映写室で声だけ知る相手は雨の終わりを待つ 第2話「第1章」
雨が、窓を叩く音だけを残していた。細かく、絶え間なく、まるで校舎ごと外の世界を洗い流すように。映写室の小さな窓に当たる雨粒は、蛍光灯の白さを蝕むように黒い縞を作り、梢はそれをじっと見つめながら古い布でフィルムの縁を擦った。布の繊維が油を引き寄せ、銀色の粒子が指先に粉状で残る感触。濡れた匂いと、鉄の錆を引きずるような匂いと、古い映画の薬品の匂いが混じった。
雨が、窓を叩く音だけを残していた。細かく、絶え間なく、まるで校舎ごと外の世界を洗い流すように。映写室の小さな窓に当たる雨粒は、蛍光灯の白さを蝕むように黒い縞を作り、梢はそれをじっと見つめながら古い布でフィルムの縁を擦った。布の繊維が油を引き寄せ、銀色の粒子が指先に粉状で残る感触。濡れた匂いと、鉄の錆を引きずるような匂いと、古い映画の薬品の匂いが混じった。
「丁寧に、丁寧にね」と芽衣が言った。芽衣はテーブルの上で録音機を整え、ボタンを一つずつ確かめる。隆はプロジェクターの蓋を開け、内部のランプユニットを覗き込んでいる。梢はその三人の輪の中心にいた。彼女の膝の上には、今朝届いたばかりの薄い封筒が開けられたままになっている。中には、ザラついた紙に記録された音声媒体が一つ──「声」の入った小さなSDカードが、慎重に収められていた。
「映像は芽衣が作ってくれる。隆は機械のこと頼む。それで私が音を合わせる。急がないって決めたでしょ」梢は自分に言い聞かせるように言った。自分の声はどうにも細くて、窓の雨音にかき消されそうだった。
芽衣はその言葉に、目を細めてうなずいた。「急がない。決めつけないってことね。梢がいつも言ってるやつ」
「ん?」隆が顔を上げる。雨の光で彼の目が少し赤く光る。
梢は呼吸を整えた。彼らに説明したことがある。自分の能力について、それは本当の意味での「読む」ではないと。相手の本心を丸裸にするようなことはできない。二人以上の意図が混ざり合って、同じ物を作るときだけ──その物にだけ、痕跡が残る。痕跡は匂いや色味、微かな振動になって現れる。だが一度でも梢が「これがこういう気持ちだ」と決めつけると、痕跡は途端に消えてしまう。関係を急ぐと、共同制作そのものが壊れる。壊れたものは修復不可能に近い。
芽衣は録音機をそっと取り、SDカードを差し込む。ちいさな赤いランプが灯る。梢の胸がじんと熱くなった。封筒の中の小さな字で、声はたった一行しか言ってこなかった。「雨がやんだら話そう」──それだけだった。梢はその文字を何度も指でなぞった。声は彼女にしか届かない。顔はわからない。だが彼が作る音の端には、いつも指の温度のような痕跡が残ることを梢は知っている。それを読み取りたいがために、彼女はここにいる。
芽衣が「準備いい?」と聞く。隆が返事をして、梢はゆっくりと小さなフェルトでフィルムの表面を撫でた。フィルムの溝は冷たく、指先に小さな振動が伝わる。芽衣が編集ソフトで映像を再生し、隆がプロジェクターにフィルムを通す。梢は録音機の再生ボタンに指を置き、深く息を吸った。
最初の一秒は何も起こらなかった。銀幕に芽衣が選んだモノクロの映像が広がる。古い校舎の廊下、雨に濡れた自転車置き場、誰もいない体育館の木の床。音は最初は静かで、遠くでガラスが振動しているような低周波が混ざっていた。そこに、SDカードの中の声が乗せられた。声は近く、そして遠く、まるで窓の向こうからこちらに差し込んできたかのようだった。
フィルムの縁が、ほんの少しだけ赤く光った。梢はそれを見逃さなかった。赤は熱の色ではない。彼女にとってそれは「存在の輪郭」だった。痕跡は色や温度や匂いになって現れる。梢は目を閉じ、色の濃淡を指先で確かめるように想像した。声の節回しに沿って、赤は震え、淡く広がった。
「来た?」芽衣が囁く。梢はうなずいた。
だが同時に、梢の内側で恐れがざわついた。いつもだ。痕跡を見せてくれるのは嬉しい。だが喜びが先走ると、梢は自分を抑えきれなくなる。つい決めつけたくなる。もっと確かなものがほしくなる。相手の気持ちを名前で呼びたくなる。そうすると、痕跡は逃げていく。
「彼、寂しいのかな」梢の声は、たぶん無意識のうちに出たのだろう。言葉が口をついて出た瞬間、赤がちらりと薄くなった。芽衣がすぐに腕を伸ばし、梢の手を強く握った。
「言わないで、梢。決めつけないって約束したわよ」芽衣の声は硬かった。隆がプロジェクターの側面に手をつき、ランプの光を覗き込む。
梢は自分の内側で、冷たい風が吹くような感覚を覚えた。痕跡が薄れるのはいつものことだ。だが今回は、そのときにプロジェクターが小さく、異音を立てた。隆がふっと息を吐いた。
「ランプの挙動がおかしい。点いたり消えたりしてる」
隆が手早く蓋を閉め、工具箱を床に置いた。彼は数分でランプユニットを外し、予備のバルブを取り出そうとした。だが予備箱は古く、蓋が固着している。手が滑り、工具が床に落ちた。工具の金属音が部屋で大きく反響する。雨の音も負けないほどの騒音だ。
梢はフィルムの端を見た。二人の共同制作に痕跡を残すために慎重に編んできた時間が、脆くも機械の一部品で止まるかもしれない。芽衣がため息をついた。
「こういう古い機械に頼るのは無理があるよ、梢。外で部品買ってこようか?」
梢は顔を上げる。窓の外は一面の水。校門から町まで歩けば、半分ずぶ濡れになるだろう。誰かに見られたり噂されたりするリスクもある。梢は「雨がやんだら」と声が言った言葉を思い出す。だから待つ、と決めたのだ。待つことで、自分と相手の間に無理な力をかけないようにしたかった。だが仲間には現実がある。機材は待ってくれない。
隆が黙って頷いた。彼は工具箱の蓋をこじ開けると、しかし中にあるはずのバルブがひとつ足りないのを見つけた。欠落。どうやら前の担当が持ち出したらしい。隆の顔が暗くなる。
「じゃあ、誰か買ってくるか。近くの電気屋ならあるはずだ」芽衣が提案する。声には決意が混じっていた。
梢の胸が収縮する。急ぐと壊れる。共同制作は繊細だ。二人でしか残せない痕跡が、一度壊れたら取り戻せない可能性がある。だがこのまま何もしなければ、今日作る予定の音の手紙は完成しない。梢はGDPRのような大げさな制度の圧力ではないが、学校という小さな世界の噂や評価の目がいつも気になっていた。部活動で何かをするには、それなりの実績や出力が必要だと評価される。彼女たちは「面倒なやつら」と見なされると居場所を失うかもしれない。
芽衣が梢の手をもう一度押し、言った。「梢、あなたが『待つ』って決めるのはわかる。でも今は三人でやってる。私と隆が外に出て部品を探してくる。あなたはここで編集続けて。急がないっていうのは、私たちが急がないってことでもある」
隆が不意に笑った。「雨の中走るのは俺のほうが得意だ。梢はここにいろ。決めるのは梢でいい」
梢は口をつぐんだ。彼らの目には、彼女の決めた「急がない」が重荷になっていないことが見える。自分の恐れが仲間を縛っているのではないかという疑いが、胸に針を刺す。彼らは自律的に判断し、行動する。梢はそれを求めていた。そして同時に、行動された結果に責任が及ぶことも知っている。もし隆が雨の中で誰かに見られ、部品を買うために説明をしなければならない状況になれば、噂は拡がる。学校の目は容赦がない。
「行って」梢はやっと言った。「二人で行って。だけど、なるべく廊下を使って。表に出ると目立つから」
芽衣は眉を上げ、隆は肩をすくめた。「分かった」と隆が言う。彼は工具箱を担ぐと、外套を羽織り、ドアに手をかけた。芽衣は録音機