鏡面鎌の楽器工と残光院 第23話「第21章」
薄い蛍光灯が揺れるだけの小さなオフィスだった。壁に寄りかかった古い書棚からは紙の匂いが立ち上り、机の上にはコーヒーの輪染みと埃の層。窓の外はもう夜で、街灯の余光がブラインドの隙間から細く差し込んでいる。入江悠人は、そうした凡庸さのなかで――もっとも危険な情報を手渡す顔をしていた。
薄い蛍光灯が揺れるだけの小さなオフィスだった。壁に寄りかかった古い書棚からは紙の匂いが立ち上り、机の上にはコーヒーの輪染みと埃の層。窓の外はもう夜で、街灯の余光がブラインドの隙間から細く差し込んでいる。入江悠人は、そうした凡庸さのなかで――もっとも危険な情報を手渡す顔をしていた。
「時間はない。移送が前倒しになった。今夜の二十三時には、第四区の避難民を二班、運び出す」
入江の声は低く、それでも震えがあった。律真白は鏡面鎌を膝に立てた鞘ごと抱え、冷たい刃の映り込みに自分の顔が揺れるのを見た。刃先は鏡のように薄く、冷えた金属の匂いがした。触ると指先が僅かに振動を感じる。楽器工としての習性が、刃の微細な振動を耳元に刻んだ。
咲が資料に目を落とす。高瀬は入江の言葉を反芻するように掌を擦り合わせ、稔は窓の外を睨んだまま唇を噛んでいた。四人のうち二人は、昨夜のあの場にいた。合意が必要だということを知っていた。鏡面鎌の使い手が行うのは「共有の作戦」を一回だけ現実化させる術だ。合意がないと、どんな結果になるかはわからない。律はそれを身を以て知っていた——単独で使えば、感覚の何かが必ず削がれる。だが今、時間はない。
入江は薄暗い室内で小さなUSBカードを差し出した。指先の震えが見える。彼の頬には残光院の職員バッジの青い光が月光のように残っていた。
「中央の選択端末は、ネットワークで同期してる。通常は遠隔でロックがかかるが、そのロックは主任クラスの手動解除が必要だ。今夜は――主任が異動で留守にする。入り口は開いている。だがサーベイランスの視線はきつい。君たちが端末を同時に書き換えるなら、受け手の選択肢を一度だけ差し替えられる。住民に投票の形で選ばせることも可能だ」
「一度だけ、だな?」咲の声は冷たかった。論理だけを切り取るように。
「一度だけだ。端末は町中の6箇所を同時にリセットする。合意があれば、鏡面鎌の術で一斉に書き換えられる。合意がなければ――」入江は言葉を切り、顔を伏せた。「無差別に効果が広がる。敵にも作用する。監視側がその瞬間にいるなら、そいつらも巻き込まれる」
律の背筋に冷たいものが走った。使う側の合意を無視した場合、術の作用範囲は同じネットワークに繋がるすべてへ跳ね返る。言い換えれば、彼女一人の意志で発動してしまえば、結果は味方だけでなく残光院の職員や警備、さらには端末を間接的に運用するシステムにも及ぶ——それが敵側の対処に利用されれば、避難民がより深刻な流動に押し込まれる恐れもある。
「今夜しかない。彼が言うとおり、主任不在の窓は短い」高瀬の声が早い。策を練るときの速さが、彼の利点だった。「端末を選択肢の投票に差し替える。住民が自分たちの行き先を選べるようにする。あの子たちを隔離施設へ押し込む象牙の計画を止める。それで十分だ」
稔がゆっくりと口を開いた。「ただし、合意がないと——ということは、誰か一人でも拒否すれば術は発動しないのか?」
「発動はできる。だが反動が来る」律は鏡面鎌に触れ、冷たさを確かめた。刃の反射が、四人の顔を分割する。彼女は楽器を仕立て直すときと同じ感覚で、刃の縁を唇の近くに持ってきた。準備の儀式はいつも静かな恐怖と甘い期待を伴った。使用は“合意”の共有を前提とし、その一回性を終えた瞬間に、術は自己を封鎖する。仲間の合意を無視するなら、術はネットワークの全員に適用される──だがその結果が、救いになるか、罠になるかは運命の気紛れだ。
「俺は行く。今すぐに」高瀬が立ち上がり、窓の外に目を走らせた。そのとき、遠くでサイレンがひとつ鳴り、オフィスの空気が振動した。入江の顔が真っ白になる。
「前倒しだ。トラックが早めに来た」
咲は腕を組んだまま、律を見た。彼女の目には怒りと恐怖と、不意の弱さが混ざっていた。「リツ。あなたは知ってる。単独でやれば、また何かを失う。あなたの仕事――指先が、無くなるかもしれない」
律の肩が縮まる。楽器をつくる手。再び触覚を失うことは、その手の職能の一部を削ぎ取られることを意味した。だが、今ここで死者が出る可能性を思えば、削がれるのは自身の一部だけだ。
「入江さんは外に出られないのか?」律が問うと、入江は首を振った。「職員リストに載ってる。動けば関係者がすぐに分かる。私がここに居るのは、追跡を逸らすために、少しでも時間を稼ぐためだ」
沈黙が落ちる。稔が静かに立ち上がり、背後の古いロッカーを確かめた。小さな懐中電灯の光が、彼の指先で紙の角を掴む。紙には避難リストの宛先が記されていた。そこにあったのは、律が知っている名前。彼女が守ると誓った一人の老人、そして小さな女の子、絵を描くのが好きなミユという名。頭の中で、彼らの顔が浮かぶ。
入江は震える手でUSBを差し出した。「これがあれば四箇所の端末を同時に書き換えられる。合意があれば、私がここから信号を送る。だが留保が一つある。術の同期は鏡の反射で成立する。鏡面鎌が媒介になる。その鎌が一人で動くと、反動は必ず術者の身体のどこかの感覚を奪う。今日は、誰もがその代償を受け入れるか――それとも別の手を探すか、選べ」
咲がゆっくりと息を吐いた。「私は賛成しない。私には賛同できない。あの端末を一度書き換える価値は分かる。でも、ルールを破れば私たちは同じ論理で人を操作する側になってしまう。私はそれを選べない」
その言葉は合図だった。高瀬の目が怒りで光る。「待っている暇はない。放っておけるのか。老人も子どもも今夜、車に押し込まれるんだぞ」
稔が中に入ってきた。彼は咲の肩を掴み、低く囁く。「選ぶのは個人の自由だ。僕は自分の判断で行動する。咲、君は君のやり方で守ればいい。だが俺は――」その言葉を置いて、彼はドアに向かった。
咲の唇が震え、律の胸は締め付けられた。四人での同意は得られなかった。合意は二人、反対は一人、途中離脱が一人。術の成立条件は満たされていない。だが、サイレンは鳴り続ける。時間は無情に迫っていた。
律は鏡面鎌を抱きしめるように掴むと、刃を床に滑らせてほんの一線の音を鳴らした。弦をはじいたときのような、細い高音が空気を切った。彼女は目を閉じ、胸の鼓動を楽器のチューニングにあわせるように整えた。指先が冷たくなっていくのを感じながら、彼女は一つの決断をした。
「私がやる。単独で」声は震えたが、そこに揺らぎはなかった。
高瀬が叫ぶ。「ダメだ、待て!」
だが律は既に動いていた。鏡面鎌を水平に掲げ、刃面に月光を撫でる。刃の鏡面が四人の影を切り取り、そこに小さな共鳴が広がった。術の起点はいつもこうだ。合意があれば、共鳴は互いに繋がり、作戦の輪郭が定まる。だが今、巫山戯た呪文めいた手順を律だけが行っている。刃に指を滑らせ、彼女は自分の計画――避難民の選択を返す案を心に描いた。
瞬間、鋭い痛みが指先を走った。ざりざりとした感覚が掌から指先へ、まるで熱い砂が転がるように移動する。律は舌先に鉄の味を感じ、視界の縁に白い点が踊る。耳鳴りが始まり、低い周波数が胸骨を震わせた。だが同時に、街の方角でバスのエンジンが急停止する音が一斉に鳴った。遠くで、驚きの叫び声が一つ、また一つと重なる。
だ