形をよく知っている。知りたい、確かめたい、手にとって名前を付けて安心したいという欲。だけど、痕跡はそういう見方に脆い。だから僕はいつも、共同作業の時間を引き延ばすように促す。徐々に、繰り返し触れ合う。決めつけずに、語り合って、書き直す。だが今、時間が足りない。劇場のスケジュール、資金、そして何より噂がもう動き出している。
「少しだけなら」僕は提案した。慎重に、言葉を紡ぐように紙に向かうと、綾も息を詰めてその端に近づいた。二人の指先が同じ行に触れる。指先の温度が重なり合う瞬間、紙の繊維にもう一度淡い光が滲んだ。痕跡は輪郭を取り戻し、微かな色彩がゆっくりと揺れる。僕らは同時に短い台詞を書き足した。綾の筆跡と僕の添えが、ひとつの線を作る。
「これは?」綾の声の端に期待が混ざる。
「多分、謝りたかったんだろうね。だけど、謝り方がわからなかった」僕は紙を見つめながらそう言った。彼女の顔に一瞬、僅かな微笑みが差したように見えた。
だが、僕が痕跡の色合いから意味を引き出そうと文章の文脈を整え始めた瞬間、あの忌まわしい違和感が起きた。痕跡が、紙の繊維の奥で渦を作る。僕が「これはこうだ」と決めつけると、色がすうっと退いていく。僕は焦って、もっと情報を取り出そうと筆を走らせた。綾もそれに合わせるように早めた――二人が急ぎ始めたその時、紙の端が弱っているのに気づかなかった。
紙は、勢いよく裂けた。乾いた音が奈落の天井に反射し、埃がひらりと舞う。裂け目から飛び散った繊維に触れた瞬間、僕の頭の中の一部分がふっと抜け落ちる感覚があった。目の前の綾の顔が、一瞬だけ、名札の縫い目の細部の記憶のようにぼやけた。
「なんだこれ……」綾が紙を拾おうと手を伸ばすと、彼女の指先も痺れたように震え、乾いた笑いが漏れた。
代償は必ず来る。共同制作を急ぎ、壊してしまったとき、僕は何かを代わりに失う。小さな記憶、些細な習慣、あるいは声の一節。今回の代償は、僕の中の稽古場のニックネームだった。子どもの頃、近所の子に付けられた「灯(とも)」という呼び名。名前そのものがなくなったわけではない。ただ、その呼び方で呼ばれたときに蘇る匂いや、裏階段の角で笑った具体的な一場面が、今、手の届かない箱の奥に沈んだように感じられた。
「ごめん、綾」僕はそれを謝る言葉にした。綾は黙って僕の手を見る。彼女の手は紙片の細い裂け目にかかり、もう一度ゆっくりと押さえた。
その時、奈落の入口で足音がした。金属製の階段が軋む音。明かりが二人の影を長く伸ばして、背後に人影が現れた。宮地一樹だ。劇場の運営を手伝う職員で、前は舞台監督の下で働いていたやつだ。年季が入ったワークジャケットに、彼の手はいつも何かを握っている。今日は、小さなスマートフォンを握っていた。
「もう出したよ」宮地は無神経に言った。その声は奈落に響いて、僕らの間の空気が一瞬で変わった。
綾の瞳がきらりと光る。手の震えが強くなる。「何を出したの?」
「稽古の短いクリップ。上の人間が資金の話したがっててさ、でも表に出すと集客になる。たぶん、スポンサーの目も向く。いいだろ、これで金が動く」宮地は無邪気に笑った。無邪気って言葉は、時に刃になって戻ってくる。
「勝手に!」綾の声が鋭くなった。舞台灯の細い帯の中で、彼女の顔に怒りと恐れが交互に映る。
「ごめん、でもさ、現実って金だよ。稽古だけじゃ飯は食えない。あの役者たちの給料もさ」宮地は肩をすくめた。彼の言葉には、言い逃れできない事情があった。劇場は赤字続きで、外部の資金が必要だった。だが、僕たちの作業は「私事」だったはずだ。共有されることは承諾の前提を壊す。
僕はスマホを奪い取るような衝動に駆られたが、冷静さを取り戻した。痕跡は、公開されれば第三者の評価によって消費されてしまう。噂はいつの間にか色を付け、他人の期待のための小道具に変わる。僕たちのやり直しが、誰かの金儲けの道具にされることを想像すると、胸の奥が冷たくなる。
画面に映っていたのは、稽古中の二人の短い断片――綾が台詞を言い、僕がそれに応じる。コメントが既に数十、数百と付いている。中には励ましの言葉もあったが、「恋のやり直し屋」「安易な再会商売」といった辛辣な言葉も混じる。評価が渦を作って瞬時に広がる。舞台上の台詞が消費される光景が、目の前で加速していく。
「どうする?」宮地は僕らを見渡して言った。「上はこのまま行けばガラに出るのを望むってさ。客寄せになるんだって。で、来週のゲストに村瀬航が来るって連絡来てる。あいつ、業界のパトロンと仲がいいんだ」
僕の心臓が跳ねた。村瀬航――彼は綾の元恋人だ。偶然か、必然か。宮地の言葉は、奈落の空気を一層冷たくした。
綾の顔が真っ白になり、掌で口元を押さえた。「来るの?」
「来るってさ。上は『公にする良い機会だ』って言ってるよ。スポンサーも呼べるし、チケットも売れる。だけど……」宮地は視線を落とし、ぽつりと言った。「そのぶん、中身は要綿密。上はお前らの関係のナラティヴ化を求めてる」
言葉はそのまま刺さった。ナラティヴ化――僕たちの再会を、きれいな筋書きにして観客に提供すること。修復は、劇場の商品にされる。しかも、僕たちの管理外で。
綾は震える手を、僕の袖口で擦りながらスマホを開いた。彼女の画面に、一件の新着メッセージが表示される。差出人は――「村瀬航」。通知を開く前に、僕は彼女の顔を見た。どうしようもない恐れと、同時に一筋の決意が混じっているのが分かった。
綾は指先で画