轟音杖の灯台守と記憶商会

轟音杖の灯台守と記憶商会 第26話「第24章」

瓦礫の匂いが混ざった冷たい風が、崩れかけた倉庫の梁の間をすり抜けた。灯崎渉は肩越しに振り向き、震える手で轟音杖を確かめる。杖はいつもより重く、内部で何かが低く唸っているような振動が掌に伝わった。銀色の金属部が微かに青白く光り、乾いた音が空気を裂く。

瓦礫の匂いが混ざった冷たい風が、崩れかけた倉庫の梁の間をすり抜けた。灯崎渉は肩越しに振り向き、震える手で轟音杖を確かめる。杖はいつもより重く、内部で何かが低く唸っているような振動が掌に伝わった。銀色の金属部が微かに青白く光り、乾いた音が空気を裂く。

「渉、あの通路しかないんだ!」三好美香が指差す先、崩落で折れたスチール製のゲートが半ば埋まっている。その隙間を縫って避難民を通し、向こうの停泊場まで移動させれば船が待っている。だが記憶商会の収集班が中間地点を封鎖していた。黒いコートに機械的な眼鏡をつけた男たちが、スクリーン端末を手にしてじりじり前へ詰めている。

「時間がない。合意確認の端末を使われたら、彼らの選択が奪われる。強制移送の手続きを通される前に出すしかない」樫村海斗が息を切らしながら言った。彼は荷車に積み上げられた段ボールの間から、簡易バリケードをえいっと蹴り倒す。

避難民の列の先頭にいた老女が、震える指で腕を掴んだ。「あの人たちが来ると、私の……忘れてしまうのよ。娘の顔も、猫の名前も、本当に覚えていたはずのことごと……」声は砂利のようにかすれている。目の奥にはどうしようもない恐怖が宿っていた。

渉はその顔を見て、杖の冷たさが胸に触れるのを感じる。轟音杖は約束通りに働く。だが、その働きは完璧ではない。合意を共有した計画だけを一度だけ、現実に鋭く重ねる。使い手が単独で作動させれば、反動は必ず何かを奪う。仲間の同意を得ずに動かせば、効果は敵にも波及する──それがこれまでの経験で渉が身体で覚えた掟だ。

「渉、どうする?」美香の声には怒りと不安が混じっていた。来栖千夏は顔をしかめ、避難民の列を睥睨する。「彼らにとっては、本人の合意が一番大事よ。それを無視して押し通すなら、私たちと同じになってしまう。」

「でも──」樫村が割り込む。「端末に触れられる前にここを抜けないと、全員が操作される。合意なんてとれない。使ってしまえば一瞬で道ができる。渉、頼む!」

渉の掌は杖の柄に汗で滑る。左耳の奥で細い針のような痛みが走る。以前、単独で杖を起動したときに右耳を失った。あの時の静寂が、未だに渉の世界の端を削っている。音が欠けていることで世界の輪郭が一部薄れ、匂いと色だけが残ったように感じる。あの代償を二度と味わいたくない──しかし目の前の老女が束のように小さく震えている。

「合意を取る方法はある」来栖が低く言った。彼女はかつて記憶商会の内部にいた。情報の薄い目をぎらつかせて、避難民の群れの中を素早く走り回る。「声を寄せて、短い選択肢を示す。『今すぐここを出る』『ここに残る』。強制の端末に触れられる前に、本人たちに選ばせる。時間はほんの数十秒しかないけれど……」

「それで合意がとれれば杖は使える?」美香が尋ねる。

来栖は頷いた。「ユーザーの意思が重なる。渉、あなたは発動の触媒になるだけ。だが、全員が『今すぐ出る』を同意しないと、杖は合意を拾わない。そこが問題。」

渉は周囲を見渡した。ほとんどの顔が恐怖に凝り固まっている。若い母親は泣き疲れて頬を伝う塩の味を忘れているようだった。子供は親のシャツの裾を掴んだまま怯えている。合意を求める時間は、確かに限られている。

「やるなら早い方がいい」樫村の声は命令口調だが、その瞳には諦めの色もあった。「端末が起動したら、それだけは止められない。判断を奪われる前に、行動で選択肢を作ってやれ。」

渉は杖を胸に引き寄せ、深く息を吸った。金属の冷たさが肺の奥まで響く。彼の意識は同時に数人の顔をたぐり寄せて、短い言葉を並べていった。来栖と美香が声を合わせ、簡潔な選択肢を朗読する。樫村と数人の青年が声を張り上げ、避難民を促す。渉は言葉を飲み込み、そのリズムに合わせるように杖を中心に手を振る。

「今すぐ出る! 今すぐ出る! はいかいいえ、はいかいいえ!」

声が揃った瞬間、杖の内部で轟音が蘇る。空気が振動し、粉塵が舞い上がる。合意の波が、揺らぐ現実の薄膜に触れる。周囲の人々の動きが、まるで磁場に引かれるように同期していった。数十人の足取りが一致し、肩を並べ、視線が一方向に向く。倉庫の梁の影がいくぶんかたちを変え、崩れかけたゲートの端が短く、押し開かれた。道が一瞬だけ、可能性として結晶化した。

だが、同時に渉の内側で何かが裂けた。左耳の奥が瞬間的に真っ白なゴムで塞がれるような感覚。世界の音が引きちぎられる。近くで美香が叫ぶ声は唇の動きだけが見え、彼の心臓の鼓動だけがやたらと遠く聞こえた。杖を握る手首に鋭い痺れが走り、指先の感覚が薄れていく。

「渉ッ!」来栖の顔が近づいてくる。だが言葉は渉に届かない。渉は必死に吐き出すように頷き、膝を折って杖を地面につけた。杖の震えが消えると同時に、組み上がった合意は現実の道を完全には崩さなかった。避難民は揃ってその瞬間を信じ、小さな列を作って崩れたゲートへと歩き出す。杖の作用は一度きり、短時間の奇跡だ。

だが奇跡は全面的ではなかった。倉庫の側面から突っ込んできた黒い制服の一団――記憶商会の収集班の一隊が、杖の作動した瞬間に同調したように足並みを合わせ、対抗の列を作った。渉が合意を取ったのは味方の間だけではなかったのだ。仲間の同意を完全に得られないまま、渉が触媒となったため、効果は敵側にも及び、彼らもまた一つの「計画」を世界に落とし込んだ。

「やられた!」樫村が叫び、避難民の列が一瞬で分断された。収集班は端末を差し出しつつ、冷ややかな声で説得を始める。「ここにサインすれば保護を受けられる。君たちは解放される。しかし記録が必要だ。思い出すことはありませんよ、痛みも恐怖も消える。」

渉の視界は歪み、世界の輪郭が徐々にモザイクになっていく。音の欠片だけが残り、身体が何か重要な機能を失いつつあることを告げていた。左耳だけではなく、嗅覚に金属の膜が張ったように匂いが薄くなり、触覚も遠のく。渉は杖を放り出し、片手で老女の腕をつかんだ。

「行くんだ! 今だ!」美香が大声を出す。彼女は自ら列の先頭に立ち、来栖と樫村がその後に続いた。渉はぼんやりと自分の手が老女の手を引き、ほかの人々を押し出すのを感じる。逃げることはできたが、分断された列からは数人が端末の照準に吸い寄せられるようにして残された。

踏み出すと、古い木の板が軋む音がかすかに鳴った。渉はその音を「聞く」ことができない。ただ、足元の振動が足裏に伝わり、仲間の息づかいだけが体内で震える。外へ出ると、冷たい海風が顔を撫でた。風の匂いも、いつものような鮮烈さは持っていない。

安全圏に到着してから、渉は体を沈め、膝にうずくまった。右手にあった杖の先端が地面に突き刺さり、小さな金属音が鳴った。それでも、彼の世界は静寂に包まれていた。美香が彼の肩に手を置いて言葉を探す。来栖は素早く周囲を見回し、残されたカバンを回収する。

「渉、耳は?」樫村が訊く。声が遠い彼には、問いかけの輪郭が見えるだけだ。渉は首を振る。震えた指で耳を押さえると、そこには確かに空洞があった。以前の右耳の時と同じ、戻らない感触。二度目の代償が、彼から音を奪っていった。

「無駄ではなかった。助かった人がいる」来栖