翡翠盾の航路士と統計院 第2話「第1章」
「また来た」
「また来た」
屋根の上で相良瑠璃は息を詰めた。夜風が瓦の隙間をすり抜け、木の匂いと油の焦げたにおいを運ぶ。下の路地で、金属の箱が転がるような音がした。巡回車だ。鋭いスポットライトが天を引っ掻き、紙片が風に舞って落ちる。
「再配分予告――転送番号十四、十五、十六……本日二百二十八家族の移送予定」──車体のスピーカーが無機質に繰り返す。文字列を印刷した薄い紙が、飛沫のように裁断され、路地に降りそそいだ。家の前にいる人々の顔が、一瞬で硬くなる。
屋根からジャンプして裏庭へ降りる。木製の梯子を駆け下りると、避難区の掘っ立て小屋が連なる。ここに暮らすのは、数十の家族と、瑠璃が守ろうとしている仲間たちだ。彼らは「航路士」と呼ばれた者の痕跡――過去に危険な現場で道筋を渡してきた者の系譜を受け継いでいる。だが今、瑠璃は統計院の「番号」に脅かされている避難民たちを守らねばならない。
「瑠璃!」低い声で高倉徹が駆け寄る。顔に煤が付いていて、息が荒い。「また投げ込みか。こっちに入ったのは三十の家族だ。二時間後には巡回車が来るって噂だ」
瑠璃は、いつも腰にぶら下げている小さな翡翠の円盤を撫でた。翡翠盾──誰もがそう呼ぶ。光を受けると微かな緑の筋が流れ、触ると冷たい。今はそれが手のひらの中で静かに脈打っているように感じられた。
「集まれ」彼女が指示を出す。集会所に集まったのは、舞川リオ(医師見習い)、風間雫(十六歳の保護者代行)、小さなユウ(雫の弟)、そして数人の家族代表だ。皆、瞳に不安を抱えている。
瑠璃は翡翠盾をテーブルに置き、声を低くした。「統計院は、番号で人を奪っていく。今日は二百二十八家族のうち、ここからも何人かが選ばれる。僕たちで何とかしなきゃならない」
「盾を使うのか?」リオが言った。医療用のバッグを膝に抱え、指先が震える。「でもそれは……」
瑠璃は深く息を吸う。説明をする必要があった。言葉は冷たく、しかし誠実に出た。
「翡翠盾は――作戦を共有したときだけ、その共有された『作戦』を一度だけ現実にする。仲間全員の合意が基本だ。だが、単独で使うこともできる。ただし、代償がある。使った者は感覚の一部を失う。聴覚、視覚、嗅覚のどれかが――短くても完全には戻らないことがある」
テーブルの上で翡翠がかすかに光る。誰も触らない。部屋の空気が静まる。
「それだけじゃない」瑠璃は続けた。「合意のない共有――誰かの手を無理やり乗せて、同意を得ないで作戦に入れると、その効果は味方にのみ届くわけじゃない。敵にも同じように作用する。統計院にとって都合のいい『正規化』を招く可能性がある。だから強制はできない。自分の意志で手を差し出してくれない限り、その人を関係者として含められない」
高倉が鼻を鳴らす。「つまり全員の承諾が得られなきゃ、使えないと? 今すぐ車が来るんだぜ。時間がない」
「だから決断を急いでいる」瑠璃は翡翠を掴み直した。冷たさが指先に伝わり、うっすらと頭がずきりとした。使うか使わないか、その選択は誰かの命を左右する。だが、彼女自身の過去の失敗がその言葉を重くしていた。彼女はひとつの代価を既に知っているのだ——それを示すには、言葉だけでは足りなかった。
「もし……その、実際にどうなるか見せてくれるのか?」雫が声を震わせる。ユウが手をねじり、床板に噛みつくように目を伏せる。
瑠璃は盾を抱えて立ち上がった。「一度だけ、少しだけなら」言いかけて止めたが、子供たちの顔を見た瞬間、決断が固まる。「単独での試用をする。皆を動かすために必要だ」
「待て!」リオが反対した。「単独使用は――」
「分かってる。でも時間がない。もし私が一人でやるなら、被害は自分だけで抑えられるかもしれない」瑠璃の声が震える。手にした翡翠がひんやりと柔らかく脈を打つのがわかる。彼女は深く息を吐き、瞳を閉じた。
手の中で翡翠が温度を変えた。光が一点から広がり、彼女の意図を満たすように形を取ろうとする。瑠璃は周囲の物音を頼りに、頭の中で最短の『航路』を描いた。巡回車を逸らし、番号が投げ込まれた場所から少しずらして落とす──混乱の中で運用ミスを誘う。短時間で済むはずだ。
手のひらに小さな痛みが走る。次の瞬間、耳の奥で、高周波のノイズが爆ぜたように響き、声は遠くなる。光が裂け、部屋の明かりが一瞬、薄い緑に染まった。廊下の外で、巡回車のスピーカーが異常を告げる。車体が急に方向を変え、路地の角でぎくりと止まる。紙片が風に乱れ、渦を巻いて軒先に積もる。
「やった……!」雫が歓声を上げようとする。だがリオの顔は蒼白だ。瑠璃は耳鳴りの中で叫び声を何度も飲み込む。左耳の世界が遠く、風の向こう側のようになっている。匂いも薄くなり、わずかな違和感が舌の裏に残った。
「大丈夫か?」高倉が近づく。瑠璃は震える手で翡翠をテーブルに戻した。粒子のような光が消え、冷たさがただの石へ戻る。
「代償が出た」瑠璃は小さく笑った。苦笑だった。「使えた。でも、これで単独使用は……代価がきつい。何かを失った。戻るかどうかは分からない」
「やっぱり無理だ!」リオが盾を指さして叫んだ。「一回で終わるって言ってたじゃない。あなたが一人でやったら、今後もう使えないかもしれない。どうしてそんな博打を——」
「選択はいつも博打だよ」瑠璃は静かに言った。「でも今日は、少し時間を稼げた。巡回車は混乱してる。だが奴らは再配分の回収・再配布を止めない。残りの家族はまだ危ない」
部屋の温度が下がるように沈黙が落ちた。誰かがテーブルの端に置かれた再配分予告の紙を指で裂く。紙片はくしゃくしゃと縮み、床に落ちる。
「どうする?」雫が言った。瞳には涙が溜まっているが、それを拭う暇もない。ユウが瑠璃の足にしがみついた。
瑠璃は残った感覚を手繰り寄せる。耳鳴りが引かない分、視覚は研ぎ澄まされ、石の冷たさは深く伝わる。翡翠盾はまだ使える。しかし今は「共有」による一度の現実化の方が効果は大きい――しかし全員の合意が必要だ。合意のない共有をすると、意図しない「敵側への作用」が起きる可能性がある。つまり、強制はできない。
「今から提案する」瑠璃は言った。「私たちで一つの作戦を共有する。巡回車を遠ざけるだけでなく、番号を無効化する手順を作る。だが、それには手を差し出して自分の意思で同意してくれる人が必要だ。誰も強制しない。欠ける人がいれば、その人は作戦の範囲外だ。残る人たちだけで実行することになる」
高倉が顎に拳を当てた。「つまり、参加するかしないかの二択だ。参加したらその代償を皆で分かち合うのか?」
「代償は分けられないかもしれない。でも作戦そのものは――共有した作戦だけを一度だけ現実にする。それが武器だ」瑠璃は翡翠を指で撫でる。「合意する者は手をここに置いて。心からの同意。私は強制しない」
静かな時間が過ぎる。誰もが自分の指の先を見つめる。リオの手が伸びそうで止まる。高倉は口を閉ざしたまま腕を組む。雫はユウを守るように抱きしめ、視線を床に落とす。
「私……」雫が小声で言った。「でも、ママはここに残るのよ。あの人を連れていかれたら――」
「参加する」高倉が突然言った。彼は荒い