劇場の奈落で代筆屋と依頼人は気まずい再会をやり直す

劇場の奈落で代筆屋と依頼人は気まずい再会をやり直す 第20話「第18章」

奈落の冷気が、薄く積もった舞台の埃を揺らした。照明器具の金属の匂い、カーテンを吊るロープの軋み。紙の擦れる音が、静かな劇場のなかでやけに大きく響く。

奈落の冷気が、薄く積もった舞台の埃を揺らした。照明器具の金属の匂い、カーテンを吊るロープの軋み。紙の擦れる音が、静かな劇場のなかでやけに大きく響く。

「……見て」

瑠璃がスマートフォンを差し出した。画面の上で、短い文と画像が回っている。言葉は刃のように切り取られている──「演出臭い」「金稼ぎの茶番」「リアルを食べてエンタメにするな」。リツイート数が伸び、嘲笑のスタンプと共感のコメントがひしめいている。

澪(あさくら みお)は息を詰めて画面を見つめ、白い指先で唇を押さえた。隣の書き割りの端に、彼女と北原(きたはら かなで)が共同で折った紙の小さな手紙が置かれている。まだ少し湿ったインク、指紋の凹み。参加型の準備で彼らが一緒に書き込んだものだ。

「やっぱり、やめたほうがいいのかな」澪の声は紙のように薄く、風に煽られた。

雪村透(ゆきむら とおる)は手を組んで、三歩下がって澪を見た。肌に冷たい汗がにじむのが見える。彼は代筆屋だ。共同で作られたものの表面に残る、誰の言葉でもない痕跡を読む術を持っている。ただしその術は、簡単でない。決まりごとが多く、誤用をすれば大事なものを壊す。

「決して『証拠』にはしないでほしい」透は静かに言った。「痕跡はね、呼び名を与えられると縮むんだ。『愛』だの『嘘』だのと決めつけると、見えなくなる」

「でも、SNSはもう勝手に決めてる。みんなが『茶番』って言えば北原さんもそう見えるかもしれない。私、彼の本心を――」澪は言葉を呑み込むようにして、目を伏せた。

「君が知りたいのは『彼の本心』じゃない。──二人がともに刻んだ痕跡だ」透は伸ばした手の平を、澪の作った手紙の上でゆっくりと動かした。指先が紙の繊維に触れると、冷えた空気に柔らかなうねりが走る。透の視界に、かすかな色と音が浮かんだ。北原と澪の息遣い、躊躇いの間、互いに重ねた言葉の欠片。だがそれを言葉にすると、色は霧のように薄れていく。

瑠璃は不機嫌そうにスマホを拭った。「そんなの、世間に説明するしかないでしょ。作り方を公開して、プロセスを見せる。噂は嘘だって証明できる」

「見せる」ことは簡単に思える。だが石橋(いしばし)、舞台監督の顔が硬くなる。「公開は外圧に屈する形になる。観客のための劇場が、好奇の対象になってしまう。噂を消すには別のやり方がある」

「別の?」澪は顔を上げる。舞台の上、吊られた照明が彼女の瞳を冷たく照らした。

「君が決めるんだ」透は言葉を選んだ。「外の声に基準を与えない。僕の術は手段に過ぎない。共同で何かをつくるとき、その痕跡が残る。だがそのためには、急いで作ってはいけない。誰かの圧力や『正解』に合わせようとすると、関係そのものが壊れてしまう」

澪は手紙をそっと掴んだ。紙の端のインクが指先に付く。紙の表面には、二人の書き込みが重なり合い、互いに訂正し合った跡が残る。だがそこに「北原の本心」といったラベルを貼ってしまえば、その跡は消える。透がこれまで何度も説明してきたことだが、実際に目の前で起こると重い。

「じゃあ、どうすれば」瑠璃がつぶやく。「待つ、ってこと? SNSを無視して、静かにしてれば解決するの?」

「待ち方を決めるのは依頼人本人だ」早瀬が間に入る。劇団の年長者だ。彼は静かに語る。「君たちの参加型の準備は成功している。人を巻き込むことは出来た。外からの揶揄が来るのは想定外じゃない。問題は、その揶揄にどう反応するかだ」

透は深く息を吸った。胸の奥が冷たくなる。彼は今まで、痕跡を読み取るとき、呼吸と心拍に合わせて情報を追う方法を取ってきた。それは肉体的な代償を伴う。情報を引き出すたびに、心の一部が薄くなる。今日はもう二度続けて読んでいたため、疲労が顕著に出ていた。掌に冷たい汗。頭の奥で小さな割れる音がした。

「僕が読む。だが、読む前に約束してほしい。見たいものを命名しないこと。『彼が私を愛してるか』とか『彼が私を利用したか』とか、そういう結論を先に決めないで」

澪は頷いた。小さく、確かに。紙を両手で包み込むように持つ。紙が温かくも、冷たくもない、曖昧な温度を伝えた。

透は手を紙に当てた。痕跡が指先から立ち上る。色は薄い藍色の火の粉のようにちらつき、音は二人が同じ一文を同時に消してしまったときのような、短い溜息。だがそれを言葉にしてしまった瞬間、藍は消える。透はその法則を感じ取り、代わりに感覚で拾おうとした。

「彼は、君が決めるプロセスを怖がっていた」透はぽつりと言った。声は低く、あえて詳しい説明を避ける。「でも、同時に、君と向き合うことを逃げなかった瞬間がある。君のために言葉を閉じた一瞬が、強く残っている」

澪の目に水が滲む。やっと、という表情と同時に、胸の奥に引きつるものが走った。「それって……彼が?」言葉が震える。

「それ以上は言わない」透は断った。「言葉にすると、その瞬間は壊れる。君が自分で見つけるための種を残しただけだ」

その瞬間、舞台袖の外から、低い笑い声が漏れた。誰かが劇場の外で動画を撮り、コメントを載せているらしい。画面の世界は早口で意見を交わし、判決を下す。澪は紙を握る手をきつくした。外の風が舞台の裂け目から吹き込み、折られた紙片を踊らせる。紙の一枚がゆっくりと空中で弧を描き、まるでスローモーションのように遠心力に逆らいながら、澪の足元に落ちた。

「もう一回、二人で作り直すべきかもしれない」石橋が言った。「でも注意しろ。急いでやると、痕跡は残らない。強引に『見せる』ための共同作業は、共同性を壊すだけだ」

「私はもう、他人に進路を決めさせたくない」澪の声は確かだった。舞台の薄暗がりで、小さな光が灯ったようだった。「彼がどう思っているかを、外の評価で決めさせない。私自身で選ぶ。誰かのコメントで、私の人生が曲げられるのは嫌だ」

瑠璃がため息をついて、スマホをしまう。早瀬は澪の肩に手を置いた。その手の温度が、澪に少しの安堵を与えた。

「だったら……」透は一歩前に出た。「君が決めるための『場』を作ろう。ただし、条件がある。公開もプライベートもどちらでもいい。だが共に作る時間を、外圧に左右されない形で守ること。北原が来るなら、彼がその場で本当に手を動かすこと。心のどこかに逃げ場を残すと、痕跡は薄れる」

「手を動かすって、具体的に?」澪は問い返した。

「手紙でも、折り紙でも、舞台上での一行でもいい。『共同で何かを完成させる行為』。それが痕跡を刻む鍵だ。相手が途中でやめたら痕跡は成り立たない。だから、逃げ場は作らない。覚悟が必要だよ」

外の嘲笑がまた聞こえて、舞台の床が震えたような錯覚を起こす。澪は紙の封を開け、内側に折り込まれた小さなメモを見る。北原が書き残した一行が、かすれて残っている。だがそれは断片で、完全な文にはなっていない。

「彼をここに呼ぶ」と澪は決めた声で言った。周囲が驚きを含んだ息を漏らす。瑠璃は眉を上げ、石橋の顎が動く。

「公開か非公開か?」早瀬が問う。

澪は紙を胸に当てた。紙の温度が、自分の鼓動と同期する。風がまた舞って、劇場の奈落でひらひらと、いくつもの紙片が羽のように舞い上がった。光がそれらを掬い上げ、透はその