轟音杖の灯台守と記憶商会

轟音杖の灯台守と記憶商会 第9話「第8章」

夜風は海の匂いを運び、古いコンクリートの壁に当たって小さな砂を撒き散らした。拘置所の外灯は白く低く垂れ下がり、すべてを半透明の灰色に染める。蒼い月光が瓦屋根の縁をなぞり、波の遠い砕ける音が定規のように繰り返される。時計の針の代わりに聞こえるのは、警備員のラジオのごく低いハムと、拘置所の向こうで偶に上がる人の息遣いだけだった。

夜風は海の匂いを運び、古いコンクリートの壁に当たって小さな砂を撒き散らした。拘置所の外灯は白く低く垂れ下がり、すべてを半透明の灰色に染める。蒼い月光が瓦屋根の縁をなぞり、波の遠い砕ける音が定規のように繰り返される。時計の針の代わりに聞こえるのは、警備員のラジオのごく低いハムと、拘置所の向こうで偶に上がる人の息遣いだけだった。

「こっちだ、燈司」

ミナの手が袖を引き、不安定な影の中から顔を覗かせる。彼女の目は真剣で、唇の震えが見える。航(わたる)は壁に寄りかかり、ライトの光を背に肩を寄せていた。梓は空に向かって指をさしたまま、決断を待っているようだった。全員が燈司──轟音杖を握る少年の方を見ている。

燈司の掌は冷たい。杖は布と革に包まれているが、その芯から僅かな振動が指先に伝わってきた。過去の回、使ったときの痛みが脳裏をふっと横切る。耳鳴り。あの時は一瞬、色が消えたように見えた。感覚の何かが掠め取られるという感覚。代償はいつだって具体的で、簡単に忘れられない。

「ユウトは中にいる。登録を拒否してるって証言もある。だけど、選別の手続きが終わる前に連れ出さないと、もっと厄介なことになる」

航が低く言った。彼の指先には海水の匂いが残っている。梓は黙って唇を噛み、ミナは「分かってる」とだけ言った。合意は要る。轟音杖の力は合意された作戦を――仲間と心を合わせた一つの戦術を、現実に一度だけ具現化する。合意のない行為は、あの杖を禁忌に変える。燈司はそれを知っていた。

「ユウトに聞いたんだ、さっき。自分で立ち向かうって、言ってる」

梓の声が小さく震えた。夜の空気に言葉が吸い込まれる。燈司の胸がぎゅっと絞られた。ユウトの声は、壁の向こうから細く聞こえたことがある――意志を硬く砥いだ声だった。彼は拘束されるよりも、自分の意思で抵抗することを選んだらしい。それは尊い。だが、尊さはときに仲間を裂く。

「彼がそれを望むなら――」ミナが言いかけたとき、航が手を上げた。「でも、俺たちが彼を守る義務がある。彼の選択を尊重するのは、人として当然だ。けど、それは彼が生き残る保証にはならない。状況は刻一刻と悪くなるんだ」

壁の向こうで、鉄格子に何かが叩かれるような音がした。――ユウトだ。遠くで金属がぶつかる乾いた音。彼の意思は確かに固い。だが固い意志は、時に鎖の代わりになる。

燈司は杖をぎゅっと握った。皮の感触が指の腹に食い込み、僅かな振動が掌から上腕へ、胸へと広がる。使う条件はいつだって明確だ。皆の合意が揃った瞬間、杖は合図に答え、共有された「作戦」を実体化する。作戦の具体を言葉で交わしたわけではなく、心を合わせるだけでいい。だが、合意しなかった者がいると――その効果は向こう側にも回る。敵にも効くとは言うが、その「効く」は敵が同じ利得を得る、あるいは逆に利用することを意味していた。

梓が口を切った。「私、賛成できない。ユウトが『自分で抵抗する』って言ったんだ。俺たちの合意で彼の意志を無視することはできない。もし、彼が捕まることで誰かが救われるなら、それは別の問題だけど、目の前の選択は彼のものだ」

その言葉は静かに落ち、火花のように散った。ミナの目に光が差した。航の顎が強ばる。

「じゃあ、どうするんだ」と燈司は吐き捨てるように言った。声が小さく、夜に溶ける。

「分かれて行動するしかない」航が言った。「俺とミナは裏口を抑える。梓は――」

「梓はユウトと一緒に残る」梓が答えた。「彼の意思を尊重する。ここで勝手に決め木を振るうことはできない」

その決断は、燈司の中にある亀裂に塩を擦り込んだ。合意は崩れた。三人のうち二人は合意しているが、梓は反対だ。全員の心が一つにならない限り、本来の能力は完全な効果を発揮しない。燈司は選択を迫られた。待つことで事態が変わるかもしれない。だが、待てばユウトは更に深い手続きに巻き込まれる可能性がある。

「俺は――」燈司は言葉を詰まらせた。杖の微かな振動が、今は命令のように耳に届く。使えば、彼らの合意した小さな作戦が現実になる。それは一瞬のブリーチを作り、ユウトを引き出すための隙間を生むだろう。だが、梓の合意が無い以上、その『隙間』は同時に向こうにも見えてしまうかもしれない。敵がそれを利用すれば、拘置所の奥に罠が待つ。

燈司は目を閉じ、過去に失ったものの影を掴む。以前、単独で杖を振ったとき、彼は左耳の音を永遠に半分失った。鳥の鳴き声が遠くなり、人の囁きが厚紙越しのように聞こえた。代償は身体に刻まれ、記憶もまたその痛みを忘れさせなかった。彼はその代償を二度と払いたくはなかった。

だが今ここで待てば、ユウトは登録台に座らされる。彼の視界に光る識別チップの冷たい眼差し。記憶商会の代理人は笑顔で「選別」と言う。選別は事務的だ。だが事後に残るのは、選択できなくなった人々の沈黙だ。

「――やる」

燈司の声が小さく出ると、ミナが一瞬、目を見開いた。航は頷き、梓は顔を強ばらせたが身体はその場に残る。燈司は合意を確認する、と思った瞬間、梓が後ずさりした。

「待って」梓の声は、震えながらも明瞭だった。「意味がない。ユウトがそれでいいと言ってるんだ。彼の意志を踏みにじるのか?」

胸の中で何かが弾けた。燈司はその弾けた音を杖に押し付けた。合意は完全ではない――だが、彼には選べない理由があった。ユウトを失うことなど考えたくなかった。

燈司は深呼吸して、杖を地面に一瞬突き刺した。布がこすれる音が、夜に鮮烈に響く。彼は唇を噛み、独りで始める。心の中で、作戦の輪郭を描いた。裏口の入口に煙幕を送り、監視カメラの絞りを狂わせ、外灯のタイミングをずらして一瞬の闇を作る。その間に航とミナが一気に中庭を駆け、鉄柵をこじ開ける。ユウトを引きずり出す、それだけだ。

だがこれは「仲間の合意」を欠いた孤独な起動だ。杖は唸り、地面が微かに震えた。振動が胸を揺らし、耳の奥で低い轟音が鳴る。杖は約束を裏切る者にも容赦しない。孤独な使用は、感覚の何かを奪う。

同時に、想像していなかったことが起きた。効果は一方的に発動したのではなく、外側へ向かって波紋のように広がった。壁の向こう、白い監視塔の上にいた一人の影が、矢のように反応する。向こう側にも何かが――似た共鳴が届いたらしい。光が揺れ、監視パネルのインジケーターが瞬間的に赤く点滅する。銃を持った隊員たちが訓練された動きで配置を変え、拘置所の門に即座に人の山が集まった。

「罠だ!」ミナが叫ぶ。航が身を翻し、二人は同時に走り出した。しかし、燈司の世界は音が引き剥がれるように変わった。左耳から音が消え、風の音は紙に触れる程度になった。心臓の鼓動だけが白いスポットライトのように大きく響く。空気の冷たさが顔面を刺し、肌に小さな針で何かを刻むように感じられた。代償は容赦なく、確かな現実だった。

「やめろ、燈司!」

梓の叫びは遠く、耳ごしに濁った。だが、その言葉が間に合うには遅すぎた。向こう側の隊員たちは、燈司の作った隙間を逆手に取っていた。彼らはあらかじめ用意された手順を踏み、拘置所の内部から脱出を封じるように動いた。燈司の作戦は、同じ振動を受けた者にも「作戦の一部」