裂空旗の回収屋と無音伯

裂空旗の回収屋と無音伯 第1話「序章」

廃墟の風は、鉄と塵の匂いを引きずっていた。空は鉛色、崩れかけた家屋の間を風が吹き抜けるたび、古い布が擦れるような音が立つ。その向こうで、裂けた旗がひらめいていた──裂空旗。縦に引き裂かれた裂け目から、白い光が薄く漏れている。光は揺れて、見るものの輪郭を微かに歪ませた。

廃墟の風は、鉄と塵の匂いを引きずっていた。空は鉛色、崩れかけた家屋の間を風が吹き抜けるたび、古い布が擦れるような音が立つ。その向こうで、裂けた旗がひらめいていた──裂空旗。縦に引き裂かれた裂け目から、白い光が薄く漏れている。光は揺れて、見るものの輪郭を微かに歪ませた。

真砂リオは肩に重い布を引っかけ、息を切らして走っていた。背中には負傷した避難民の男。肩のあたりで男の体が小刻みに震え、血の体温がじっとりと伝わってくる。リオの左手は男の腰をしっかり掴み、右手は裂空旗の柄布を握っていた。裂空旗は本来、仲間が合意した一度限りの作戦を媒介する「器」だ。だが今、旗は破れている。赤い縫い目がほつれ、破片は風に飛ばされそうになっていた。

「リオ! こっちだ、被さって!」声が短く割れる。無線は右耳側に当てていた小型の受信機から聞こえてくるはずだったが、風と瓦礫の音に溶け、言葉は断片としてしか届かない。無線相手は蒼井ナツ。通常ならば、ナツの「了解」で合図が揃い、旗に手をかければ部隊の共有作戦が成立する。だがナツの声は、こちらの耳に届く前に掠れて薄れた。

「ナツ、位置を――」リオは言葉をつなごうとした。だが返事の代わりに、遠くで何かが砕けるような低い振動が走った。振動は耳鳴りを伴って、胸の奥まで届く。

瓦礫の影から、黒い影が立ち上がるのをリオは見た。影は人の形をしていたが、輪郭が滑らかで、その辺りの音を吸い取ってしまうかのように周囲の空気が無音になった。遠目には、まるで音がないから存在が強調されているようだった。見る者の視界に、そこだけ音がない。無音伯だ。

「こいつが……」リオは呟いた。無音伯の名は、避難所の間で囁かれていた。人の選択を奪い、刈り取るという噂。だが今、目の前で確実に動いている。男は怯え、リオの肩にしがみつく。血はずるりと袖口に染みていた。

「合意がないと、旗は動かない。リオ、待て!」無線から再びナツの声。今度ははっきりと届く。だが返事を返す間に、無音伯は一歩前に出た。影の端が瓦礫の上を滑るように進む。周囲にいる避難民の一人が、声をあげる代わりに凍りついていた。叫び声が出るはずの喉が、まるで誰かの手で塞がれたように働かない。無音伯の存在は、声や意思を奪う。

「ナツ、ここにいる。合図をくれ! 合意してくれれば——」リオは裂空旗を強く握り締めた。布地の裂け目から入る光が、彼女の視界に細い白線を描く。合意の契り、というものは言葉だけではない。旗に伴うのは、一種の同調だ。三人が同じ瞬間に「行く」と意図すると、その意図が裂け目を通じて結びつき、周囲に物理的な変化をもたらす。一度きりの奇跡のようなものだ。それを使えば、瓦礫を割り、救出のための空間を一瞬で生み出すことができる。だが代償は大きい。旗を単独で作動させれば、使用者の感覚の一部が反動で奪われる。さらに、仲間の合意を得ないで無理に扉を押し開けば、効果は選別されず、周囲の人間にも及ぶ……場合によっては敵にすら作用する。

ただの噂では済まされない。リオはそれを知っている。数え切れない現場で、彼女は裂空旗の代償を見てきた。仲間が揃わなかった夜、先輩が単独で使って耳を失い、後でその人はもう戦線に立てなくなった。そういう事実が、体の奥で冷たい鉄として沈んでいる。

「ナツ、イチかゼロか言って!」リオはほとんど叫んだ。無線の向こうで、息遣いが聞こえた。イアン(志摩タケル)は左手で防壁の下敷きになっている。声が途切れる。「……ダメだ。タケルが……動けない。俺、合意できない」ナツの声は柔らかく、それでいて固い。合意しない、という選択。仲間の自律した判断は、行動の可否を決める。

背負った男が苦痛の表情を見せ、腕が細かく震える。瓦礫の角が彼の足を切っている。無音伯が一歩、また一歩と近づく。時間がない。リオの脳裏で選択肢が渦を巻いた。仲間と共有した計画のみを成立させるのがルールだ。仲間の了承がないまま動かせば、代償は確実に来る。だが待っていれば、男は――

「──行く、リオ。こちら合意する」ナツの声が割れた。だが同時に、別の声も割り込んだ。「いや、無理しないでくれ。タケルを救えないのに、全員巻き込むのは違う」それはイアンの、痛みの混じった声。無線は同時に二つの意志を送ってくる。合意と否定が同時に存在することの不可解さに、リオの胸は締め付けられた。旗は決して二つの相反する意思を繋げない。三人が揃って「行く」を唱えなければ、共有は成立しない。ナツは了承の意志を強く出していたが、イアンの否定が決定的な足かせになっている。

無音伯が距離を詰めた。影の端が避難民の輪郭をなめ、呼吸が途切れる。男の瞳が真砂を見上げる。助けを求める目だ。リオは背中の痛みを感じながら、決断した。

「いいわ、ここで止まれない。」リオは旗を打ち込むように瓦礫の隙間に突き刺した。旗の布が吠えるように震える。周囲の空気が歪み、光が裂け目から洪水のように溢れ出した。通常なら、合意の波が反対方向からも来て、光の輪郭を整える。だが今回は違った。ナツの「行く」は小さな灯火でしかなかった。イアンの否定が空中で棘となり、共有は欠けている。リオの意思だけが旗に注がれた。

白光が走り、空間が薄く裂ける。瓦礫の輪郭が瞬間的に揺れ、そこに「窓」が開いた。窓は小さく、そして艶めいていた。その中へ男を滑り込ませるようにリオは体をひねる。男の体がするりと窓へ落ちていく。窓の向こうは、一瞬見えた避難路の影。だがその瞬間、リオの右耳で破裂音が鳴った。音は刺のように鋭く、胸の中まで響いた。次の瞬間、右側の世界がスッと消えた。耳鳴りが残り、そこから先は完全な静寂。

「うっ……!」リオは膝をつき、旗を握りしめた手が震えた。耳の中で血の音がドクドクと鳴り、次第にそれも薄れていく。右側の空間から、音が消えたことが、恐ろしく鮮烈に伝わってくる。笑い声も、瓦礫が崩れる音も、無線の雑音も、すべてが左側からだけ来る。世界が左右非対称に感じられて、視界の端が引き裂かれるようだった。

無音伯は、その「無音」をさらに広げるかのように前進する。だが奇妙なことに、裂空旗の窓が開いた場所から、音に似た何かが漏れ出している。形にならない「振動」が、影の存在に触れる。影が一瞬、止まった。リオは耳の代わりに、胸の震えでそれを感じ取った。光と無音がぶつかり合い、空気が引き裂かれる。男は転がり落ち、瓦礫の向こうへと消えていく。ナツの叫びが左耳を通じて届いた。「リオ、大丈夫か!」

「右耳が……聞こえない」リオは声を絞る。言葉は左側からこだました。彼女の頭の中に、過去の光景が流れた。代償を払った先輩、耳を失って笑った顔。彼女はその顔を思い出して、歯を噛んだ。

無音伯は、歩を止めると暗がりのなかで指先を上げた。影が空気を撫でる。そこで初めて、リオは見た。裂空旗の裂け目の向こうに、小さな模様が新しく浮かび上がっている。薄い輪のような印。まるで誰かがタグを付けたように、空に小さな紋が刻まれていた。それは廃墟の上空へと向けられた矢じりのようにも見えた。模様は光っていたが、音はない。音なき紋は、無音伯に似合いすぎる印だった。

ナツの声が左耳から再び伝わる。「それ