轟音杖の灯台守と記憶商会

轟音杖の灯台守と記憶商会 第4話「第3章」

雨はまだやまなかった。避難所の体育館の中は、床に敷かれたブルーシートと濡れた傘が混ざって、どこか海辺の待合室のような匂いを放っていた。ランタンの薄い光の下、灯織は轟音杖を膝の上に横たえ、冷えた木の柄を掌で確かめるように撫でていた。杖は、触れるたびに微かに唸る。灯台で聞いたことのある低い共鳴と似ている。身体の奥が反応する振動だ。

雨はまだやまなかった。避難所の体育館の中は、床に敷かれたブルーシートと濡れた傘が混ざって、どこか海辺の待合室のような匂いを放っていた。ランタンの薄い光の下、灯織は轟音杖を膝の上に横たえ、冷えた木の柄を掌で確かめるように撫でていた。杖は、触れるたびに微かに唸る。灯台で聞いたことのある低い共鳴と似ている。身体の奥が反応する振動だ。

「また来やがったか」ユウトが扉から波のように入ってきて、濡れたコートを床に叩きつける。瞳は血が滲むように赤く、拳は白く固まっていた。彼の向こう側で、案内人の名刺のような小さなカードを示したあの男が雨の合間から顔を覗かせている。黒い傘、濡れたスーツ。案内人は先頭のひとりだ。車列は遠くでエンジンの余韻を残している。

「今日は、もっと落ち着いた話を」と案内人が言った。声は滑らかで、どこか擦り減った流しのように聞こえる。「記憶商会は、皆様に安全を提供します。過去の痛み、忘れられない夜、夜ごと蘇る恐怖。小さな代償で、それらを軽くすることができます。まずは、無料の診断を——」

子どもの声が割り込んだ。体育館の隅で、薄い毛布にくるまった小さな男の子が、案内人のほうをじっと見ている。母親がそっとその手を握る。灯織はその視線を捉えた。男の子の瞳は濡れていて、小さな骨のように冷たかった。

ユウトの唇が割れた。彼はカードをふんだくるように奪いとった。「何が『軽くする』だ。人の記憶を金に替えるってのか。ここにいるのは、誰だって四の五の言えないんだ。食い物と寝床に困ってる。お前らはそれを利用するのか!」

案内人は苦笑した。「利用とは言いません。選択です。選ぶのはいつだって個人です、ユウトさん。」

だがユウトはそれを聞かず、案内人に一歩踏み込んだ。言葉は刃物のように鋭かった。「『個人の選択』だと? そう言うなら、俺が選ぶ。さっさと出てけ!」

そのとき、小さな騒ぎが起きた。母親の隙を突いて、別の案内人が子どものところへ近づき、柔らかくうなずきながらカードを差し出した。母親は疲れと恐怖の間で迷っている。灯織の心臓が跳ねる。目の前で、選択が売りに出されている。

「やめて!」灯織は立ち上がり、轟音杖に手をかけた。杖の重みが掌に伝わると、低いゴーンという音が胸の底で鳴った。灯織の前世の記憶の影が、短く光る。灯台の夜、嵐と死の匂い。あのときも、誰かを止めるために一人で動かなければならなかった。失ったものを思い出す。

「灯織、落ち着け」澪が後ろから声をかける。澪は応急手当の包帯を腕にまとい、無言の支えのようにそこにいた。だが母親の手は案内人のカードに触れている。母親の唇が動き、喉を鳴らしている。選ぶ時間は、確かにあるのかもしれない。だが灯織には、その時間が耐えられなかった。

「みんなの——」灯織は言いかけて、手を杖に強く押し込んだ。轟音杖はただの武器ではない。灯織はそれを知っている。共有された意思を媒介し、ひとつの作戦を一度だけ現実化する。だがその条件は厳しい。仲間の合意がなければ、作用は歪む。孤独に使えば代償が帰る。

合意を得る時間はなかった。ユウトは案内人に詰め寄り、澪は母親を説得しようとしているが、母親の目は遠く、既に決めかけているようにも見える。灯織は、ただ一つの直感で杖を振り上げた。

「みんな——!」叫びを上げる代わりに、灯織の世界が一瞬、轟音で満ちた。杖が鳴った。低く、深い、灯台の霧を割る音。響きは体育館の鉄骨を伝い、ランタンの明かりが震える。掌の震えが骨にまで届いて、まるで身体の内側の膜が裂けるような感覚が走った。

そして、同時に――

時間が繋がった。子どもの母親の手は瞬間的に決意を固め、カードを引き寄せた。案内人の笑みがゆがみ、ユウトの体は動きを封じられたかのように固まった。だが、その「同時」は、灯織が望んだものとは違った。体育館の中のすべての意志が、細い糸のように一本に整列する。しかし、灯織の意思だけではなかった。ユウトの怒り、案内人の商売根性、母親の疲労――それらすべてが同列に並び、いっぺんに作用した。

案内人はその瞬間、カードを母親の手に押し込むように見せかけたが、同時に素早く別の端末を母親の耳元に滑らせた。母親の瞳はもう一度細くなり、彼女は微笑んだ。灯織の判断は――歪められた共同作戦が、敵の策を同時に呼び込んだのだ。ユウトが歯を食いしばり、ようやく体を取り戻すと、案内人は冷たく礼をして車列の方へと消えた。母親と子どもは案内人の一台の車へと導かれていく。誰もが、同時にその流れに乗った。

灯織の耳が、刃を当てられたように鳴り始めた。最初は鈍い轟音、次第にそれは耳鳴りの鋭い輪になって、彼女の世界を包む。言葉は空気を撫でるが、受け取るための穴が空いていない。澪の声が遠くに溶けて、形だけがそこにある。灯織は膝をつき、杖を前に突き出した。掌に焼けるような痛みが走る。血の味が口の端に広がる。代償が自分の体に跳ね返ってきたのだ。

「なんでだ、なんでこんな――」ユウトが叫び、誰かに飛びかかろうとして床に倒れ込んだ。悔しさが怒りに変わって、彼の体を震わせる。母親の背中は車のドアに消え、子どもの小さな手だけが一瞬灯織の方を振り向いた。その目には何の理解もない。灯織の胸は、そこに手を突っ込まれたように痛んだ。

澪が灯織の肩に手を置いた。ぬくもりはあるが、言葉が届かない。「私たち、共有してなかった。……共有してなかったから、あれは――あの連中の行動も、同じ場に取り込まれたのよ」

灯織は耳鳴りの中で、曇った視界に手をやって杖の柄を握り直した。思考は霧の中に沈み、記憶はじんわりと消えていく。灯織は、かすかに胸の奥で前世の灯台の声を聞いた。あのときの代償も、こういう形だったのかもしれない。だが違う。今回は「一人でやった」ことが、仲間の意志を飛び越え、敵の動きを呼び込んだ。使い方の条件を無視した結果が、目の前の損失と、自分の感覚の一部を奪っていく。

「灯織!」ユウトが杖に手を伸ばす。怒りだけではない、恐怖が混じってその手は震えていた。「お前、何考えてんだ。あの子が――!」

灯織はユウトの手を遮って杖を抱きしめた。杖の表面には、雨がうっすらと玉になっている。冷たさが彼女を現実に戻す。耳鳴りは消えないが、心はもう一度決まった。代償は支払った。だが失ったものを取り戻すために、今度は違うやり方でなければならない。

澪が息を吐くように言った。「今、分かったことがある。あの杖は、仲間と『共有された』作戦だけを現実化する。逆に、共有がないと、そこにいるすべての意思をまとめてしまう。私たちの孤独は、敵の手にまで作用する。つまり、使うなら全員の同意が必要ってことよ」

「でも、俺たちが今同意しても、あの──」ユウトの声が震える。「あの子はもう……」

灯織は自分の胸に手を当てた。耳鳴りの向こう、心臓の鼓動だけが確かなリズムを刻む。腕に残った痺れと、口の端を湿らす血の味。代償は一部の感覚の喪失だ。今はまだ、全てを聴けない。だが明確なのは、次に杖を振るためには、仲間の「意思」を揃えなければならないということだった。

「選択させたのは記憶商会だけじゃない」と灯織はかすれた声で言った。「私たちも