映写室で声だけ知る相手は雨の終わりを待つ 第4話「第3章」
廊下を歩く足音が、雨粒のようにまばらに重なっていった。噂はいつだってそうだ。端から端へ跳ね回り、角を曲がるたびに音色を変える。僕はその合奏に紛れて、鞄の持ち手をぎゅっと握った。指先に伝わる汗の冷たさが、いまここで何もしなければ何かが壊れるという予感を連れてくる。
廊下を歩く足音が、雨粒のようにまばらに重なっていった。噂はいつだってそうだ。端から端へ跳ね回り、角を曲がるたびに音色を変える。僕はその合奏に紛れて、鞄の持ち手をぎゅっと握った。指先に伝わる汗の冷たさが、いまここで何もしなければ何かが壊れるという予感を連れてくる。
「――映写室の、あの匿名企画、見た?」
「あれさ、梢の作品って噂だよ。声だけの子がやってるんだってさ」
声が複数、途切れ途切れに聞こえる。誰かが廊下の掲示板に小さなサムネイルを貼ったらしい。四角い画像が列をなして、映画の一場面みたいに早く切り替わる音が頭の中で鳴った。生徒たちの声は高低があって、笑い声が先に来ると期待が生まれる。低い声が重なると疑念が増す。
黒川明が窓際で腕を組んでいた。いつもは笑って済ませるような顔で、今日はなにかを計算している。二条美咲はスマートフォンの画面を指でなぞり、クラス掲示板の拡散状況を確認している。梢は端のロッカーに背を預け、肩をすくめて目を伏せていた。彼女の髪はまだ雨の匂いを纏っているようで、近づくと湿った紙の匂いがした。
「公にして、流れを作ろうよ」黒川が言った。声は軽いが、端々に学生会の駆け引きを思わせる硬さがある。「評比委員会が注目するうちに、こちらから手を打つんだ。匿名のままだと、取り上げ方は全部向こうに決められる」
美咲が薄く息を吐いた。彼女は両手でスマホを握り直し、画面の更新に合わせてまぶたを動かす。「でも、梢は匿名を望んでる。わたしたち、そういう約束で一緒にやったんだよね?」
梢が小さく首を縦に振る。そこに、僕の中でまた一度だけ小さな波紋が広がった。声だけを知っている――僕が梢を知る唯一の形は、あの映写室で彼女と共同で作った「痕跡」からだった。紙に押した指紋、暗室に残った指先の湿気、同じテープで繋いだフィルムリール。そういうものにだけ、彼女の気配が宿る。
「だったら、僕が――」言葉が出かけて、僕は咄嗟に止めた。言いかけた言葉を飲み込むたびに、胸の奥の雨音が大きくなる。僕の能力は万能じゃない。二人で作ることが条件で、相手の真意を決めつければ見えなくなる。急げば壊れる。そういうルールを、僕は痛いほど知っている。
黒川が笑った。「蓮、お前いつも慎重すぎだよ。チャンスは今しかないんだ。梢の声は魅力的だし、映写室ってビジュアルもある。噂を使って話題にして、俺らの手で形を作ればいい」
言葉は簡単だ。だが梢の顔が硬くなる。僕の手は知らないうちに梢の持っていたフィルムケースに触れていた。プラスチックの冷たさ、指先に伝わる細かな傷。あのケースは二人で最後に触れたものだ。彼女の手の温度を思いだして、僕は息を止めた。
「蓮は――どうしたいの?」梢が小声で訊ねる。雨の終わりを待つという僕の目的を、彼女はまだ知らない。知ってはいけないのだろうか。僕は指先の感覚を頼りに答えを探す。
一緒に何かを作る。ゆっくりと、互いの手の動きを確かめ合いながら。少しずつ、短い言葉ではなく指先で交換される合図を待つ。そういう時間にだけ、彼女の痕跡が現れる。去年、僕たちが映写室で最初にやったラベル作り――二人の親指でインクを押し付けた時、色がふっと膨らむように視界の端に淡い青が走った。梢の不安の色。それを無理に名前に当てはめれば、色は一瞬で薄れ、ただのグレーになった。胃の奥に空洞ができるような感覚とともに。
「そのやり方でいこう」僕は言った。声に力を入れないように注意して、梢の目を見た。彼女はさらに小さく笑ったように見えたが、すぐに曇る。黒川の腕が僕たちの間を越えて伸びる。彼の目には既に次の打ち合わせの構図が映っている。
「時間がないんだよ、蓮。明日、評比委員会が映写室を調査するって通達が出た。匿名企画が注目されてるから、現物を見に来るらしい。こっちから話をつければ、条件を交渉できる」
その瞬間、僕の中の何かがきしんだ。調査という言葉が、僕の能力の条件を脅かす。外部の視線が入ると、共同制作はそぎ落とされる。急かされると、指先の交換はぶつ切りになる。明日という時間は、圧力のタイマーだ。
「じゃあ、こっちから行くしかないじゃん」黒川が手早く計画を話し始める。美咲が同意を示して頷く。梢は黙っている。僕はその沈黙を――無理に埋めないことにした。言葉を急げば、共同制作は壊れる。
梢がかすれた声で言った。「私は、消費されたくないだけ。声だけで意味を作られるのが怖いの。誰かの評価で私のことが決められるの、死ぬほど嫌なの」
その言葉に、廊下の空気がしゅんと固まる。雨粒が窓ガラスを伝う音と重なって、世界が少し遠くなる。僕は彼女の言葉をただ聞いた。決めつけの匂いが僕の能力の視界を曇らせるからだ。聴くことと判断することは違う。僕はまだ間違えたくなかった。
「こっちから話すってのは、案を説明して――」黒川が続ける。「匿名だけど評比委員会の条件を満たすようにフォーマットを直せば、向こうも使いやすい。そうすれば取り上げ方をこちらでコントロールできる」
「でも本当にコントロールできる?」美咲の指先が震えている。定規の冷たさを思わせるような不安の音。僕はふと自分の能力を試したくなった。ちょうど手の下にあるフィルムケース。梢と僕で最後に貼ったテープの跡。紙の端に残るわずかな指紋。それらをゆっくりなぞれば、彼女の気持ちが現れるはずだ。
「蓮、今なら見せられる?」梢が静かに言った。言葉は提案にも覚悟にも聞こえた。僕の胸が押しつぶされそうなほど締めつけられる。もし見てしまえば、彼女の気持ちに触れてしまう。だが触れないでいることは、彼女を守る力を失うことだ。
僕は手を伸ばした。指先がプラスチックの冷たさを感じてから、ゆっくりと紙の端をつまむ。二人で作ったときのリズムを思い出して、深く息を吐く。梢の指が僕の人差し指に触れた瞬間、景色が少しだけ色づいた。
そこに映ったのは、淡い灰色の雨雲と、細い光の筋。彼女の怖さは細い糸のように青白く揺れていた。触れようとすれば指先が震えて消える。僕は名前をつけないでその色を見ることを選んだ――ただそこにある動きとして。それがルールだった。
だが――廊下の時間は残酷に短い。黒川が割り込んできて、僕たちの肩をそっと押した。「いいから早く。話をまとめるぞ。梢、資料を持ってるだろ。説明用のサムネイル作るから、ここに置いてよ」
彼が急かす。誰かに急かされると、二人でつむぐ時間の細い糸が引き裂かれる。梢の指先が力なくすべった。僕が視た色は一瞬で灰色に溶け、代わりに冷たい痛みが胃を突いた。能力が遮断される時のあの虚無感。先ほどまで確かにあった細かな動きが、全部、ただの手の跡になった。
「蓮、大丈夫か?」美咲が顔を覗き込む。彼女の声は優しかったが、僕は動けなかった。目の前にあるフィルムケースの表面に押された僕たちの指紋が、ただの模様に見える。そこに梢の気配がない。急いだせいで、共同制作は壊れてしまったのだ。手早くのりで貼られたラベルのせいかもしれない。黒川の意図的な割り込みのせいかもしれない。どちらにしても、代償は明白だった。
「なんで、急いだんだよ」僕はやっと声を出した。言葉に怒りは混じらなかった。た