空洞拳の渡し守と赤道公国 第29話「巻末特別章」
潮の匂いがまだ冷たく残る朝、レンは桟橋の端に座り込んでいた。足元の木板は部分的に新しい釘で留められていて、乾いた潮風がその鉄の匂いを運ぶ。掌を開くと、小さな黒い空洞がいつものようにそこにあった。光を受けて縁だけが薄く光る。指先に触れるものの感触が、今日だけはいつもよりくっきりしているように感じられた。――それが、失う前の最後のはっきりした感覚だと彼女はまだ知らなかった。
潮の匂いがまだ冷たく残る朝、レンは桟橋の端に座り込んでいた。足元の木板は部分的に新しい釘で留められていて、乾いた潮風がその鉄の匂いを運ぶ。掌を開くと、小さな黒い空洞がいつものようにそこにあった。光を受けて縁だけが薄く光る。指先に触れるものの感触が、今日だけはいつもよりくっきりしているように感じられた。――それが、失う前の最後のはっきりした感覚だと彼女はまだ知らなかった。
「今日、どうするか決めるべきだよね」
ユリアの声が群れのざわめきの向こうから届いた。彼女は幼い子どもを抱え、後ろには数人の母親と年配の男が控えている。ミオは医療用の布を輪にして腰に巻き、カイは通信器らしきスクリーンを膝に置いて指を走らせていた。港は人の声と作業の音で満ちている。誰もが、いつもの──いや、これまでと違う決断を迫られていることを知っていた。
「同意が必要だ。皆で決めるって言ったじゃないか」ミオが低い声で言った。揺れる瞳がレンを見返す。ミオの顔には、何度も秤にかけられた重みが乗っている。仲間を失いたくないという意思と、避難民を一人でも多く守りたいという焦りの二つが、はっきりと現れていた。
カイがスクリーンを上げて見せた。小さな地図の上に赤い点が移動している。赤道公国の巡視艇だ。遠くの波頭で白く光る。音はまだ届かないが、視覚は確実にそれを告げている。
「ルートを一度だけ、空洞拳で作る」レンが言葉を出した。声は驚くほど冷静だった。手の中の空洞が微かに震くような気がした。言葉に出した瞬間、群れの空気が締まる。
「一度だけって……それが本当に、今か?」ユリアの問いに、レンは頷く。「一度だけ。全員の合意がいる。誰かが反対したら──」
「それは分かってる」ミオが割って入る。「でも、合意ってのは、ここにいる全員が理解して同意することだ。急いで決めるなら、たいていは誤る」
港の端、古い浮き桟橋の方から小さな悲鳴があがった。誰かが足を滑らせ、積み荷のロープが外れた音。老女がバケツを落とし、水の音が生々しく散った。人々が同時に振り向く。波は静かだが、波間に浮かぶ小舟が一隻、波に押されて不安定に揺れているのが見える。
「子どもがいる!」誰かが叫ぶ。ユリアが瞬間的に手を伸ばして抱えていた子どもを押しやるが、小舟は岸からわずかに離れ、流れに乗り始めた。船首に立っていた若者が必死にオールを振るが、潮に逆らえずにいる。
時間は一呼吸の長さで切れる。ユリアの口からは合図が出ない。ミオの目がレンを見て、そこに答えを求めるように固まった。
レンの胸の中に冷たい決意が落ちた。合意はまだ完全ではない。だけど今、そこにいる誰かの選択が奪われるのは見たくない。彼女は立ち上がり、群衆を押し分けて桟橋の縁に向かった。掌の空洞が熱を帯びるように感じられる。掌をぎゅっと握ると、空洞の縁が指に食い込むように感じた。
「いいか、聞いてくれ。これを使う。今、ここにいる誰の合意も取りに行けない。だから……」レンは呼吸を整え、声を絞る。「私が一度だけ使う。代償は受ける。誰も私を止めるな」
ミオの顔が一瞬、青ざめた。カイが叫び声を上げ、ユリアは口を半開きにした。だが、群衆を見渡すと、母親たちは子どもの顔を引きつらせ、老人たちは歯を食いしばっている。合意を取るために走り回る時間は、もう無い。誰もが、レンの行為を止めることができなかった。
レンは手の中の空洞に集中した。記憶の底から、かつての動作が滑り出す。掌の空洞はただの欠損ではなかった。彼女が望む一つの「作戦」をその中に描き、それをここにいる誰かと心を合わせるように託す。それが共有の合意の形だ。しかし今は、レン一人でその形を押し通すことになる。
彼女は目を閉じ、息を吐いた。掌を小舟の方へ向ける。空洞の縁が微かに震え、空気の流れが変わる。次の瞬間、目を開けたレンの前で、水面に透明な道筋が生まれた。波がそうあるべきかのように整い、小舟はまるで見えないベルトコンベアに乗るかのように岸へと押し戻された。子どもを抱いたユリアが声をあげ、周りから歓声が上がる。人々は抱き合い、涙を拭う者もいた。
だが、その歓声のすぐ後ろで、レンの身体は叫んだ。足先から広がる感覚が消え始めるのを彼女は感じた。最初は冷たい綿が皮膚の下に張られたような違和感だった。次第に、その厚い層は指先と足の裏の細かい振動を吸い取り、線のように消していく。レンは桟橋の手すりを掴み直すが、木のざらつきが掌を走る感じが薄れていき、指先が木目を追えなくなっていった。
「レン!」ミオの声が背後で震えた。だがレンは何も返せない。感覚が抜け落ちると、脳が間違いを起こしたように短い眩暈が走る。彼女は膝をついて波を見つめた。水面はいつもより鮮やかに光り、音ははっきりと聞こえるのに、濡れた紐を掴んでいる感触だけがどこか他所へ行ってしまった。
それと同時に、沖の方で小さな異変が起こった。赤い巡視艇のエンジン音が途切れ、通信の雑音が急に増えた。艇上の人影が互いに見つめ合う。真っ直ぐに岸を狙うはずの舵が、幾重にも揺れて右へ左へと遊ぶ。巡視艇の司令席にいた男が、グローブをした手を慌てて眼の前へ差し出す。彼の顔に、ためらいが開いた。ごく短い瞬間、彼の視線が固定され、周囲の判断は継ぎはぎの幻のようになった。目の前の地図上にある選択肢が朧に歪んで見え、どの選択も彼にとって正しく感じられない。
それを見た者が一斉に息を呑んだ。ミオはレンの方へ駆け寄り、彼女を支えようとしたが、レンは自分の掌に何かが留まっている気配を探していた。空洞の縁は冷たく、固かった。力が抜けたように、彼女は指を開いてみるが、物の重さが指先から伝わってこない。ミオが無理にでもレンを抱き上げようとすると、レンはそれすら上手く感じ取れず、転げ落ちそうになった。
「やった……のか?」カイが呟く。スクリーンで巡視艇の軌跡が不規則に踊っているのを見ながら、唇を噛んだ。
歓声の裏側で、別の感情が芽生えていた。ユリアは助かった子どもの頬を撫でながら、レンを見る。救われたことへの感謝がある一方で、レンが一人で引き受けた代償の深さに、胸が重くなる。ミオはレンの顔を覗き込み、声を震わせる。
「レン、君は……手の感覚が?」
レンは小さく笑おうとしたが、笑いもまた少し薄い。確かに、それまで当たり前にあったはずのものが、今は別の部屋に隠れてしまったようだ。だが、もっと困ったことがあった。巡視艇の動揺は、ただの機械的な故障ではなかった。遠目にも、艦上の兵士の表情や動きから、選択が歪んだような跡が見て取れた。誰かが意思を奪われたようだ――それは、レンが合意を得ずに力を働かせたことの結果だった。
「敵にも作用するって……まさか、本当に」カイの声は冷えた鉛のように低かった。彼はレンの肩に手を置き、ゆっくりと体重をかけて支えた。ミオは医療箱から消毒薬を取り出し、無意識のうちにレンの手の甲を拭こうとするが、指先の冷たさは拭えても、無くなった感覚までは戻らない。
「私が選んだ」レンはゆっくりと言った。「止める時間がなかった。これがただの便利な手段なら、私は許せない。だけど、今は……誰かの命が、目の前で奪われるのを見たくなかった」