雨の日の自習室で嘘から始まる同居人は誰にも言えない失敗を分け合う
雨の日の自習室で嘘から始まる同居人は誰にも言えない失敗を分け合う 第9話「第8章」
窓に打ち付ける雨音が、いつもより重い。廊下の蛍光灯は自習室の扉の向こうで細く揺れ、紙をめくる指先の湿り気を際立たせた。梓はテーブルに肘をついて、まだ乾かない糊まみれの画用紙を見つめている。共同制作は終わっていない。終わらせてしまえば、その夜のことを誰かに分けてしまえる。分けることは、誰かがその重みから解放されることでもある。だが梓の身体はそれを「買う」代価を提示し始めていた。
窓に打ち付ける雨音が、いつもより重い。廊下の蛍光灯は自習室の扉の向こうで細く揺れ、紙をめくる指先の湿り気を際立たせた。梓はテーブルに肘をついて、まだ乾かない糊まみれの画用紙を見つめている。共同制作は終わっていない。終わらせてしまえば、その夜のことを誰かに分けてしまえる。分けることは、誰かがその重みから解放されることでもある。だが梓の身体はそれを「買う」代価を提示し始めていた。
「梓、無理するなって」陽斗は近くの椅子にもたれて、声を潜める。いつもの口調に皮肉は乗っていない。彼の手元には鉛筆があるが、そこに感情を刻むそぶりはない。梓の顔を見るたびに、陽斗の目は何をすべきかを問うてくる。問いは言葉にならなくても重い。
「終わらせたいの。今日中に終わらせないと、あの子の『噂』になる」梓は答えた。声がひどく乾いていた。共同制作の対象は、学内で失敗を晒された後、教室で居場所を失った後輩・藤川のことだ。藤川の失敗は、噂と評価の渦の中で拡大していった。梓はその重さを、藤川と一緒に作ることで分けると約束した。二人の手で形を成す紙片にだけ、失敗の痕跡が残る。だが規則は残酷だ。安易な決めつけは痕跡を奪い、共同制作を急げば壊れる。梓はそのせめぎ合いを、身体で学んでいた。
美羽はテーブルの向こうで両腕を組み、小さなため息をついた。「梓、昨日のこと――あなたが代わりに引き受けてくれたのはすごい。でもそれってあなたの体に返ってくるんだよ。顔色、見て分かるでしょ?」
「あたしの体は、あたしのものじゃない。誰かの選択を残すためにあるみたい」梓の手が痙攣する。糊の匂いが鼻を刺す。手を離すと、紙はぐしゃりと音を立てた。皆がその音に驚いたが、誰もすぐには声を出さない。
「だったら、せめてやり方を変えよう」陽斗が立ち上がる。「急ぐな。共同制作は〝一緒に作る時間〟そのものが大事なんだ。早く結論を出そうとするから壊れる。藤川と、ちゃんと向き合って――」
「向き合うって、どういう意味?」梓の声に苛立ちが混じる。「時間なんてない。あの子は明日、アンケートと評価でまた叩かれる。分けてあげられるのは今日だけだよ」
三者三様の沈黙が続く。美羽は割り切るように立ち上がった。彼女は自分の手を汚したくないタイプだ。支援はするが、自分の生活や評判を危険に晒すほどではない。彼女の判断は早かった。
「私、手伝えない。梓の行為は美談に見えるけど、学校側はそれを好意的には受け取らないよ。連帯って言葉は美しいけど、利用される可能性だって大きい。自分の未来を守るべき時があるの」美羽は決め顔で言った。言葉は冷たくないが、距離を示していた。梓はその距離を血の匂いのように感じた。
「わかった」梓は微笑んだ――それはまともな笑顔ではなかった。「分かった。美羽は自分の道を行きなよ」
美羽はその笑顔を見て、背を向けて片付けを始めた。梓の胸に、刺が刺さるようだった。だが、彼女は無理にその刺を抜こうとはしない。痛みは誰かの解放の証だと、どこかで信じている。
里央が、そっと近づいてきた。里央は藤川のクラスメイトで、小柄だが眼差しは静かに強い。彼女は迷いの中で手を出すタイプだった。
「一緒にやる。私は逃げない」里央はそう言って、蓋をした段ボール箱から布と糊を取り出した。彼女の声は決して大声ではないが、そこに意思がある。梓は里央の手を見た。指先に小さな切り傷があった。里央はそれを親指でなぞったが、やめなかった。
三人で作業を再開する。共同制作は、物理的な協働以上のものだ。藤川と梓、里央の三人の気配が、画用紙や布、切り貼りの瞬間に混ざっていく。里央は藤川の書いたメモを持ってきて、それを分断せずに折り込み、梓はそれを糊で留める。二つの手が同じ場所に触れると、紙の繊維が一瞬だけ温かく震えた。痕跡が生まれた。誰も断定しなかった。断定は痕跡を消すからだ。
だが、共同制作は繊細だった。時間の圧と、それに伴う焦りは、作業の手を震わせる。廊下の時計が二度目の針を刻むたびに、梓の視界が暗くなる。胸膜の奥に重たい石があるような感覚が広がった。身体が拒絶反応を起こしている。梓は口の端に鉄の味を感じ、世界が少し滲んだ。
「梓、休め」陽斗が手を伸ばす。だがその手は届かなかった。梓は手を振り払い、作業を続ける。指先が震え、糊が紙からはみ出し、里央が慌てて拭いた。急ぎは禁物だという規則は明快だったが、時間は残酷だ。里央は梓のまぶたを軽く弾くようにして注意を促した。
「――止めないで。もう一回だけ。これを終えれば、藤川は明日少し楽になる」梓はそう言った。言葉は震え、吐息が紙にかかる。糊の匂いが強くなり、不安の匂いに似ていた。
共同制作は最後の段階に入った。三人の指先が一点に集まると、紙片が光を帯びるように見えた。裂け目はなく、形は確かにできていった。そこに、藤川の失敗の痕跡が滲んだ。痕跡は言葉にならない重さを帯び、梓の胸の中で共振した。梓はそれを感じて、深呼吸をした。
だが、その瞬間、誰かが言葉を投げた。廊下のドアが大きく開き、短く走った足音とともに――違和感のある声が入った。短絡的な問いかけが、制作物を擾す。学内の噂好きな生徒の一人が「なんだこれ、藤川のやつ?本物か?」と大きな声で言った。誰かが意味を押し付けようとしたのだ。
ルールは即座に反応した。共同制作の表面が一瞬、白く曇る。痕跡が滲み、縮む。里央が慌てて手を動かし、何とか押さえようとするが、押さえた分だけ紙は薄くなっていく。意味を決めつけようとする外部の視線は、痕跡を蒸発させる。急ぐことと同じくらい、他者の断定も危険なのだ。
梓の視界が一層揺れ、頭がぐらついた。光が二重三重に重なり合い、世界が重層的にずれる。胸の中の石が崩れ、血の匂いが鼻を満たした。梓は立ち上がれず、テーブルに顔を伏せた。里央が手を伸ばし、梓の肩を抱きかかえる。糊のついた手が身体を支えると、そこに痺れるような冷たさが伝わった。
「めまい、だよね?」里央は優しく囁いたが、梓は答えない。陽斗は焦りを隠そうともしない。彼は懐から小さな手帳を取り出し、素早くページをめくった。メモ欄には、梓が自分で書き残した小さな符号、つまり『代価』の兆候が記されている。だがそのメモの一行が、そこだけかすれていて読めなかった。梓は手帳を書いた覚えがあるはずなのに、その時間帯だけ記憶が抜け落ちるようになっていた。
「記憶が……抜けるの?」陽斗の声には震えが混じる。彼は梓の腕を優しく掴んだ。「何を失ったか覚えてるか?」
梓はゆっくり首を振った。喉の奥で何かがひっかかる。思い出せないのは、今日の昼に聞いた雨の音の、細部。雨が屋根を打つリズム。自習室の蛍光灯のまぶしさ。藤川が握りしめた小さな紙切れの匂い。どれもが霧のように薄れて、指先からするりと抜けていく感覚。失われた記憶は、ただの断片ではない。それは梓が人と「分ける」ための基点、始まりの風景だった。
「それは代価だよ。私はその代価を承知の上で分けるって言った……でも、ここまで来るとは」梓はほのかに笑ったが、その笑顔はもはや自分のものではない気がした。里央は何か言いかけて、やめた。美羽はドアの外で手を組んだまま、誰にも入らせ