潮騒銃の牧童と鉄道皇国 第23話「第21章」
潮の匂いが、濡れた木材と汽車の油の匂いに混じっていた。凪音は浜辺の破れた桟橋の端に腰を下ろし、潮騒銃の冷えた銃身を膝の上で撫でるようにしていた。銃身の中には、押し寄せる波のように薄い模様が刻まれている。手のひらに伝わるその模様は、彼女の前世で触れた羊の毛皮の感触と微かに重なった。
潮の匂いが、濡れた木材と汽車の油の匂いに混じっていた。凪音は浜辺の破れた桟橋の端に腰を下ろし、潮騒銃の冷えた銃身を膝の上で撫でるようにしていた。銃身の中には、押し寄せる波のように薄い模様が刻まれている。手のひらに伝わるその模様は、彼女の前世で触れた羊の毛皮の感触と微かに重なった。
「あと二時間だってさ」漣が背後で言った。砂利を踏む音、濡れた布の擦れる音。彼の声は夕暮れの風に流され、凪音の耳に届く波の音と同化しそうだった。
「列車は夜に来る。模範村側が手配している"選別列車"だ」樫が地図を広げ、鉄道の線路に指を滑らせる。破線で示された側線、停車するであろう場所には小さな印が並んでいた。彼は元線路工だ。指先の感覚だけは、まだ若い頃のままだった。
避難民の輪の中で、芽衣は子どもの肩を抱きしめていた。子の髪は海水で濡れ、瞳は怯えている。芽衣の指先は震え、唇は固く結ばれていた。彼女は模範村に家族の何人かが行ったことを恨めしく思っている一方で、見知らぬ軍装の列車が夜に現れるという噂が、彼女を石のように固めていた。
「我々は二手に分かれる。桟橋からの誘導班と、線路上の信号切断班。潮騒銃で"一度だけ"その作戦を実現する」凪音は言った。銃を抱えたまま、彼女の声は静かで、しかし周囲の空気を切るような緊張を帯びていた。
漣が微かに笑った。「なんだか儀式っぽくなってきたな」
「それができるのは一度きりだ」樫が付け加えた。「合意のある者たちの間で共有された作戦だけだ。他のやつらを無理に巻き込めば——」彼は言葉を切った。凪音はその続きを知っている。無理に使えば、能力は敵にも作用するということ。使者が一人で撃てば、反動で感覚の一部を失うことも。
芽衣が顔を上げた。目が赤く光る。「うちの子は——」
言葉を詰まらせた芽衣を、誰も責められなかった。凪音は銃の冷たさを感じながら、彼女の目を見た。躊躇があった。合意。それはただ口先の承諾ではなく、覚悟の共有だった。
「灯、君は?」凪音が訊いた。灯は小柄で、いつも手に縫い針のような工具を持っている。無表情の奥に何か強いものを秘めている。
灯はしばらく黙ってから、ゆっくりと頷いた。「いくよ。ここにいる全員が生き延びる方を選ぶ」
その言葉は合図になった。漣も樫も、残った若者たちも、同意を表した。芽衣はまだ言葉を発せず、ただ息を整えている。彼女の中の恐怖と理性とが揺れていた。
「全員の合意がいるわけじゃない」漣が言った。だが樫がそれを遮った。「重要なのは、共有する行為者たちが自ら同意することだ。俺たちの間で成り立つなら、それでいい」
凪音は潮騒銃を膝に据え、銃身を覗き込む。そこに映るのは、自分たちの影、波紋、そして線路の光る鋼。彼女は思い出した。前世の記憶、危険な現場で仲間と呼吸を合わせた夜。合図ひとつで皆が動いたあの感覚。潮騒銃はそれを物理に変える道具だ。だが、盲目的に振るえば、同じ合図が敵の耳にも届く。
「行くよ」灯の声が固かった。芽衣が小さく息を吸い、ついに口を開いた。「私も——いいえ、私だけは無理。うちの子が怖がるのを見て入れたくない」
その決断は尊重されるべきものだった。凪音はそれを理解していた。だが夜は待ってくれない。もし芽衣が同意しないまま銃を使えば、可能性は増えるかもしれないが、代償も出る。凪音は自分の中で秤にかけた。何が正しいのか——それは答えの出る問いではなかった。
「芽衣さん、あなたが望むなら、私が約束する」凪音は静かに言った。「あなたの子を、私が守る。あなたの手を離さない」
芽衣の瞳に迷いが走った。合意、という小さな承認の音が生まれる。彼女は短く頷き、こわごわと手を伸ばし、凪音の腕に触れた。合図の輪が結ばれる。灯が指を凪音の肩に置き、漣が拳を固めた。
「一度だけだ。皆、覚悟はいいか?」凪音は問うた。
「いい」灯が言った。
「いい」漣が続けた。
樫、若者たちもそれに続く。「いい」
潮騒銃の引き金を引く前、凪音は深く息を吸った。銃身を塞いだ小さな栓を回すと、幽かな低音が空気を震わせた。まるで遠い海が二度鼓を打つような音。仲間たちの心拍が、彼女の内耳に反響する——と言いたいところだが、その瞬間は言葉を越えた。彼らは同じビジョンを受け取り、同じ動作をする予感を共有した。潮騒銃はその「作戦」を物理世界に一度だけ書き込んだ。
合図が出ると、夜は一度だけ息を止めた。桟橋の下で小さなボートが滑るように出発し、灯は煙幕を投げ、漣は海に灯を落とす。樫は線路の簡易信号を切り、若者たちは避難民を列車の側線へと誘導した。すべてが針のように綺麗に重なり、選別列車は停車し、管理側は混乱した。
それはまばゆい成功だった。人々の歓声と泣き声が浜辺に広がる。芽衣は泣きながら子どもを抱きしめ、灯は目に涙を浮かべて笑った。樫は地面に手をつき、土の匂いを深く吸い込んだ。
だが、それは瞬間の祈りに過ぎなかった。列車の端に立っていた一隊の制服兵が、何か合図を送るのを凪音は見た。彼らの動きは、あまりにも整然としている。潮騒銃の余韻が消えかけた瞬間、凪音は冷ややかな予感に襲われた。
「待て!」漣が叫んだ。だが彼の声は遅く、遠くに届いた。兵士たちが一斉に隊形を変え、避難者たちに向かって走り出した。凪音は理由を理解した——もし合意の範囲を外れて誰かを"強制的に"救おうとすれば、あるいは誰かの同意を欠いたまま使えば、その"合図"の波は敵にも届く。今、彼らはその副作用の一端を見せていたのだ。
その瞬間、目の前で芽衣の子が突き飛ばされた。小さな足が砂を蹴り、子は叫び声をあげた。凪音の反射は無慈悲に早かった。彼女は潮騒銃を抱え直し、引き金に指をかけた。合意を超えて、一人で撃つ。子どもを救いたいという純粋な欲求が彼女を動かした。
銃声は波の音に飲まれるようにして鳴った。海の低音が胸を割き、世界は一瞬ゆがんだ。凪音は耳の中に穴が開くような空虚を感じた。右耳から潮が抜け出し、あらゆる音が遠くなる。周囲の声が紙の裏に書かれた文字のようになり、彼女の鼓膜はもう戻らないことを告げた。
同時に、敵の隊列も動きを変えた。彼らは凪音の内なる衝動と同じ"計画"を、同じように受け取ったかのように、動きを合わせて子どもを押し戻した。結果、子はすぐに安全な場所へ導かれたが、代わりに灯が弾丸を受けて倒れた。彼女は煙の中で膝をつき、顔に血が滲んでいる。漣は地面に這いつくばって灯を抱いた。叫びは聞こえない。凪音は自分の手の中にある銃の重さだけを感じていた。
「凪音!」樫が叫ぶが、その声は風の裏で薄れていく。凪音は状況を把握しようと必死に目で周囲を追った。灯の胸に鮮やかな赤が広がっている。芽衣は子を抱えて震えている。漣は顔を真っ赤にして泣いていた。
「やったのか…」漣は短い言葉を吐いた。凪音は首を振ることでしか答えられなかった。耳は、右側から海に抜けて行った。
やがて、敵は撤退した。選別列車は動いたが、その先の計画は狂っていた。数十は救われ、数人は失われた。灯は重傷だが息はある。漣の腕の中で、彼女は消え入りそうな微笑を浮かべた。
凪音は手のひらで右耳を押さえ、内側から涌き上がる空虚と痛みを確