裂空旗の回収屋と無音伯 第9話「第8章」
裂けた旗が風に拍子を刻む。夜の光は薄く、古いビニール片のように白く透けた布地が、鋭い音もなく視界を切り裂いていた。リオは指先でその縫い目をなぞる。裂空旗――彼女が何度も手にした道具であり、何度も裏切られた記憶の布片だ。触れると、縫い目の鋭さが掌に冷たく刺さるように感じられる。風は塩の匂いを含んでいた。避難所の向こう、瓦礫の向こう、街灯に浮かぶ影たちの呼吸が見えるように夜に溶けている。
裂けた旗が風に拍子を刻む。夜の光は薄く、古いビニール片のように白く透けた布地が、鋭い音もなく視界を切り裂いていた。リオは指先でその縫い目をなぞる。裂空旗――彼女が何度も手にした道具であり、何度も裏切られた記憶の布片だ。触れると、縫い目の鋭さが掌に冷たく刺さるように感じられる。風は塩の匂いを含んでいた。避難所の向こう、瓦礫の向こう、街灯に浮かぶ影たちの呼吸が見えるように夜に溶けている。
「時間がないわ、リオ」
イズミの声が近づく。彼女は夜用のブーツの泥を払うように立ち止まり、リオの横に来て旗を見下ろした。セラは入口のバリケードに押し当てた木箱を蹴り、ハルは遠くで地図をめくっている。避難民たちは毛布にくるまり、小さな身体を震わせていた。無音伯の支配下では、音は政治だ。声を立てることが、選択をすることが、危険だった。
「明日の移送。静管の隊が一時的に迂回するルートを取るって情報が入った。正面突破は無理。裂空旗を使って、移送の予定を――」「一度だけの作戦だ」とハルが続ける。言葉の最後で、彼はちらりとリオを見た。そこに、いつもある問いが宿っている。
リオは指を旗の繊維に食い込ませた。縫い目は冷たく、繊維の密度が不自然に高い。裂空旗はただの布ではない。彼女の能力はこの旗を媒介にして、「共有された作戦」を一度だけ現実化する。だが条件がある。味方と本気で共有した計画でなければならない。単独で使えば反動で感覚の一部を奪われる。仲間の合意を無視すれば、能力は敵にも作用する。誰もが口に出さなかったその最後の一節を、彼女はよく知っている。
白黒の記憶が、肺の奥から浮き上がる。前世の現場。瓦礫に積もる粉、吊るされた旗の影。彼女は一人で旗を掲げ、作戦を差しのべた。計画は簡単だった。だが、共有はされなかった。リオは作戦を実行し、瞬間的に世界が固まった。人々は計画に従った。だが誰もが望んだわけではない。子どもの叫びがどこか遠くで歪み、白黒の光景の中で一つの小さな体が止まった。次に来たのは静寂だった。目の前の街の音が押し潰され、リオの右耳が途端に遠くなった。帰還したとき、世界は薄い膜を隔てたようだった。人の声は箱の中で鳴るように遠く、微かな高音が消えていた。代償は、感覚の一部だった。
「また同じことをするつもりなのか」イズミが低く言う。言葉には怒りと恐れが混じっている。仲間の眼差しが交差する。セラはテーブルに手をつき、爪の跡をつけた。「あの時の——」
言葉は弾けて消えた。代わりに、遠くで金属が擦れる音。静管のパトロールが予定より早くきている。影が街角に浮かんだ。灯りが移民の列を切り裂く。リオの胸が冷たく締め付けられた。計画を決める時間が迫る。
「私たちは、彼らの選択を奪うわけにはいかない」セラが言う。「ただ守るだけならいい。だけど旗で『強制』するのは違う。無音伯と同じだ」
「でもそのまま迂回を許せば、無音伯の手に渡る人がいる」ハルは顔を赤らめ、地図を握る手に力が入る。「裂空旗で一回、移送情報を差し替えられれば、彼らは安全な村へ行ける。これが最後の一回だ、リオ」
リオは旗を握ったまま、ゆっくりと息を吐いた。風が裂空旗を揺らし、縫い目が掌に食い込む。痛みは生々しく、過去の感覚が彼女の肌を引っ掻く。単独で使えば、また何かを失う。だが、誰かを助けられる可能性がある。代償は、いつだって計り知れない。だが今夜は、選択を先延ばしにする余裕がない。
「僕は自分で選ぶ」と年老いたトミが立ち上がった。避難民の一人だ。手は震え、背中には古い火傷の痕がある。彼はリオの方をまっすぐに見て、小さく笑った。「若い子を預けられない。僕は賛成する」
その声を合図に、周囲の人々がぽつりぽつりと頷いた。誰かが泣きながら「賛成」と言い、他の誰かが「でも……」と続ける。合意の輪が広がる。だがセラの表情は固い。彼女はまだ、旗で運命を差し替えることに反対している。仲間の合意の欠けられが、計画の「共有」を曖昧にする。
「皆の同意が必要だ。僕たちだけの決定じゃない」セラの声は静かだが揺るがない。「彼ら自身の賛同がなければ、僕は手を貸せない」
時間が残り少ない。静管の影はもうすぐここにやって来る。ハルは地図を畳み、歯を食いしばる。「やるなら今だ。リオ、君だけに頼るわけじゃない。君が本気なら、皆で支える。でも——」彼は言葉を切った。目が必死だ。
リオは旗を胸に押し当てる。決断の匂いが口の中に広がるようだった。過去のざらついた音が、耳の中でさざめく。もし彼女が単独で使えば、また聞こえない何かが増えるだろう。だがその代わりに今、誰かが生き延びる。誰かの顔が浮かんだ。トミの孫の寝顔。毛布に包まれた幼い手。選べるのは誰だ? 彼女自身か、それとも他の人々か。
「試すな」イズミが低く囁く。正面の街灯が瞬いた。パトロールの足音が近づいた。影が黒い輪郭となって、バリケードの角を曲がる。目の前の一つひとつの息遣いが、はっきりと聞こえる。だがそれは本当に彼女が聞いているのか、それとも慣れた偽りの感覚か。リオは自分の右耳を確かめるように指を当てる。そこにあるのは、いつもの小さな虚無。
「私が一人で使う」言葉が自然に出た。胸の奥が冷たく硬くなる。彼女は旗を振り上げる準備をしながら、仲間の顔を見た。セラは固まった。ハルの目が光る。「ダメだ。今はそんな——」
しかし時間は味方してくれない。パトロールの影が二列になって通行路を塞ごうとしている。足を止めれば、人々は見つかる。リオは瞬間、体が凍りつくのを感じた。彼女は深呼吸し、旗をぐっと掴んで振り上げた。音は出ない。彼女の意志が裂空旗に注がれる。
白い光が走るような感覚――鋭い引き、世界が一瞬引き延ばされる。だがリオはすぐに、いつもの反応とは違う影を見た。旗が現実を撫でると同時に、背後の一人のパトロールが手を押さえて膝をついた。彼の頭はぐらりと傾き、口から微かな声が漏れた。その瞬間、近くの子供がむせ始めた。リオの視界が走馬灯のように白黒へ変わる。過去の映像と今が重なる。
「どうして……」イズミが叫ぶ。リオは目の前の景色が急に遠くなるのを感じた。右耳の中にまた大きな空洞ができる。闇がそこから広がる。音は濁り、輪郭がぼやけていった。ハルの叫び、セラの咳、子供のむせ返る声。すべてがふわりと溶けて、残るのは重い振動だけだった。
効果は起動した。移送の予定は局所的にねじれ、パトロールの動きは乱れた。しかし、それは「共有された作戦」ではなかった。セラの眉間に深い線が刻まれ、彼女はリオを睨む。敵も味方も、計画に組み込まれていない「意思」が介在したことで、作用は無差別に拡がった。パトロールの一人は気絶し、別の一人は方向感覚を失って壁にぶつかり、トミの孫がむせた。彼女の内臓がぎゅっと締め付けられるようだった。
リオは膝をつき、空気を吸い込む。空気は味がなく、右側の音は遠い。痛みが耳から全身に波及した。誰かが彼女の肩を掴んだ。イズミだ。顔のすぐそばで「動くな」と囁かれた。彼女の体温が伝わってくる。支えられているはずなのに、孤独が身に染みる。
「リオ!」ハルの声。だがその声も、壁の向こうの鼓動のように頼りない。セラは赤い目をしてリオ