空洞拳の渡し守と赤道公国

空洞拳の渡し守と赤道公国 第22話「第20章」

裏階段の薄暗がりは、ろうそくのように揺れる群衆の影で呼吸していた。焦げた木の匂いと、誰かが踏みつけた紙屑の粉っぽいにおいが混じる。鉄の手すりは冷たく、肘を押し当てたユリアの指先に震えが伝わった。階段の踊り場に腰をかがめたまま、四歳ほどの男の子が膝の間で小さく震えている。小さな肩が、すすで黒くなっている。子の頬をなでるようにしているのはミラだった。ミラの手には、公国の紋章が印刷された薄いチラシが握られている。チラシの角が折れ、片隅には乾いた汗の輪ができている。

裏階段の薄暗がりは、ろうそくのように揺れる群衆の影で呼吸していた。焦げた木の匂いと、誰かが踏みつけた紙屑の粉っぽいにおいが混じる。鉄の手すりは冷たく、肘を押し当てたユリアの指先に震えが伝わった。階段の踊り場に腰をかがめたまま、四歳ほどの男の子が膝の間で小さく震えている。小さな肩が、すすで黒くなっている。子の頬をなでるようにしているのはミラだった。ミラの手には、公国の紋章が印刷された薄いチラシが握られている。チラシの角が折れ、片隅には乾いた汗の輪ができている。

「…ユリアさん、でもね。あの人たち、優しかったのよ。『協力すれば安全に送る』って、証も見せたの。家に帰れるって、約束だって」ミラの声は紙を擦るようで、響きは薄い。「私は……わたしは、家に帰りたいだけなの」

ユリアは膝を曲げ、ミラと目線を合わせた。近くの壁に反射するランプの光が、ユリアの顔の片側だけを照らす。彼女は手のひらを開いて見せた。指の腹にうっすらと刻まれた瘢痕がある。拳を握ると、その中心に空洞のような影が見えることがあった。それが、人々にとっての「空洞拳」だと説明する必要は、今はない。

「君は選べる」ユリアは囁く。ただの言葉だが、それに乗せるものがあった。声の奥にあるのは、これまで何百もの人と交わした約束、重ねた面談の記憶。ミラの目が揺れる。チラシの文字を指で追うようにして、彼女は震える手をユリアの手の甲に重ねた。

「私は…怖い。もし断ったら、どうなるの?」ミラの指先は、チラシの表面の光沢に触れて震えた。

「ここで話すだけが選択じゃない。君が誰かに選ばれる必要はない」ユリアは静かに言った。だが、その言葉の背後で、講堂の上部から怒号が落ちてくる。討論会の壇上が、ついに破綻の瀬戸際にあるらしかった。外からの扉がばたんと閉まる音。人々の足音が廊下でぶつかり合い、誰かが叫ぶ。「出せ! 出せってば!」という声が近づいてきた。

その瞬間、踊り場の上の廊下で投げられたガラスタイルの瓶が床に叩きつけられ、火花が散った。小さな炎がすぐに油汚れに触れて広がり、煙が階下へ流れ込む。状況は瞬く間に閉ざされた空間へと変わった。避難の列は混乱し、後ろの通路は押し合いへと変わる。ユリアの耳に、遠くで交差する軍靴のリズムが届いた。討論を「守る」ために配された公国側の取り巻きだ。

「出口が塞がれた!」イリナの声が背後から飛んだ。医療班の若い女が、救急箱を抱えながらすり抜けてきて、ユリアの肩をつかむ。彼女の瞳は真っ赤になっている。レンはどこだ。レンの身体感覚は階段の影に溶けている。だが、レンがいなければ、裏口を封鎖した圧力を弱めることは難しい。もし、このまま炎が階段を詰まらせれば、踊り場の群衆は行き場を失う。外の兵士たちは、それを見越して群衆を管理する手筈を取っている。

ユリアは立ち上がる。袖が熱でぴりりと皮膚に張り付く。チラシはミラの手から落ち、階段の角に転がった。紙が少しだけめくれて、裏に小さな光沢のあるものが見えた。チップのような銀色の反射。ユリアの胸に冷たいものが走る。彼女は無意識に空洞拳の位置に手を寄せた。拳を軽く握ると、掌の中心に空いたような闇が見える。いつもより、空洞は深い気がした。

作戦は単純だった。レンが裏口を確保して流れを変え、イリナが負傷者を誘導、マルコが踊り場の圧力弧を分散する。三者の行動が、ほぼ同時に重なれば、出口は確保できる。ユリアはこれまで幾度も、空洞拳を媒介にして「一度だけの共同作戦」を実現してきた。だが条件がある。共有する作戦は、参加者の全員が意思を明確に同意していなければならないということ。合意が取れないまま強引に差し込めば、術は敵味方の区別を狂わせる。さらに、単独で使えば反動が来る。感覚の一部が代価として消えるのだ。

「レンからの返事がない」ユリアは言った。声が、熱と煙の中で薄く伸びる。彼女は踊り場の縁に沿って視線を滑らせた。レンは右側の踊り場の柱の陰で、顔に血をにじませていた。誰かに押され、頭を打ったらしい。彼はゆっくりと手を伸ばしたが、立ち上がる力がない。マルコは壇上近くの群衆を押し分けていたが、正面から軍の係員に押し止められている。

ユリアの中で計算が走る。合意を待つ時間はない。外は公国の取り巻きが動いている。子供たちが泣き、煙が吸い込みを難しくしていく。彼女は拳を強く握った。空洞が、ひんやりと皮膚を通して伝わる。使うなら、今だ。

でも、合意は十分ではない。レンとマルコ、少なくとも三人が明確に頷かなければ術は完全に味方にしか働かない。今の状態では、マルコは無理だ。レンは意識が朦朧としている。ということは、もし彼女が一人で強行すれば、反動で感覚を失い、さらに同時に――あのチップが意味するところを思えば――敵にも効果が及ぶかもしれない。公国が「協力」名目で配っていたものは、単なるパンフレットではなく、同意の電子的な証跡を取るための装置だったのか。もし敵側に「同意」が存在すれば、術の波及は予期せぬ共振を生む。敵が同じ共有の設計に巻き込まれ、彼らの行動がシンクロしてしまう。

「ユリア!」イリナが叫んだ。負傷者の一人が、足に血を滴らせて踊り場の角で息を切らしている。子の呼吸が弱くなる。ユリアは一瞬、視界が揺いだのを感じた。呼吸を合わせる。彼女は決断した。

「いい?」ユリアは、すぐ隣にいたミラの手を強く握った。ミラは驚きの色を浮かべ、指先が小さく震える。「これを、今、皆でやる。わたしが――媒介する。レン、マルコ、イリナ、そして君。みんなで一回だけ、やるんだ。わかったら頷いて」

ミラは戸惑いながらも、大きくうなずいた。イリナも、吐き捨てるように「わかった」と言った。レンは目をぎゅっと閉じ、口では「行く」とつぶやいたが、その声はかすれていた。マルコは二メートル先で押し込まれている。合意は部分的だ。完全ではない。

ユリアは拳を固めた。掌の中の空洞が収縮するように感じられ、そこから冷たい振動が体内に伝わる。彼女は言葉を逐一投げる必要はなかった。空洞拳は作戦を媒介する。彼女がその中心で意思を形にすることで、共同の行動が一度だけ可能になる。ただし、代償は約束どおりだ。彼女はその代償を受け入れた。

空気が引き裂かれるように、時間が瞬間的に細くなるのをユリアは感じた。仲間の心拍が遠ざかり、同じリズムへと収束する。動きの絵が彼女の脳裏に形成される。レンが柱から飛び出し、兵士一人の視界を遮る。イリナが担架で負傷者を抱え上げる。ミラは子供を抱き上げて、踊り場の中心へと走らせる。マルコは群衆を左右に裂いて圧力を分散させる……あらかじめ計算された通りに身体が動くはずだった。

だが現実は違った。かすかな違和感が、同期の輪の中に混じる。ユリアの中で一つの不協和音が鳴った。誰かが、別のテンポで動いている。階段の上部で整列していた公国側の係員たちの動きが、一斉にスローモーションのように揃い、空を横切るようにして、同じタイミングで群衆の流れを塞ぐ。彼らの歩調が、まるでユリアの構想をなぞるかのようにぴったり重なる。操作の輪が、向こう側にも刺さったようだった。

「敵も…入ってる」ユリアは低く叫んだ。熱が耳の奥に達し、同時に右耳が遠の