鏡面鎌の楽器工と残光院 第19話「第17章」
舞台は旧市立体育館の屋根裏。雨がまだやまない。波打つ屋根板の隙間から、街灯りが斜めに差し込み、床に影の格子を描いている。安藤奏は、鏡面の刃を掌の上で転がした。冷たい金属の感触が、指先の皮膚に微かな振動を残す。刃面に映る自分の顔は、雨粒のせいで細かく乱れていた。
舞台は旧市立体育館の屋根裏。雨がまだやまない。波打つ屋根板の隙間から、街灯りが斜めに差し込み、床に影の格子を描いている。安藤奏は、鏡面の刃を掌の上で転がした。冷たい金属の感触が、指先の皮膚に微かな振動を残す。刃面に映る自分の顔は、雨粒のせいで細かく乱れていた。
「来る時間はあと三分。残光院の車列が橋を詰める」七瀬瑠衣が小声で告げる。瑠衣の声には医師としての沈着さと、市民をまとめる者の焦りが混じる。彼女は懐から赤い包帯を取り出して、手早く折り畳んだ。
奏は鏡面鎌を胸元に押し当てた。刀身が軽く震え、微かに唸るような音がした。耳の高い方の周波数が、いつもより遠い。先に一度、単独でこの刃を振った時の代償はまだ体に残っている。右耳の高域が抜け落ちたままで、遠くのサイレンの甲高い断片がぽっかりと消えている。指先の温度感覚が、時折薄くなる。代償の余波が、彼女の内側で淡く広がっていた。
「今回はどうする?」風真が訊く。杉節のように細い影法師のような男は、街の暗がりでよく笑っていたが、今は歯を食いしばっている。彼の手には、旧式の投光器。電源を落としても、重みだけは真実を訴える。
奏は仲間の顔を順に見回した。高杉慎は腕に工具箱を抱えている。河合梢は子どもの名前をメモした紙をぎゅっと握っている。結城海翔は胸を張って立っていた。避難民の列の中に母親の姿があるはずの少年だ。
「鏡の使い方を再確認する」奏は言った。声は低く、でも確かな響きがある。説明のつもりはない。行動として示すだけだ。刃を少しだけ傾け、鏡面に文字を書いたように空気を切る。表面に、彼女の映像と同じ角度で瑠衣、風真、高杉、梢、海翔の顔が重なって見えた。五人の視線が短い線で交差する。
「これを、五人が同じ作戦イメージで共有する。全員の合意が会ったときだけ、鏡はそのイメージを一度だけ現実にする」奏の手がわずかに震える。「合意がない状態で私が使えば、鏡は『共有』の定義を広げてしまう。反射に映ったすべて——敵も含めて——に作戦を押し付ける挙動を起こす。意図しない人間の意思を奪う。そういう危険性がある」
風真の顔が締まった。「敵にも作用する、って…それが悪いのか?」
「場合による」瑠衣が答える。「誰かを止めたい時に敵に作用するなら、結果的に助かるかもしれない。でも、今回みたいに人の流れを変える必要があるとき、敵が『動かされる』ことで、流れの中に子どもや老人が巻き込まれる可能性がある。私たちは人の主体性を奪ってまでは守りたくない」
奏はうなずいた。鏡面鎌は、単純に使えば即効性のある奇跡を起こすものではない。仲間との合意という極めて倫理的な縛りがある。それがあるからこそ、この刃は「戦術」としての形を保っているのだ。
「一度だけ、というのは?」慎が訊く。工具箱の金属の匂いが鼻をくすぐった。彼の手が、思わず鎌の柄に伸びる。
奏は小さく笑った。「一度だけ、は文字通り。鏡はそのイメージを現出させたら、表面の屈折が変わって、同じ方式では二度と同じ現象を作れない。多分、鏡の内部構造が変化するの。使うなら、本当に決断しないといけない」
雨が屋根を叩く音が少し強くなった。遠くで、残光院の車列のエンジン音が低く唸りを上げる。橋の向こうに、白い反射帯を着けた監視隊の光が幾つか見えた。彼らはいつものように、移動の自由を書面で抑え込もうとしている。
「俺は行く」海翔が言った。声に揺るぎはない。彼は四つの季節を擦り切らせたような顔で、じっと奏を見つめる。「母さんがあの列の中にいる。鏡を使うなら、俺は合意する。皆が同意するなら、俺は…俺は何だってやる」
梢がその手を取り、少しだけ震えた。「海翔、無茶はしないで」
「無茶じゃない」彼は笑った。笑顔に、若さの痛さが滲む。「誰かが立ち上がらないと、変わらないんだ」
誓いの言葉のように、五人の視線が合う。合意を取るための瞬間だ。鏡面鎌の刃が黒い液体のように空気を切る。奏は合図を出す。だが、視界の端に、異変があった。残光院側の車の一台が、屋根の反射に向けて小さな装置を取り出す。黒い箱形の機械だ。光を受けて小さく、角度を変えると、鏡に似た板が浮かび上がった。
「反射板だ」慎が吐き捨てるように言った。「あれがあると、鏡の所作が歪む。残光院が鏡を想定して用意したカウンターだ」
瑠衣の目が細まった。「彼らは待っていた。私たちが鏡を使うタイミングを」
風真が舌打ちする。投光器の重みを手に、彼は頭の中で別の絵を描いた。「反射板があの角度だと、鏡の作用域が外周に跳ね返って、無関係の人間にも『共有』を強制する可能性がある。つまり…一発で橋の向こうの全員——避難民も監視隊も、無差別に作戦適用対象になる」
奏は冷たい空気を吸い込んだ。金属の刃が胸の上でひんやりと滑る。彼女の右耳の欠落した高域が、今この瞬間を凍らせる。もしここで彼女が単独で使えば、反射板が作用を拡大し、意図しない多くの人々の意思が一斉にひっくり返る。母を守りたい海翔の思いも、誰かの義務も、知らないうちに外面的な強制として押し付けられるかもしれない。
「じゃあ、どうするんだ」瑠衣の声が震える。雨音がそれを押し流した。
奏の手が、そっと鎌の柄に力を込めた。斜めに当たる街灯の光が刃面に遊ぶ。彼女はふと思い出した。最初に鏡を使った時、何が起きたかを——その代償が耳に刻んだ微かな静寂を介して、記憶が戻る。自分一人で、時間の隙間に奇跡を落とした瞬間、世界の一部を奪われた。失ったものはいくつもあるが、何よりも「人の選択を尊重する気持ち」を失いたくないと、彼女は思った。
「二つだけ道がある」奏は言った。「一つは、私が単独で鏡を使って、一瞬で皆を橋の向こうに移動させること。確実に母さんは助かるかもしれない。でも反射板のせいで、無差別の適用が起きる可能性が高い。そうなれば避難民の自由が奪われる。私がさらに感覚を失うのも確かだ。もう一つは…私が使わないこと。私たちだけの手で、混乱を作り、連鎖する主体的な行動で脱出を試みる。危険は増える。誰かが捕まるかもしれない。だが、勝利を一人で独占することにはならない」
海翔の目が光った。彼は、自分が母のためにどこまで行けるかを考えた顔をしている。梢の手が、彼の手をもっと強く握った。
「私が合意する。鏡は使ってほしい」瑠衣が急に言った。「でも条件がある。反射板を先に叩く。慎、あなたの工具でパネルを外せるか?」
慎は瞬間考えた。工具箱を膝に置いて、指先でいくつかの金具を確かめる。「時間はギリだが、できる。だがその間に監視が来るかもしれない」
「私が囮になる」風真が言った。彼の口元が笑っているのに目は笑わなかった。「一度でいい。皆を誘導して、慎に時間をやる」
「誰も強制しない。合意した者だけが鏡の範囲に入る」奏は言葉を付け加えた。「海翔、梢、瑠衣、慎、風真。君たちの全員の意思が揃ったら、私は使う。だが——もし私が使うなら、その代償を引き受ける。もう一つの代償は、私が戻れないかもしれない。五感のどれかをまた失うかもしれない」
空気が一瞬硬くなる。海翔は迷わずうなずいた。「それでもいい。母さんの選択を奪うくらいなら、僕の意思で行く」
梢の涙が