空洞拳の渡し守と赤道公国

空洞拳の渡し守と赤道公国 第5話「第4章」

夜の川面は黒い絹のように静かに流れていた。木造の小舟が一艘、岸を離れ、オールが水を切る音だけが低く反響する。レンは濡れた麻布のにおいと、冷えた鉄の帯の感触に集中しながら、背後にいるグループの顔を見回した。幼いタケルの肩に巻かれた古い毛布、ユキ婆さんのしわくちゃの手、ミオの鎧のような爪先立ち。

夜の川面は黒い絹のように静かに流れていた。木造の小舟が一艘、岸を離れ、オールが水を切る音だけが低く反響する。レンは濡れた麻布のにおいと、冷えた鉄の帯の感触に集中しながら、背後にいるグループの顔を見回した。幼いタケルの肩に巻かれた古い毛布、ユキ婆さんのしわくちゃの手、ミオの鎧のような爪先立ち。

「行くわよ、カイ。右側から抜ける。レン、板を押してくれ」

ミオの声は震えているが、指示は正確だ。カイは小さな懐中電灯を消して、岸沿いに低く身をかがめた。彼の動きには無駄がない。レンは舳先で足を突き、木がきしむ感触を膝に受け止めた。水面は冷たく、波紋が夜風に引き裂かれて細かく散った。

「四人ずつだ。速く、静かに」カイがささやく。仕事は細分化してこそ安全だ。ミオとカイが小分けにして人を運ぶのは、彼らが選んだやり方だった。レンはその補助だ。渡し守としての手順を身体が覚えている。だが、いつも胸の奥で穴が開くような感覚がある。拳の中に何かがある。空洞。触れてはおけないもの。

一往復目は成功した。岸辺にいる者たちが息を飲み、ぼんやりとした安堵の表情を見せる。小舟を繋ぎ直すと、そこへまた新たな声が群れから上がる。数が増えた。子どもが一人、また一人と抱えられ、父親が手を震わせながら体を預ける。ミオが目を細め、タケルを膝の上に抱き寄せて「よく来たね」と囁く。

だが水は嘘をつかない。向こう岸まで行き来するたびに、川向こうの明かりが増える。監視の灯りだ。赤道公国の巡視艇は夜でも動く。今日は運がよかっただけだと、レンは思う。運は彼らの計画には数えられない脆弱な要素だ。

「次は大勢がいる」ミオが小声で言った。群れの最後の方に立っていた男が大声で泣き叫んだ。子どもが四人、老人二人。二艘の小舟では回せる人数を超えている。岸の向こうに見える建物の輪郭が、来春の予告のように硬く光を放っている。

レンの手は自然と拳を握っていた。空洞拳の感覚が、掌の内側で冷たい空洞を作る。いつもは封じている像だ。拳の中の虚の深さを覗くと、遠い何かが呼吸をする。息の音が、耳鳴りのように盛り上がる。

「レン?」ミオの声が近づいた。彼女がこちらを見ている。焦りが目に滲む。カイは左岸へ投げ縄を展開する準備をしている。彼らは自分たちで決めた——分けて動く。レンはその決定を支えるはずの人間だ。

その瞬間、レンの脳裏に歪んだ映像が浮かんだ。拳を握る指の間に黒い穴。スローモーションで水滴が拳の縁から落ちる。ミオの動きは早回しになり、彼女の髪が風に靡く様が細い糸のように飛ぶ。カイは踵を返して走る。彼らの全てが加速して、同時に遠ざかる。レンだけがゆっくりと、無限にゆっくりと、拳の中の空洞を見る。

「一度だけだ」心の中で声が囁いた。自分の力は一度だけ、共有された作戦を実現する。合意があれば、彼は不可思議なことを起こせる。一本の線が瞬時に複数の場所を結ぶ。だが代償は、いつも血や肉ではなく、感覚だった。前に一度使ったことがある。右耳の奥には、未だにぽかんと穴がある。風の鳴る方向が分からない。夜の雨音が、いつも遠ざかって聞こえる。

あの日の代償を思い出すと、拳の空洞が熱を帯びる。いま使えば、もっと大勢を安全な場所へ送れるだろう。群れが多すぎて、このままでは全員を運べない。もし一度だけ――

だがもう一つ、言い知れぬ規則が頭をよぎった。合意のない使用は、諸刃の剣だ。仲間の同意を無視すれば、その作用は味方に留まらず、敵にも及ぶ。レンはその意味を咀嚼する。敵にも及ぶ――すなわち、彼の一度の奇跡は、相対する存在にも同じ効果をもたらす。想像してみると恐ろしい。もし敵が同じ瞬間に問を受けたなら、彼らもその「作戦」の中に引き込まれる。無垢な援助が、強者をも救い、強者の手で利用されるかもしれない。

心の中で秤がぐらついた。その夜、誰を救うのかだけでなく、誰に力を与えるのかも選ばなければならない。レンは拳を固く閉じ、爪先に力をこめた。血管の拍動が掌に伝わる。目を閉じると、空洞から低いうなりが聞こえるような気がした。だが耳は途方もなく遠い。彼は代償の味を知りすぎている。

「レン、どうした?」ミオがやや大きい声で問いかける。子どものひとりが震えて、「もう行こう」と言った。焦燥は募る。

そのとき、対岸から微かなエンジン音が聞こえた。白い光の筋が水面を走る。巡視艇だ。彼らの小さな連携が、たちまち露見するかもしれない。群れの人々の顔がぱっと固まる。ユキ婆さんは口をぎゅっと閉じ、タケルはミオの袖を噛んでいる。

「分割するしかない」カイの声は低く、決然としていた。「ミオ、君は子どもたちを連れて外側から。俺が内側を引きつける。レンは舟を二艘同時に回してくれ。タイミングが命だ」

ミオは一瞬ためらったが、うなずいた。カイは自らの意思で、危険な役割を受け止めた。レンの胸には温かいものが流れた。自律の決定が積み重なって信頼になる。この信頼を、拳一つで壊すわけにはいかない。

レンはゆっくりと拳を開いた。空洞の縁が消える。水面の冷が掌に戻る。彼は深呼吸をして、顔を上げた。遠くに見える巡視艇が二つ、影を落とす。光が近づく。

「俺が外側だ」カイが小さな笑みを浮かべて言った。「行ってこい、ミオ」

ミオは息を整え、小舟に子どもたちを乗せる。水の音が一斉に近づき、彼らは静かに漕ぎ出した。カイはわざと舟を大きく揺らし、後方の注意を引く。レンは舳先で板を押し、人々を乗せ替えていく。夜風が髪を梳き、カイの肩に降る水滴が星のように輝いた。

だが勝利の匂いは長く続かなかった。巡視艇のエンジン音が岸に達すると、強いライトがこちらを照らした。輪郭の中に一人の立ち姿が浮かび上がる。装備は整っているが、姿勢に躊躇があった。彼女はパトロール隊の一員らしい。ネームタグにルカとあった。

「待て」彼女の声は冷たく澄んでいた。なのに、その目が群れに触れると、瞬間の軋みのように柔らかくなった。ユキ婆さんを見て、タケルを見て、ミオの顔を見たとき、ルカの口元に小さな悲しみが落ちた。

「申告しなさい。さもなければ逮捕だ」指示は機械的だが、言葉の端に躊躇が残る。ルカは命令を実行する側であり、同時に家族を守るための線で縛られている。彼女の手は短剣よりもずっと重い。

「情報は持っている、けれど」ルカは一歩前に出ると、意外にも小声で言った。「今夜だけ、こちらの通行を見逃す代わりに、あなたたちの中の一人を引き渡してもらえないか。行政区の指名だ。技術者だって聞いた。その人を送れば、残りを見逃す」

要求は制度の臭いを放っていた。個を一つのコマとして差し出せという、古くて冷たい処理。彼女はそれを下している。まるで誰かの命令ではなく、止むを得ない現実を伝えるかのように。

ミオの顔が青ざめた。タケルの母親が嗚咽をこらえる。カイが呻く。レンの拳は、また空洞を探してしまった。目の前にある選択肢は三つだ。ルカの提示する交換に従うか。ここでレンが一度だけ力を使って全員を移送するか。そして、それを拒んで分散して逃げるか。だが今夜は時間が限られている。巡視艇の距離は縮む。

ルカはレンをまっすぐに見た。彼女の目の奥に、何かを確かめるような光がある。