鏡面鎌の楽器工と残光院

鏡面鎌の楽器工と残光院 第25話「第23章」

広場は紙の海だった。午後の風が、残光院の配布員たちがばらまいた「同意書」を薄茶色の蝶のように舞わせる。紙の端が太陽を受けて透け、しわの影が小さな地図のように足元を走る。人混みのざわめきに混じり、紙どうしが擦れる音が干し草をこするようにシャリ、と鳴った。

広場は紙の海だった。午後の風が、残光院の配布員たちがばらまいた「同意書」を薄茶色の蝶のように舞わせる。紙の端が太陽を受けて透け、しわの影が小さな地図のように足元を走る。人混みのざわめきに混じり、紙どうしが擦れる音が干し草をこするようにシャリ、と鳴った。

葵は壊れかけのベンチに腰を下ろし、革手袋越しに柄を握った。鏡面鎌──長い柄の先に、研がれた鏡のような鎌身がついている。刃は光を拾って四角い反射を描き、その中に、ばらまかれる同意書と、配布員の灰色のコート、そして何より避難民たちの顔が映っていた。自分の手の震えまで、鏡の中で等しく揺れている。

「まだ、こんなに…」ミオが葵の隣に来て、紙を足で押さえた。彼女の指先には包帯の跡が残り、乾いた血の匂いが指先に残っている。風に飛ばされた一枚がミオの膝に当たって捩れ、彼女は無言でそれを押し戻した。

「期限は夜明け前だってさ」蒼介が広場の端で、残光院の配布員に詰め寄る黒いスーツの男たちを睨んでいた。彼の背中の鉄板のような緊張が、遠くまで伝わる。「登録は順次、中央サーバーにアップロードされる。これが全国に波及すれば――」

「選択肢を奪うなってことだな」葵は鏡面の表面に顔を近づけ、薄皮一枚分の距離で自分の目を見返した。左耳の聞こえ方がいつもと違う。高い音域が欠けて、街のトランペットのような鳴りが薄れたように感じる。先日、単独で鏡面鎌を振った代償として失った感覚の一部だ。鏡は冷たく、柄は自分の掌の形を覚えているように馴染んでいた。

「また一度で全部、ってわけにはいかない。僕たちの計画は、一度だけ、仲間と合意した作戦を実現する。多人数の同調がないと、鏡面は暴走する。敵対者にも効いてしまうんだ」蒼介は低く言った。彼の声はいつもより冷たく、言葉の真意は周囲の喧騒に食われないほど明確だった。

「暴走って…具体的には?」ミオが問い返す。顔を上げると、明日のような疲労が曇っていた。

「合意がない――もしくは使い手の心が独走すると、鏡面は設計した『共同の実行』を、その場にいる全員に投影する。善意の意図で始めても、他人の意思を奪えばそれは強制になる。選択の条項を奪うことになるんだ。──あと、単独使用は代償が重い。感覚の一部か、記憶の断片が戻らない」蒼介はそう付け加えたが、その後の沈黙が、一番の説明になっていた。

葵は自分の手のひらを見つめた。先日、配布箱の封を切ろうとしたとき、我慢できずに鏡面鎌を使った。声を上げるほどではないが、刃を振った瞬間に世界の輪郭が薄れ、色と匂いが一つ抜け落ちた。戻ってきたのは片方の音だけで、子供の笑い声の高い部分がいつも遠かった。あの時止めた人のために、代償を払ったのだと自分に言い聞かせるしかなかった。

「双葉さんが怒ってる」リクが指差す先、木製の駒を引きずったようにゆっくりとした足取りで、避難民の年配の女性が群衆の中に立っていた。双葉はかつて小さな役所に勤めていたと噂される人で、残光院の配布員に向かって鋭く言葉を投げる。「お前たちに、何の権利がある! どうして私たちにこれを押し付けるの!」

集まった人々が押し黙る。その瞬間、空から一枚の同意書が、まるで手招きするように双葉の掌に落ちた。紙の縁が指先に冷たく触れる。双葉の目が細くなった。彼女はゆっくりと紙をめくり、そこに印刷された小さな文字列をなぞった。

「電子登録のバーコード……成程ね」双葉の声が驚くほど澄んだ,広場の騒音が一瞬、彼女の言葉に合わせて止まった。「これ、一回スキャンされれば中央へ転送されるわ。ほら、外側だけではない。……お主ら、どうする?」

その言葉は、鉄のように重い。配布員の一人がにやりと笑い、携帯端末の小さなスキャナーを胸元で回した。別の者が腕を伸ばし、パネルを操作する。サーバーとの同期。時間が、見えない針で回り始めたように思えた。

「登録が進めば、紙が飛んでるだけの今日だけじゃない。物理的に同意が蓋された瞬間に、制度が動く」蒼介の顔が硬い。「この広場で全員の手を奪うことはできない。だけど、一斉に動いて登録の流れを止めることはできる。だけど――それを鏡面でやるには、皆の合意が必要なんだ。ほんの一時間でも、誰かが反対すれば――」

反対。蒼介が言葉を切る。周囲で避難民たちが顔を向け始める。誰かを守るための行動が、誰かの選択を奪う可能性を持つ。葵は柄を強く握ると、鏡面に映る自分の瞳を見つめた。そこに自分の弱さと、強さの両方が揺れている。

「葵、君はどうしたい?」リクの問いは、真っ直ぐだった。リクは青年らしい熱を持つが、今日は無邪気さを失くし、決断を待っている。彼の瞳は、葵がこれまでに守った誰かの影を映していた。

葵は一度息を吸った。風がまた、同意書を巻き上げて耳元に飛ばす。紙が耳に触れて冷たい。聞こえない高音が遠ざかっていく。代償の記憶が指先に針を刺すように疼く。

「単独でやるべきか、仲間とやるべきか――どちらにしても代償はある」葵の言葉は、蒼介の言葉を繰り返すようでいて、どこか違った。彼女は鏡面の縁を親指でなぞり、表面に曇りが一瞬走るのを感じた。「私は、避難民の意思を奪うことはしたくない。でも、これが進められたら、みんなが選べる状況すら無くなる」

「残光院は、選択を形式だけ残して実質を奪う。バーコードで、一枚の紙と一人の意識を一緒にネットワークにつなげる。午前零時で一斉アップロードって所だろう」ミオが苦い笑みを浮かべた。「でも、紙の段階で止めなきゃ。後からでは遅い」

「巻き込みたくない人もいる。年寄りや子供、選べない立場の人たちだ」双葉が言い、周囲の視線を集めた。「私はここにいる。私がいる限り、誰かを無理に動かすことはしない。だけど、若い人たちの判断を奪わせるわけにはいかない。何か方法があるなら、私は協力する」

その言葉には、ただの決意以上のものがあった。双葉の目の奥に、職員としての癖と情報を扱った者の冷静さが見え隠れする。葵はその瞳に、自分たちのための鍵を見た気がした。

「鍵って何だ?」蒼介がさらに詰め寄る。双葉は濡らした紙の端を折り、誰にも見せずに舌打ちするように言った。「同意書には、目印がある。郵便番号のところ。隠しコードだ。残光院のローカル端末は、一度に一種類のコードしか受け付けない。つまり、登録を物理的に混ぜる方法で足止めができる」

「混ぜるって、具体的に?」ミオが前のめりになる。

「我々の側で『別の同意』を並行して配り、バーコードをかき混ぜるのよ。仮にスキャンが始まっても、識別ができなくなる。端末が例外処理に入れば、自動アップロードは止まる──少なくとも、数十分は」双葉はそう言って手で円を描いた。彼女の手の甲に、小さな傷痕が光る。

それなら、鏡面鎌でやるべきは何かが見えてくる。鏡面の力は一度だけ、事前に合意した作戦を「現実化」する。物理的に同時多発で紙をばら撒き、配布の流れを乱す──だが、それをやるには全員の合意と同期が必要だ。葵が一人で刃を振れば、代償を払っても配布員たちを拘束できるかもしれないが、それは選択の奪取にほかならない。

「僕は――」蒼介が口を開けた。「誰の選択も奪われない方法でやるしかない。鏡面を使うなら、全