裂空旗の回収屋と無音伯

裂空旗の回収屋と無音伯 第19話「第17章」

雨が薄くやみ、泥の匂いだけが残った広場に、裂空旗の端が濡れて重く垂れていた。旗の裂け目は、まるで空気を切り裂いた傷口のように歪み、そこから冷たい粒子がほんの少し、しかしたしかに漏れ出している。リオは旗を抱きしめるようにして立っていた。布の繊維が指先にざらつき、波打つ縫い目の冷たさが掌に伝わる。周囲には避難民の息遣いと、折れた屋根板がぶつかる音──だが、音は景色の割には薄かった。無音伯の影響域が広がっている。

雨が薄くやみ、泥の匂いだけが残った広場に、裂空旗の端が濡れて重く垂れていた。旗の裂け目は、まるで空気を切り裂いた傷口のように歪み、そこから冷たい粒子がほんの少し、しかしたしかに漏れ出している。リオは旗を抱きしめるようにして立っていた。布の繊維が指先にざらつき、波打つ縫い目の冷たさが掌に伝わる。周囲には避難民の息遣いと、折れた屋根板がぶつかる音──だが、音は景色の割には薄かった。無音伯の影響域が広がっている。

「ここから先は、無音区域だ。声を出せば……」イネスが低く言いかけて、言葉を切った。彼女の喉はいつもより緊張で固い。黒いコートを膝まで濡らし、両手は震えている。イネスの目は屈折した街灯の光を追っていた。彼女はリオの隣で、裂空旗を片手で支えていたが、合図のためにその手を振ることはしない。合意の形をとるように、と二人は約束していたからだ。

「全員、触れて。説明は短くする」ハヤトが息を切らしながら走り込んできた。腕には担架代わりの合板を抱え、裏返った顔には泥と血。彼は生真面目な凧の糸のように眉を寄せ、仲間を睨むと同時に避難民たちへ視線を投げた。「説明が必要だ、同意が必要だ。リオ、勝手にやるな」

だがその声も、無音の淵でたちまち吸われる。広場の端、瓦礫の向こうで金属音が一瞬増幅してから消えた。無音伯の徴兵隊──静装隊が、列をなしながら近づいてくるのが見えた。彼らは黒いフードを深く被り、動きはぎこちない。動くたびに周囲の空気が搔き消され、足元の小石のささやきすら、遠い夢のように聞こえなくなる。

「時間がない」マユがかすれた声で言った。彼女は腕に包帯を巻くのを止めて、膝をつき、瓦礫の下に埋もれている子供を指差した。小さな顔は土で汚れ、目は半ば閉じている。息はある。だが救出には時間が必要だ。救出の手順は決めてある。裂空旗を媒介に共有された作戦を一度だけ、瞬時に成就する——その代償をリオたちは知っていた。だが「共有された作戦」でなければ成らない。全員の合意が必要だ。

そして、もしリオが一人で走れば、反動が彼女を襲う。前に体験したものが、彼女の胸を重くする。片側の聴覚を失う。もしくはもっと酷いことに、仲間の合意を無視して走れば、生まれた効果は味方だけでなく敵にも伸びる。敵の兵士が、偶然にもその効果の網にかかり、事態を悪化させることがある。リオはそれを忘れていなかった。忘れられるものではない。

「全員に合図を出す」イネスが小さく言った。彼女は裂空旗の縁に触れる手を、避難民たちへ向けた。順番に手を伸ばし、旗に触れることを求める。それが身体的な同意の象徴だ。だが避難民の混乱は深く、恐怖が手を止めさせる。ある老女は指を引っ込め、子供を抱きしめる。ある若者は静装隊を見て、足がすくんだ。

「やらないと、ここでみんな死ぬかもしれない」誰かが囁いた。囁きは無音に呑まれて、彼の唇の震えだけが視界に残る。リオは旗を抱えなおし、思考が切り裂かれるように速くなる。時間は、無情に、雨粒が地面に跳ねる速度で溶けていった。

瓦礫の向こう、静装隊の先頭が立ち止まり、鋭い手を掲げる。彼らのシグナルは、区域の中心で一瞬、空気の位相を歪めた。無音瓶──この街を密封する器具がまた作動しかけている。もしそれが完成すれば、広場は完全に無音に覆われ、救出の声は届かない。救命が遅れる。

「リオ、やめて」マユが叫んだ。彼女は子供の顔に自分の袖を押し当てる。だがその声も、リオの耳には届かないかもしれない。彼女は自分の手を見下ろした。掌のひらに、裂空旗の濡れた縁がぴたりとくっついている。旗は重い。冷たい。小刻みに脈打つような感触が、指先から肘へと波及する。

選択は、瞬時に齎された。

リオは目を閉じて、かつての記憶の断片を引きずり出した。回収屋として、彼女は何度も危険を計算して人を救ってきた。全員の合意を待つべきだ──だが、待てば誰かが死ぬ。イネスの眼差しが、ハヤトの唇が、マユの指先が、それぞれ全く別の言葉を投げてくる。リオの胸の中で言葉は衝突し、最後にある一つの声だけが勝った。

「ごめん」

彼女は旗の裂け目に両手を突っ込み、その生地を胸から突き離した。濡れた布が空気を裂き、広場の空がその裂け目に吸い寄せられるように歪んだ。刃が通るような鋭い高音が一瞬、世界を貫いた。次の瞬間、音は消え、代わりに広場の半分が蒼い光の筒の中に収まったように見えた。空中に道ができた。瓦礫と雨と静装隊が、まるで二つの世界を分ける扉によって切り離された。

人々はその道を見て、動く。マユが子供を抱えて転がり出し、他の避難民も順番に走り込む。リオは安堵の色を一瞬だけ胸に宿した。計画は、形になったのだ。約束のように、共に想定した作戦がそこに実在した。だが全員の合意は得られていない。彼女はそれを承知で、旗を放った。

反動は、すぐに襲った。リオの右耳が粉々に砕けるように消えた。別世界の水に浸かったように、音が吸われていく。ハヤトの叫びは震える唇だけが見える。雨が地面に落ちる視覚だけが残り、彼女の内側に深い虚無が広がる。色の輪郭は変わらないが、世界は薄い幕を一枚剥がされたように無機的な静けさに包まれた。

そして最悪のことに、リオが望んだ救いは味方だけではなかった。裂け目の先──無音側の世界にいた静装隊の数名が、その道に滑り込んできた。彼らは扉が生まれた瞬間を利用して、避難民の裏側へ回り込み、待ち伏せの位置を取った。想定外の影が、一つまた一つと動き出す。旗が作った理路は、意図せず敵へも通じてしまったのだ。

「囮だ!」ハヤトが叫んで、視界の一部が増えたかのように動いた。彼は跪いたリオの前に飛び出し、鋭い音のない叫びで何かを指差す。言葉は聞こえないが、彼の目の険しさは鋭かった。静装隊の一人が子供を狙って突進した。マユがそれを見つけ、子供を抱えたまま踵を返す。手が触れ合った。触覚だけは、残っている。そこに、仲間の意思があった。

広場の空気は、再び緊迫していた。リオは右耳のない世界で、声を聞く代わりに振動を感じ取る訓練をしなければならなかった。仲間の呼吸、足裏の衝撃、裂空旗の布が震える低周波。視界は鋭いが、情報は欠けている。ハヤトは後ろを振り返り、急速に判断を下した。彼は旗の下を走る避難路に飛び込み、二人の避難民の前に立ちはだかった。その動きは即断で、自律的だった。

「リオ、ここは任せろ。行け、他を誘導して」ハヤトは顔を上げ、真っ直ぐに彼女を見た。彼の声は半ば届かないが、目の光が確かな約束になった。彼は自分の身体を盾にし、静装隊を引きつける意志を示している。イネスは即座に掌を打ち合わせ、避難民の列を整え始めた。彼女の動作は短い合図となり、口が動かない代わりに唇で指示を送る。それはいつものやり取りとは違うが、通じる。

だが被った被害は、それだけに収まらない。裂空旗の縫合点に残された蒼い光の指紋が、静装隊の装甲に淡く付き、すぐに薄い模様を描いた。イネスがその模様を覗き込み、顔色を変えた。「これ……無音伯の痕跡だ」彼女の指先が模様を辿る。模様は単なる痕跡ではなく、指紋のように機械的なコードを残している。誰かがそれを見て、記録を取れば追跡が可能になる——リオの行動は、敵の目