潮騒銃の牧童と鉄道皇国 第15話「第13章」
夜明けの海はまだ眠っているように静かだった。灰色の水面に、細かい光の縞がこぼれる。潮の匂いが鼻の奥に冷たく染み込む。日和は崖の端に座り、潮騒銃を膝に抱えていた。銃身は黒檀のように濡れて、指先に微かに冷たかった。昨夜の奪還で一晩中動き回った身体が沈むと、夢の残像がまた返ってくる――海に溶ける弾丸、失われていく音の感触。喉の奥がざらついた。
夜明けの海はまだ眠っているように静かだった。灰色の水面に、細かい光の縞がこぼれる。潮の匂いが鼻の奥に冷たく染み込む。日和は崖の端に座り、潮騒銃を膝に抱えていた。銃身は黒檀のように濡れて、指先に微かに冷たかった。昨夜の奪還で一晩中動き回った身体が沈むと、夢の残像がまた返ってくる――海に溶ける弾丸、失われていく音の感触。喉の奥がざらついた。
「起きたか、日和」
梶原が浅い息でやってきて、背負っている荷物を砂の上に下ろした。額に泥と血の痕があり、今朝も眠れていないのがわかる。梶原の目はいつもより鋭く、計画の数を数えているように狭まっていた。
日和は銃を少し抱え直し、水平線を見た。「封鎖列車は午前十時に動く。補給と住民の移送を一度にやるつもりみたい。向こうは速い」
「速いだけじゃない。移動券を出して、選択の余地がない状況を作る。『協力すれば短期間で安全圏へ』って宣言を流してる。強制じゃなくて、選択を奪うやり方だ」アイラが俯きながら言った。薄手のコートは夜露で湿っていた。彼女は共同の戦略立案を担う存在だが、顔に疲労が刻まれている。
小さな陰が近づいてきて、子供のレンが駆け寄る。両親は昨夜の混乱で離ればなれになったままだ。レンは潮騒銃の先端に指を触れ、父親が教えたのだろう、「戻らないときのための匂い」を探すように空気を嗅いだ。
「使えるのか、あの鉄砲で?」レンの声はまだ寝起きの震えが残る。
日和は銃を握る手に力を込め、機械の冷たさを自分の身体に押し戻した。「潮騒銃は、仲間と共有した作戦だけを一度だけ現実にする。全員の合意が揃っていることが条件だ。一人で撃てば、反動が自分の感覚のどれかを奪う。仲間の合意を無視して使うと……」言葉はそこで止まった。説明は口でしても意味を持たない。過去の断片が示すのは、現実が意志で押し曲げられたときに生じる代償だ。
「それでも、使ってほしい!」遠くから怒鳴り声がした。群れの中のひとり、太郎が崖を駆け上がってきた。額に汗を浮かべ、目は充血している。太郎の妹が今朝、徴用列車のリストに名前を見つけられていた。震える手で銃のストックを掴むと、太郎は日和の前に立ちはだかった。
「お前だけの判断で、誰も知らないところでやってくれ! 妹を――頼む!」
手がぶつかる。太郎の指先は銃の冷たい金属に触れ、瞬間、風が変わったような感覚が走る。潮騒銃の金属面が一瞬だけ海の匂いを鳴らすように僅かに震えた。日和は反射で太郎の手を掴んだ。
「離して!」
だが太郎は押し返した。指が滑り、引き金にかかる。銃が低く唸った。音は出ていないはずなのに、周囲の空気で何かが引き裂かれるような感触が襲った。太郎の表情が一変し、彼はよろめいて崩れる。両耳の鼓膜を何者かが摘まんだように感じ、世界が遠のく。
「――っ!」
太郎は耳を押さえ、泣き声というより喚きに近い声を上げた。走り寄ったレンが小さく呼びかけるが、太郎の世界は音を失い、風の薫りだけが増幅されているようだった。日和は太郎の顔を覗き込んで、手の震えを見た。そこには、確かに何かが欠けていた。聞こえないという事実が、身体からはみ出している。
そして、同じ衝撃が崖下の封鎖線にも届いた。数キロ離れた鉄条網の向こうで、列車の乗員たちが同時に体を硬直させていると無線で報告が入る。帝鉄の兵士が一斉に顔を歪め、掌を額に押し当てる。誰かが叫ぶ――彼らは動かされている、何かに導かれるように蹴り出した。
「どういうことだ……!」
アイラが低く呟く。無線の向こうで混乱が生じ、向こう側の命令系統が一瞬で乱れ、係員たちが足取りを失って転倒する音、そして遠くでパニックの悲鳴が混ざる。だが同時に、封鎖線に近い住民たちも身体を歪め、意図しない方向へ走り出す者が出た。無差別の動きだった。合意がない状態で銃が作動したとき、効果はどこへでも届く。誰の意思も、誰の選択も尊重しない。
「太郎……!」梶原が叫び、太郎を抱き起こす。彼の耳は赤く、血が滲んでいるわけではない。日和には相手が完全に無音の世界へ落ちたのが見えた。太郎の目は真っ黒で、そこに恐怖だけが詰まっている。
日和の手が銃のストックに残っていた。裁断された感触が指に伝わる。自分が触れたことによって、何かが触れ返す。太郎の震えから伝わるのは、「選択」を奪われた瞬間の痛みだ。それは鉄道皇国が狙っているものと同じ構造だ。選択を奪われた人間は、身体も世界も崩れ落ちる。
「これは……使い方を間違えると、相手にも、こちらにも、何かを押しつける装置だ」アイラが言った。吐き捨てるように。日和は頷くしかなかった。胸を何かが締め付ける。
太郎の耳を診ようとした梶原に、レンが震えた声で言った。「でも……妹が」
レンの目が潤む。日和はレンの顔を見て、考えた。妹一人を救うために、他者の選択を奪うわけにはいかない。だが、あの列車は動き出せば逃げ場は失われる。時間は、砂のように落ちていく。
「太郎本人の意思で触れたなら、代償は本人が負うんだ」日和は低く言った。言葉は冷たいが、真実だ。だが太郎は今、聞くことすらできない。合意の語りようがない相手にどうやって意思を確認するのか。それがこの銃の倫理の輪郭だった。
「だが、相手に強制が及ぶ可能性がある。合意がなければ、敵も味方も関係なくなる」アイラが続けた。「だからこそ、私たちは『共有の儀』をやるべきだ。村の全員に説明して、賛成か反対か、手を触れてもらう。合意の印をつける。日和、銃を使うときは全員の手をこの銃に置いて」
「そんな余裕は――」梶原が言いかけて、無線の受信機が急に甲高いビープ音を鳴らした。表示に赤い点滅が走る。大本営の列車が予定を早めたという。封鎖線が一部移動し、数時間以内に最前線の検問が移設される。時間はもう、彼らの味方ではなかった。
「やるなら今しかない」梶原は固い顔で言った。「合意が間に合わないなら、誰かが単独で使うしかない。だがその者は、感覚を失う代償を負う」
日和の胸を冷やす風が通った。彼女は潮騒銃を抱き直し、視界が揺れた。太郎の耳鳴りが、自分の頭の中にも薄く波紋を広げる気がした。もし自分が単独で銃を使えば――どの感覚が欠けるのかは予測できない。方向感覚か、聴覚か、あるいは海を見るときの匂いか。過去の夢の断片が囁く:海の音を失うと、世界の縁が崩れる。牧童だった前世の記憶が、羊の群れの耳や風の声と結びついていると感じるたび、失うものは単なる機能ではないとも思った。
「私だって、妹を助けたい」アイラが顔を上げる。目に炎がある。彼女は決して感情的に賛成する方ではないが、今回ばかりは村の誰よりも迅速に決断の重さを理解している。「だが、それは私が彼女の選択を奪う権利があるってことじゃない。もし私たちが合意を取って使うのなら、誰もが同じ決断の主体であるはずだ」
梶原が息を吐いて、手のひらを銃の上に置いた。彼の掌は太陽の冷たさを吸って温まる。周りの者が一人、また一人と、銃に手を添える。レンは思い切って太郎の耳元に体を寄せる。だが日和は一歩下がった。太郎の震える身体を抱きしめることはできても、今ここで勝手に人の代わりに決めることはできない。
「合意を集める。速やかに」日