空洞拳の渡し守と赤道公国 第3話「第2章」
青白い照明が濡れた石畳をキラリと撫でる。何度もやった夜の搬送は、いつもと同じ匂い――油と古紙、そして人の疲れた汗が混ざっていた。レンは背負った小さな箱の端に指をかけて、先行するユリアの背中を追った。彼女の足取りは速い。遠くに見える扉の向こうに、避難民の列が待っている。
青白い照明が濡れた石畳をキラリと撫でる。何度もやった夜の搬送は、いつもと同じ匂い――油と古紙、そして人の疲れた汗が混ざっていた。レンは背負った小さな箱の端に指をかけて、先行するユリアの背中を追った。彼女の足取りは速い。遠くに見える扉の向こうに、避難民の列が待っている。
「二分、二分しかない」ユリアが息を切らしながら振り返る。声には怒りと焦りが混じっていた。箱の中は暖かく、子どもの靴がカタカタと当たる音が響く。もしここで道が塞がれれば、彼らは動けない。レンはそれを知っていた。
上空で小さなプロペラが羽ばたく。ドローンだ。金属の眼が夜を裂き、冷たい線のような光が一帯をなぞる。光がレンの手首を撫でた瞬間、彼の掌の内側で――空洞が微かに震えた。薄い穴が、確かに、そこにあった。
「見つかった」ミオの呟きは、怒りを飲み込んだ声だった。彼女は肩掛けの工具袋を強く握っている。顔は青く引き締まり、唇を噛んでいた。ミオはいつだって計算高く、仲間の安全を最優先に考える。レンは彼女の眼が仲間を数えるのを見た。五人か、六人か。数が増えるほど、決断は重くなる。
レンは手の中の空洞拳を確かめるように握り直した。空洞は自分の意志に応じて膨らむことも縮むこともするが、制御はいつも不完全だった。条件は明確だ――共有した作戦だけを一度だけ現実にする。代償は苛烈だ――一人で使えば、感覚の一部を失う。禁止は厳しい――仲間の合意を無視すれば、能力は敵にも作用する。
「案がある」レンは低く言った。声が震えるのを抑えながら、彼は言葉を選んだ。「空洞拳で、ここから通れる“空間”を一度だけ造る。俺たちと避難民だけが通れる道を──」
ユリアが手を挙げた。「やる。いま、やらなきゃ子どもたちが死ぬかもしれない。説明はいらない、やって。」
ミオの顔が怒りで歪む。「待て。代償は? 前にもやって手を痛めたのか? 一人で勝手に使うつもりなら、私が止める。レン、何を失うんだ」
レンの胸がぎゅっと締め付けられる。代償はいつも実感として冷たい。片耳が遠くなった日、雨音が消えた日、彼は世界が一瞬狭まるのを見た。だが言葉にするのは簡単ではない。「感覚が失われる。聴覚か、色か、距離感か──それは毎回違う。戻らないこともある」
ユリアがもう一度前へ出る。彼女の手は震えていたが、声は強い。「それでもいい。子どもたちが助かるなら、レン。あなたがその代償を負うって言うなら、私は賛成する」
ミオは横に振る頭を抑えられない。「それっていつものパターンよ。あなたが犠牲になることで、誰かが助かる。私はそれを“常態”にしたくない。レン、もし私たちで合意しないままやったら。──その場合、君の能力は敵にも効くんだろう? それってどういうことよ?」
レンは言葉に詰まった。説明を求めるミオの眼は、真剣そのものだった。「合意を取らずに使うと、対象が広がる。ここにいる“全員”が、その効果の対象になる。避難民だけでなく、監視も、迎撃部隊も、そして――僕自身の判断に逆らった仲間も。つまり、無差別になる可能性がある」
夜風が通り、ユリアの髪が頬に張り付く。ミオは拳を握りしめた。「無差別は許せない。私たちと避難民だけが通れるようにするためには、全員の“同意”が必要なのね」
「そうだ」レンは頷いた。ただし彼は心の底で知っていた。完全な同意は稀だ。利害は交差し、恐怖は裂ける。それでも今回、ユリアは同意した。だがミオは、諦めていなかった。
「じゃあ、証明して」ミオは言う。「‘共有’っていうのを。どうやって誰が同意したかを示す? 形のあるものを見せて」
レンは一歩前に出た。石畳に置いた箱を椅子代わりにし、彼は両手を差し出す。掌の空洞が、夜の空気をすり抜けるように目に見えない振動を作る。彼は小さな約束ごとを唱えるように、短く説明を重ねた。ユリアは黙って彼の手に触れた。熱が伝わる。ミオは触れない。彼女の手は、工具袋の縁に絡ませたままだ。
「触れた分だけ、共有する」レンは言った。「君たちと作戦を“結び”たかったら、手を重ねて。」
ユリアはもう一方の手を差し出す。ミオの顔に亀裂が走る。彼女は歯を食いしばり、小さく震えた。だがやはり手は出さなかった。レンの胸は鋭く痛んだ。合意は、二人のうち一人分だけだった。
「部分的共有だと?」ミオの声が冷たくなる。「効果は――?」
「その共有に参加した者だけに、その作戦が現実になる。残りは――置き去りにされる」レンの言葉は砂利のように重かった。「選ぶんだよ。俺が使ったとき、誰が助かるかは、触れた手の範囲が決める」
ユリアの指先が小さく震えた。「それでもいい。少なくとも一部が通れれば、子どもの大半は助かる。ミオ、あなたは私たちを追え。後で合流する方法はある」
ミオは吐き捨てるように笑った。「後でって、いったい何の保障があるの? 君、いつも人を分けて助けてきた。だけど私は、誰も切り捨てたくない」
言葉の応酬が空気を押し縮める。背後の扉から、避難民のざわめきが漏れる。小さな声がひとつ、明確に聞こえた――「おねえさん、はやく!」ユリアの表情が切羽詰まる。レンはその声に身体が反応するのを感じた。選択は時間を待ってくれない。
「時間がない」レンは、決断の重さを吐き出すように言った。「ミオ、俺は君の判断を無視したくない。だが――今この場で、誰かを先に通さないと、全員が捕まるかもしれない」
ミオは最後まで黙った。空気が張り詰め、金属の羽音が遠くから近づく。新しいドローンだ。今度のはコーティングが赤味を帯び、背中に小さなマークが見える。近づく速度が速い。監視網が増援を送ったのだ。
ユリアがレンの手を強く握りしめた。「レン、やって。私は同意する。私たち二人だけでも子どもたちを運べる」
ミオは冷たく首を横に振る。「私は反対する。だが、それが君の意志なら止めない。私は自分の意志で戦う」彼女は工具袋から薄い板を取り出し、レンの耳元に近づけるように顔を寄せた。「ただし、もし君がじぶんひとりで代償を背負うなら、次に戻ってくるのは君一人じゃない。私も……違う方法で、救う手段を探す」
レンは指先から伝わる二つの温度を感じた。ユリアの熱さ。ミオの冷たさ。彼は掌の空洞をぎゅっと閉じた。空洞が締め付けられるような痛みが走り、鼓膜のそばで小さな鐘が鳴った。
「分かった」レンは短く言った。決意と恐怖が混じった声だった。「一度だけ、やる。ユリア、手を離すな。ミオ、もし戻れなかったら――頼む、次の案を頼む」
ドローンが旋回し、赤いランプが二人の影を横切る。避難民の列からは小さな泣き声が漏れた。ユリアの握力が増す。ミオは一歩後ろへ下がったが、視線は決して離さない。
そして、上空の赤いドローンが真っ直ぐにこちらへ向けて降下を始めた。外套に隠されたスキャンランプが開く、その瞬間まで、レンに残された時間は十数秒だけだった。
レンは呼吸を整えながら、空洞拳を満たすための一言を唱える準備をした。掌の中の影が、まるで吸い込まれるように渦を描く。彼の内耳で、遠くの子どもの声がふっと消えかけた。
選択の刃が降りる前に、レンはもう一度、二人の顔を見た。ユリアは目を潤ませて笑っている。ミオ