水星剣の通訳と北壁連隊 第6話「第5章」
暗闇が音を連れて戻ってきた。遥音(はるね)の世界は、白と黒が引き裂かれた窓のように見えた。輪郭だけが残された色片が、視界の端々でちらつく。風が通り過ぎると、皮膚の裏側に冷たい紙の感触が波紋のように広がる。息を吸うと、金属の後味が舌の先にへばりついた。
暗闇が音を連れて戻ってきた。遥音(はるね)の世界は、白と黒が引き裂かれた窓のように見えた。輪郭だけが残された色片が、視界の端々でちらつく。風が通り過ぎると、皮膚の裏側に冷たい紙の感触が波紋のように広がる。息を吸うと、金属の後味が舌の先にへばりついた。
「痛いのか?」
恵(けい)の声が近い。彼女はハンカチで遥音のこめかみを押さえ、手のひらを震わせながら言葉を繋いだ。周囲には焚き火の匂い、軋む車輪の音、避難民の低い囁き──避難路の仮設通路から漏れてくる生活のざわめきがあった。遥音は声に合わせて唇を動かすが、視界がずれているために自分の動きが遅れて見えた。
「立てるか?」
「立てる……多分」
足先で冷たい土を確かめる。右手の掌に、まだ熱を帯びた鋼の痕が残っている。水星剣──剣身とは言い難い、薄く光る液状の刃の記憶が、掌に焼きついている。剣に触れたとき、世界は一瞬で予定を実現するための歯車に巻き込まれた。だがそれは彼女が想像していた"力"とは違った。代償は視界の一部。体の一部が白黒に裂かれた。
「作戦は半分は成功した。抜け道の囮がうまくいった。物資と子供たち、三十人くらいは通せた」
ミキの声は短く、確信を含んでいた。彼女は遥音の左腕を支え、背後のテントから小さな包みを取り出した。包みからは子どもの風邪薬の匂いと、焦げたパンの香りが混ざった匂いがした。救えた人たちの笑い声が、薄い壁の向こうからふっと漏れる。それが今の何よりの救いだった。
「だが北壁連隊はすぐに動くだろう。奴らは封鎖を解除するつもりはない」
恵が背後の方角を指差す。黒滝(くろたき)中尉が率いる小隊の足音が遠くから寄せてくる。重いブーツのリズムは規則正しく、命令と同じ速さだった。
「なぜ俺たちがここまで……」
遥音の言葉は消え入る。剣のことを説明しようとすると、耳の奥で金属音が鳴った。音は言葉を撫で、意味を剥ぎ取っていく。翻訳という仕事は、彼女にとって生きるための器具だった。だが今はその器具が裏返り、自分の感覚を翻訳してしまう。何かが彼女の"受け手"を盗んでいるような感覚だ。
「お前、一度勝手に触っただろ。そんなこと、もうやるなって言ったはずだ」
ミキの声に、怒りの辺りが震えた。彼女は遥音の顔をまじまじと見つめる。白と黒、色片──瞳の奥で何かが揺れているのが見える。ミキはその揺れに怯えているのだと、遥音はわかった。
「ごめん。時間がなかったんだ。子どもたちを——」
「時間を作るのは私たちの仕事。お前一人で決めるな」
恵は静かに言った。言葉に怒りはない。だがその静けさが一番厳しく、遥音の胸に針を刺す。仲間の合意を無視したこと。仲間を巻き込まずに剣を使ったこと。能力の代償は視覚だけではない。信頼も、歯車の一つとして摩耗していく。
車輪の軋みが近づく。だが同時に、遠くの丘のくぼみから低い声がした。
「止めろ! 一般人を巻き込むな!」
声の主は黒滝中尉だった。彼は焚き火の灯りに照らされて、煙草の煙を吐きながらこちらに向かってくる。眉間に皺を寄せた小柄な男だ。彼の側には、規律正しい兵士たち。だがその眼は、ただの命令機械のそれではなかった。どこか、痛みを抱えた眼だ。
「俺たちは命令に従っているだけだ。補給線を守る、それが連隊の役割だ」
黒滝は、ひどく疲れた声で言った。言葉の選び方が慎重で、説得を求めている。遥音はその口元に刻まれた小さな痣を見つけ、瞬間的に彼の背後にある事情を感じ取った。彼もまた、誰かを守るために縛られている。制度というものは、個々人の手を縛る縄でしかない。遥音はその縄の存在を知っているからこそ、怒りが複雑に絡み合った。
「物資は配分されている。命がけで割り当てられたんだ。突然、配分を変更するわけには──」
「それがどうして一般市民を見捨てる理由になるんだ!」
ミキが叫ぶ。彼女の声に、周囲が一瞬静まる。黒滝は目を細め、ポケットから何かを取り出した。木製の小さな札。金属製のタグのようなものだ。それを遥音たちに見せる。
「これは、"証"だ。ある領域の物資が誰のために振り分けられるかを示す。連隊だけでなく、上層の管理官が決めている。俺たちはそれを執行しているに過ぎない」
札には小さな刻印があり、そこに水星を模した記号が彫られていた。遥音の血が凍るような感覚が走る。剣と同じ文様──水星の紋。彼女が触れた剣と、連隊が携える管理札。結びつきが視界の断片を飛び越えて、冷たい論理を形作る。
「その刻印がある物資は、優先順位がついている。連隊にとって必要なものだ。俺もそれは間違っていると思う。だが命令は命令だ」
黒滝は俯いた。遠目に見ると、男の唇が震えているのがわかった。彼は自分の意思で物を選べるわけではない。制度が選んでいる。ここで犠牲になるのは、いつも選べない人々だ。
「分かってる。だけど我々は逃げる人間を守る。お前がそうしたいなら、俺たちと話し合う道はあるはずだ」
恵はそれを提案する。言葉は穏やかだが、背後に戦術的判断がある。直接の衝突が避けられるなら、剣を振るう必要はない。だが黒滝は首を振った。
「ここで話し合いで覆せるほど、事態は甘くない。上層は厳しい。外部からの介入、武力行使はすぐに拡大してしまう」
彼の言葉を遮って、遥音の耳にまた金属音が入った。耳鳴りのような微細な振動が、言葉の輪郭を変える。それと同時に、遥音は自分の手の中の違和感に気づいた。剣を触った痕の冷たさが、微かに脈動している。まるで剣がまだ遠くで鼓動しているようだ。
「もう一度、あの剣に触れるつもりなのか?」
黒滝の視線が鋭くなる。彼は剣のことを知っている。知られたくない秘密を知ってしまったような居心地の悪さが、遥音を襲う。
「知ってるのか?」
「連隊は異物を検知する塔を高台に設置している。水星の紋を放つ機器は、それで反応する。探知されたら、増援がすぐ来る。お前らのやり方は一時的な成功を得るかもしれないが、それは連隊の全面介入を招く」
黒滝の告白は、風のように冷たかった。増援。塔。検知。言葉の一つ一つが、仲間の未来を狭める。遥音は手の感覚を確かめる。再び剣に触れたら、視界を失うだけでは済まない。増援が来れば、もっと多くの選択が奪われるだろう。
「……分かった。だが、私たちは何もしないわけにはいかない」
ミキが言った。彼女は立ち上がり、短く歯を鳴らす。左の肩口に掛けられた小さな袋を手に取ると、それを黒滝に差し出した。
「俺たちは物資を必要としている人を選ぶ手伝いをする。だが暴力は避ける。救援の流れを乱さない範囲で、できる限りのことをしたい」
黒滝はその差し出された手をしばらく見つめ、やがて弱々しく笑った。「それなら──」彼の目に、一瞬だけ希望が灯る。
遠くで、子どもが笑う声がした。火の灯りが揺れて、色片の一つが遥音の視界に震えた。小さな勝利。だがそれは針の上に乗ったバランスのように脆く揺れる。
「だが確認しておけ。連隊の塔は水星紋を検出すると、周囲の通信網を封鎖した上で応援を呼ぶ。剣を使うなら、まず塔の視界を潰すべきだ。それができれば、あの剣を安全に使えるかもしれない」
黒滝の言葉はひとつ