翡翠盾の航路士と統計院 第16話「第14章」
会館の床はまだ水を吸って冷えていた。外では風が瓦礫の間を抜け、時折軋むような金属音が割り込む。蒼井凪は丸い木の机に肘をつき、翡翠の盾を掌の上で転がした。冷たく滑る感触が皮膚の毛穴を引っ張る。盾の表面には、かつて自分が刻んだ細い線が残っていた。幾何学のように見えた縮約の印。彼女は指先でそれをなぞりながら、仲間たちの顔を順に見た。
会館の床はまだ水を吸って冷えていた。外では風が瓦礫の間を抜け、時折軋むような金属音が割り込む。蒼井凪は丸い木の机に肘をつき、翡翠の盾を掌の上で転がした。冷たく滑る感触が皮膚の毛穴を引っ張る。盾の表面には、かつて自分が刻んだ細い線が残っていた。幾何学のように見えた縮約の印。彼女は指先でそれをなぞりながら、仲間たちの顔を順に見た。
「賛成は?」森口拓斗が短く訊いた。声の端に緊張が残る。拓斗の前髪には灰が混じり、唇は乾いていた。彼は戦術に妥協がない男で、今夜の行動の成否を最も冷徹に採点するはずの者だ。
高瀬林檎が手を上げかけて止め、目を伏せる。「私たちだけでいい。避難者を渋滞から外して、安全な谷へ入れる。時間稼ぎのための転換行動、位置とタイミングは私が取る」
石橋咲は机の端に座り、肩を丸めていた。避難民のひとりひとりの顔が瞼の裏に浮かんで消える。彼女は住民の代表で、この会議で一番多くの「NO」を出し続けた。咲は小さな声で言った。「一度だけって、言ったのよね……凪さん。他人の意思を無理に変えるものなら、私は反対する。本当に、ただ一つの道しか残さないなら、私は……」
凪の掌の中の翡翠がほのかに震えた。薄暗い会館の電球が、盾の表面で翳りと光を細かく交互に作る。彼女は返事をする代わりに、昔の研究室の音を口の中で再生した。空調の低い唸り、キーボードのカチャカチャという音、画面の更新音。モノクロの記憶が視界を占める。
──「最適経路、候補二十三。選択空間の削減率は七割八分」
──「迷いが多いと、被害は増える。最短で安全圏へ──それが我々の仕事だ」
その頃の自分は、白衣の胸でクリップボードを薄く握っていた。統計院のディスプレイに映るマトリクスは美しかった。線を消し、点をまとめ、数式が収束する。均質に均されてゆく人々の軌跡は、まるで曲線を描くように滑らかだった。その過程で消えていった〈選択肢〉の数を、凪は数えることをやめていた。
「あなた、聞いてる?」咲が唇を噛む。凪は現実に戻ると、首を小さく振った。
林檎が低く息をついた。「ここで止めたら、統計院の追尾ドローンが三班、谷の入口を封鎖する。避難路は完全に詰まる。あの機械はアルゴリズムで人の流れを最小化して、安全効率だけを追う。そこで人が動けなくなる」
「で、だからといって……」咲の言葉は続かなかった。彼女の手が、小さな子どもの靴の形をした布を揉んでいるのが見える。中で、現実の時間が少しずつ削られていくのを凪は感じた。
「翡翠盾で実現できるのは、共有した作戦だけだ」凪は低く言った。言葉にするたび、盾のひんやりした重みが掌の中で増す。周りは静かになった。彼女は能力の条件を、眉間のしわを寄せて説明する。声が震えることはなかったが、胸の内はざわついた。
「一度だけ、だ。味方の合意を媒介して作戦を『実現』する。合意が正しく結ばれた場合、時間と行動の同期、恐らくは因果の小さな崩しを作り出して、全員がその軌道を忠実に辿れるようにする。成功率は高い。でも──」
凪は言葉を切った。拓斗が背もたれに寄りかかり、眉を吊り上げる。「でも?」
「私が単独で行おうとした場合、反動がある。感覚の一部を、たとえば視覚か聴覚、あるいは時間の方向性を数分から数日失う。二度と元に戻らないこともある」凪の口の端がひくりと動く。皆の顔に緊張が走る。過去に一度、凪がそれをやったことがあるらしいという噂はあったが、詳しいことは誰も知らなかった。
「そして最も重要なのは──」凪は掌の盾を掲げ、目を合わす。「合意を無視して発動すると、その実現は味方だけでなく『周囲全体』へと広がる。敵対する者たちも、同じ描かれた軌道に従うようになる。つまり、私一人の判断で使えば、敵をも『折り畳んで』しまう。選択の場を奪ってしまう。私はそれができる。だが、その行為の結果は、統計院が作るものと同じ原理——選択の簡略化に帰着する」
沈黙が重く落ちる。拓斗の指が机をたたくように動いた。「そんな危険があるなら、そもそも使うなって話だ。だが、避難者が死ぬんだぞ。どうする、咲?」
咲は怯えながらも顔を上げた。「……私たちに選ばせて。私たちを守るって言うなら、守られた人たちが次の選択を持てるようにしてよ。──それができないなら、私は盾を見せて欲しくない。押し付けてほしくない」
その瞬間、外から鈍い爆音が届いた。壁が震え、埃がまた一枚床に落ちる。会館の外の空気が一段と冷たく、金属的な匂いを含んでいた。
「接近。執行班だ」林檎が囁いた。滑り混むように、彼女の手が無造作に懐から小さな通信器を取り出す。画面は赤く点滅していた。
廊下の向こうで靴音が増え、統計院の黒い服をまとった作業班が整列して現われた。先頭に立つのは、いつもシャツの襟を少し立てた男、沼田理──統計院の現場指揮で悪名高い。彼の視線が会館の窓越しに鋭くこちらを切り取る。
「蒼井凪、翡翠盾を没収する」沼田の声は冷たかった。静かな断定。彼らは規則で動く人形のように見える。凪は盾を胸に引き寄せる。手に触れる翡翠の温度が、急に生ぬるくなった。何かが、押し寄せてくる。
拓斗の顔が引き締まり、全員の視線が交差した。合意の有無は時間の問題に変わった。咲の小指が震える。林檎は深呼吸をし、身を乗り出した。「この場で同意を取る。私が皆に声をかける。決断は、手を挙げて示して」
一列に並んだ避難者の列は、会館の外にまで続いている。彼らの息遣い、子どもの啜り泣き、古いラジオのノイズが断片的に聞こえる。凪は合図を待つ間、盾の縁に唇を寄せた。翡翠の冷たさが、指先から血管を伝って頭へ登る。
「いくぞ」林檎が始める。少数ずつ、手が挙がる。拓斗は鋭く、しかし確かに掌を掲げる。咲は躊躇いの末、小さく手を挙げた。凪の視界の隅で、数人が首を横に振る。完全な一致ではないが、集団の合意は成立しつつあった。
だが、そのとき一つの影が動いた。会館の入口から、ひとりの老人がゆっくりと歩み出てきた。彼は両手を胸に抱き、皺の深い顔で凪を見た。老人の目は鋭く、かつて凪が設計した経路に従って無数の家族が動いた跡を見つめているようだった。老人の口が開いた。
「君は人の選択を消した。俺の家族は、君の数式で──」声は震え、だが止まらなかった。「だから、同意なんて信用できない。君が勝手に、また──」
老人の言葉はそこで途切れた。外からの無線で統計院の隊長が短く指示を出すのが聞こえる。彼らは機械のように動き、避難路の観測装置を敷設し始めた。時間が減る。音が倍速で迫ってくるようだった。
凪は盾を胸に抱きしめた。使えば、全体が軌道に押し込まれる。使わなければ多くが死ぬかもしれない。もし使っても、それは統計院の手と同じことをするかもしれない。彼女の喉が締めつけられる。ここまで来て、彼女は自分がかつてやったことと同様の論理を手にしている。
誰も賛成しないなら、私は──と、昔の自分が囁いた。だがその囁きに続くのは、視界から色が抜けてゆく感覚だった。反動の匂い。凪は盾の縁にナイフで切ったような冷たさを感じ、手のひらに小さな電流が走る。使うなら今しかない。彼女は眼を閉じ、決断を下す。
「分かった……私がやる」