空洞拳の渡し守と赤道公国 第20話「第18章」
ヘリのローターが広場の上を引き裂くようにうなった。金属の脈動が地面を伝い、瓦礫の上に立つ紙コップや旗ざおを震わせる。空は薄墨色に押しつぶされ、ヘリの腹に吊られた黒い箱が回転しながら、監視カメラの冷たい瞳のようにこちらを覗き込んでいた。大音量のスピーカーが命令文を反復する。移送は「即時」だという。音声は無機質で、繰り返すほどに群衆の口の中で言葉が割れた。
ヘリのローターが広場の上を引き裂くようにうなった。金属の脈動が地面を伝い、瓦礫の上に立つ紙コップや旗ざおを震わせる。空は薄墨色に押しつぶされ、ヘリの腹に吊られた黒い箱が回転しながら、監視カメラの冷たい瞳のようにこちらを覗き込んでいた。大音量のスピーカーが命令文を反復する。移送は「即時」だという。音声は無機質で、繰り返すほどに群衆の口の中で言葉が割れた。
レンは掌を握りしめ、指先の骨の感覚を確かめた。空洞拳は掌の内側にできる空白であり、彼はそれをいつも拳の中で軽く鳴らしてから放った。だが今日は鳴らせない。彼の胸の奥に、前回の単独使用の痕が疼いていた。匂いを失ったときの記憶だ。パンの匂い、焼けた鉄の臭い、雨の土の匂い——そうしたものが一斉に遠ざかり、世界は薄くなった。あの代償はまだ彼の身体に貼りついている。
「レン、時間がない」ミアの声が近づいた。彼女はステージ脇でマイクを握りながら、震える群衆を見渡していた。白髪交じりのユリは杖に寄りかかりながら、眉を固くしていた。ベックはヘルメットを掴み、唇を引き結んでいる。人々の顔は混ざり合い、誰が誰を守るべきかを測る困惑に満ちていた。
「セルタは今日、直接的に潰すつもりだ。武装班を二組、こちら側から来させている。増援は向こうの線路を封鎖してる」ベックが低く言った。彼の言葉に、群衆の足音が小さくなる。ヘリの回転が一拍分だけ大きくなったように感じられた。
ミアは人々を落ち着かせようとするが、口調の端に焦りが乗る。「討論は私たちの時間よ。投票も、意志の確認もそこで行う。強制移送の法的根拠は曖昧だって、弁護士が言ってた——説明を聞く機会を与えれば、誰だって選べるはずよ」
「聞く機会を与える間に、彼らは人を攫う」ユリの声には重さがあった。彼はかつて港で渡し守として働いていた。潮の匂いを失った今も、判断は冷たい。彼の目がレンを見たとき、レンはその重さを全身で受け止めた。
「空洞拳は——」レンは口を開きかけて止めた。言葉にすると、理屈になり、仲間の同意というルールが痛くなる。空洞拳は彼が媒介である。彼の拳が空白を作り、仲間と作戦を共有し、その共有された意思だけを現実に一度だけ実現させる。合意がないまま押し切れば、効果は敵側にも及ぶ。単独使用は代償を伴い、身体の一部を確実に奪う。レンはその二つの縁に立っていた。
「一致できるか?」ミアが訊いた。彼女の目は真っ直ぐだった。背後のスピーカーから、また一度「即時移送」の文言が流れ、言葉の棘が群衆に刺さった。
「全員分かってるわけじゃない」ベックは答えた。「移動を望む家族もいる。戦う理由が無い人を縛ることはできない。それも選択だ」
「選択の場を守るのが今の私たちの役割だ」ミアは返す。「合意は取る。やってみましょう。わたしたちのやり方で」
声は伸びた。周囲から断片的に「やれ」「やらないでくれ」といった声が上がる。レンは群衆の中にいる子供の顔を見た。目の周りに土と涙が混じっている。彼女は母親にくっつき、母は赤信号が点くような恐怖の顔でこちらを見ていた。
ヘリが一段と低く旋回した。その腹からぶら下がっている黒箱が、何かを投下する準備をしているのが見えた。カメラのレンズがビルの角で人の顔を追い、ズームする。セルタ側の連絡員が無線で低く笑った声がかすかに届く。だれかが蜂起の合図を待っている。
「レン、我々は合意できる」ミアが言った。「私とベックとユリは、討論会を完遂させるために同じ作戦を共有する。みんなを退避させる出口を確保して、強制力の実行を妨げる一分間を作る。合意を広げる時間を稼ぐのよ。あなたが媒介になって」
ミアの言葉は確かに合図だった。三人の視線がレンに集まる。だが群衆は大勢いる。中には討論を嫌う者も、セルタの示した移送に従いたい者もいる。空洞拳の条項が厳然として平らな場を要求するなら、彼は群衆の「全員の合意」をどう確かめるかという課題を前にしていた。
「俺たちだけでやればいいわけじゃないだろう」ベックが歯を食いしばる。「合意の範囲が狭すぎれば、その外側の人間は——」
「被害を受けることになる」ユリが言葉を継いだ。「君が敵にも作用するって選んだら、その一瞬で誰が守られる? それを君は一人で決められるのか」
レンの掌が汗で滑る。空洞拳の準備は、いつも拳に息を込めるような儀式だった。拳内部に出来た空白の音は、鼓膜の裏に消えるような、不確かな空洞音だ。使うたび、彼の感覚の一部が薄れていった。前回は匂いだった。今回失えば何が残るのか。視覚か?聴覚か?味覚か?想像するだけで胃がきりりとする。
そのとき、群衆の端から蹴散らすような衝撃が来た。黒服の武装班がバリケードを破り、盾とバトンで突進してきた。煙幕弾が地面で弾け、橙色のガスが空気を濁らせた。人々が悲鳴をあげ、瞬時にパニックが広がる。ミアがマイクを握りなおし、大声で「落ち着いて!」と叫ぶが、声はガスにかき消えた。
ベックは咄嗟に盾を構え、武装班と押し合う。ユリは杖を打ち鳴らし、年寄りたちを撫でるように引く。レンは立ち尽くす時間が一瞬あった。合意の輪は完璧ではない。子供たちの母がレンに「どうするの」と目を向ける。彼の拳の中で、空白が呼吸を待っていた。
選択は二つに見えた。従うべきは合意の厳格な原理。全員の合意が取れないなら使ってはいけない。だが時間は残酷に流れる。武装班は押し迫り、ヘリは黒箱を下ろすためにフックを伸ばし始めた。あの黒箱が落ちれば、物理的に群衆を拘束する装置が展開される。そうなれば討論の余地は消え、人々は運ばれていく。
レンはゆっくりと拳を振り上げた。目は群衆を掃く。ミアとベックの顔が明確に見える。ユリが顔をしかめ、息を吐く。そこで彼はある判断をした——合意を「広く」取るのではなく、今目の前に確約した者たちの共有によって時間を作る。彼はミアとベックとユリの合意を受け取り、しかし群衆の全意志を得られなかった。自己の判断で先に行くことを決めた瞬間、空洞拳の別の条項が現実になった。
拳を下ろすように掌を叩いた。空気の中に小さな「穴」ができ、音が吸い取られる。周囲の火花がぎくりと止まり、ヘリの回転する音が一瞬だけ薄くなった。人々の足は地面に貼りついたように止まり、武装班が半歩分前に出て動けなくなった。ミアが仰け反り、ベックは盾を押し上げたまま硬直する。レンの胸には冷たい痛みが走った。
代償はすぐに来た。左の耳の奥で、キーンという高音が鳴り始める。音はどんどん大きくなって、次第に低く、そして遠くなっていく。世界の輪郭が削られ、色が一段淡くなった。匂いは既に薄かったが、今度は味が去っていく。口の中の塩味が溶け、舌の先が鉛のように冷たくなる。パンの甘さ、コーヒーの苦さが一気に遠くなる。レンは舌を噛みそうになりながら、拳の余韻を握りしめた。
だが効果は「敵にも作用した」。武装班は動かなかったばかりか、彼らの内部に備えられた自動化の起動が止まった。ヘリは空中に浮かび、黒箱から伸びるフックが一瞬彫像の腕のように固まった。コックピットのランプが点滅し、通信が途切れた。数秒から十数秒。時間は凍結に近いもので、しかし完全ではなかった。自動航行は遠隔制御に