共同アトリエで兄妹のような隣人は大人になりきれない夜を越える
共同アトリエで兄妹のような隣人は大人になりきれない夜を越える 第8話「第7章」
雨はもう上がっていた。アトリエの窓から差し込む低い夕日が、床の絵具痕を金色に染めている。木の机には乾きかけのパレット、端に寄せられたキャンバス、新聞紙で包んだ陶土の塊が無造作に並んでいた。静けさは、人が去ったあとの重さで満ちている。
雨はもう上がっていた。アトリエの窓から差し込む低い夕日が、床の絵具痕を金色に染めている。木の机には乾きかけのパレット、端に寄せられたキャンバス、新聞紙で包んだ陶土の塊が無造作に並んでいた。静けさは、人が去ったあとの重さで満ちている。
「俺は……行くよ」
久我拓海はそう言って、手に持った紙の封をぎゅっと握りしめた。封筒の角は少し擦れて黒ずんでいる。彼の顔は無表情だったが、指先の震えが経済的な理由を語っていた。彼は数日前、母親の入院費の一部を肩代わりしたばかりだと聞いていた。
「条件はきついって聞いたけど……それでも、家賃と材料代にはなる」と有村菫は言った。彼女は若手で、眼は熱を帯びている。ポートフォリオが膝の上で揺れるたび、紙の角が明かりをはじいた。彼女にとって、あの組織の名前は勝負のチャンスでもあった。
「皆、それぞれの事情があるんだ」大島慎一が肩をすくめ、古びた机の角に肘をついた。彼は長年この場所を使っている常連だ。目は疲れていたが、判断は冷静だった。「分裂するのは仕方ない。だが、同時に、こうして壊れていくのも見たくない」
言葉は空中でぶつかり合い、どうにもならない沈黙が落ちたとき、勝手口の扉が静かに開いた。桐谷小夜が入ってきた。薄手のコートがまだ湿っている。彼女の髪は後ろでざっくりまとめられ、頬は冷えで少し赤かった。蓮は胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。彼女は、兄妹のように隣り合って暮らす存在であり、自分が守りたい対象だった。
「どういうこと?」小夜の声は平常心を装っていたが、両手を重ねたままの指先が震えているのを蓮は見逃さなかった。
「拓海が……契約に応じるって。菫も個人の出展に向けて動く。残る人間は少ない」大島が説明する。言葉は説明に徹して冷たいが、その背後にある温度は誰もが感じていた。
蓮は、口をついて出る言葉を噛み締めた。組織の申し出を断るために、彼は動き始めていた。だが、仲間たちはそれぞれの事情で離れていく。彼の胸は、孤立する恐れで重かった。
「私、明日、担当者と話をする」小夜が言った。言い方に決意はなかった。どこか遠慮がちで、それがまた蓮の胸を痛めた。彼女は一人で行くつもりだというのだろうか。
蓮は咄嗟に提案した。「小夜、判断する前に――一緒に作ろう。いつものように。話してからじゃなく、作りながらなら、君の気持ちがわかるかもしれない」
彼女は眉をひそめた。「蓮、それをやれば私の気持ちを読み取れるってこと?」
蓮は首肯した。二人が共同で作ったものだけに、相手の痕跡が残る。彼の能力はそう約束していた。ただし、条件と代償が伴う。決めつけるほど見えなくなる――そう自分に言い聞かせてきたが、今はその警告が薄れていた。仲間が離れ、時間が迫ると、確かめたいという欲求が大きくなる。
「言葉で聞くより」と小夜は短く呟いた。「それに、強制はしたくない。私のことを勝手に確定させるのは嫌」
「強制なんかしない」蓮は即座に首を振った。「ただ、手元にあるものから、君の今の痕跡を見たいだけだ」
小夜は黙って陶土の箱へ歩み寄り、蓮の手を取った。掌は温かく、雨の冷たさはもう消えていた。二人は机の上に新聞紙を広げ、陶土を取り出した。粘土の匂いが鼻孔をつく。昔、一緒に小さな動物を作ったときの記憶が、指先に痺れるように蘇る。
「無理に急がないで」小夜が言った。「一緒に――だから、壊したくない」
蓮はうなずき、彼女と同じ速度で指を動かす。粘土は滑らかに形を変え、二人の指跡が一体となって残る。彼の内側に、いつもの微かな波紋が立った。それは言葉ではない。光の反射のように、ある感情の色合いが粘土の表面に滲む――小夜のため息を象った凹み、ためらいを示す微かな線。蓮はそれを見た。確信に向かって踏み出しそうになった瞬間、自分への戒めが脳裏に響いた。
「決めつけるな」彼は自分に言い聞かせた。だが、内心ではもう答えを求めていた。仲間が去る今、彼女の選択は自分たちの関係を左右する。確かめたい。守るべきものか、放つべきものか。彼はわずかに強引に指先を動かし、粘土の輪郭を締めようとした。
その瞬間、粘土の表面に浮かんでいた微かな刻印が、ふっと薄くなった。凹みは浅くなり、線は曖昧な影へ変わる。二人の手が作り上げた接合部が、きしむような音と共に小さな亀裂を走らせた。粘土の接点が離れ、指先の連なりが切り取られたように見えた。
「やめて……!」小夜の声が震える。蓮は慌てて手を引いたが、既に遅かった。共同で作るという均衡が乱れた瞬間、痕跡は逃げる。決めつける行為が、見えるものを見えなくしてしまうのだ。
亀裂が入った粘土を無造作に押し戻すと、表面はべたついて粘り、形が崩れやすくなっていた。二人は必死に繕おうとしたが、接合部の音は、まるで壊れた約束のように耳の奥で響く。
蓮の頭に、鋭い痛みが走った。まるで指先から脳へと冷たい糸が引かれるような感覚だ。痛みは短く、しかし確実に何かを削り取っていった。襟元の布地をつまむように、胸の中の記憶の一部が抜け落ちる。思い出せない――小さな事実が空洞になっていく。小夜と一緒に作ったあの日の歌の一節、彼女が子供のころにくすぐったがった場所の感触、そうした断片が、ぽろぽろと消えた。
「蓮、大丈夫?」小夜が聞く。彼女の声が遠くに聞こえる。蓮は自分の名を呼ばれたとき、答えるべき言葉が一瞬ひっかかった。彼は必死に思い出そうとした。幼い頃、夕食のあと二人で窓辺でこっそり食べた飴の味。それが、すり替えられたように、空白になっていた。
「何をしたんだ、あんたは」小夜の瞳に、怒りと悲しみが混じる。『読み』を強めようとした――そのことを小夜は非難する。読み取ることと決めつけることの違いを、彼女は静かに責める。
「違う、そんなつもりはなかった」蓮は言葉を絞り出す。だが彼の声に、かつての確信は含まれていなかった。能力の代償は確実に現れた。使えば使うほど夜が浅くなり、記憶が削られる。大人のように振る舞うための時間も、静かに消えていくのだ。
そのとき、外のドアが開き、濡れた足跡を付けて小さな紙袋を持った拓海が戻ってきた。彼は目を伏せ、封を押し込むようにして袋を机に置いた。中身は明らかではない。ただ、彼が去る決意を固めたという事実だけが、アトリエの上に重くのしかかった。
「契約書のサンプルを押さえた。条件は……ほら、典型的だ。独占、長期、売上の大半を抜く。だけど、短期的には助かる」拓海の声には割り切りがある。菫は口元をかむと、足取り軽く外へ出て行った。誰かの背中を追うように、彼女の影が灯りの外で小さくなっていく。
「俺たちのやり方が――」大島が言葉を詰まらせる。アトリエは、共同体でありながら、金と制度の波に押されている。壊れていくのは道具だけではない。蓮はそれを痛感した。
小夜は立ち上がり、割れた粘土の欠片を掬い上げた。指先に残った粉が、淡い光をはじく。彼女はしばらくそれを見つめ、やがてゆっくりと蓮に向き直る。
「私、明日の話は自分で聞く。誰かの意見に流されたくない。あんたに見てもらうのはありがたいけど、証拠めいたものを理由に私を縛らないで」
「縛るつもりは……」蓮は言葉を探す