銀河鉄拳の侍従と石英軍 第15話「第13章」
雨は、駅のプラットフォームを洗うように降り続けていた。薄暗い照明の輪が水面に滲み、停まった列車の側面に縦縞の光を描く。鉄と石と人の匂いが混ざり、冷たい空気が肌を刺した。
雨は、駅のプラットフォームを洗うように降り続けていた。薄暗い照明の輪が水面に滲み、停まった列車の側面に縦縞の光を描く。鉄と石と人の匂いが混ざり、冷たい空気が肌を刺した。
「全部、私のせいだ――ハル、やめてくれ」
声は濡れた紙を揉むようにしわがれ、群れの中から誰かが叫んだ。口論の先端に立っているのは、腕に古い傷跡のあるリキだった。彼の指は拳に変わり、雨粒が跳ね返る。
ハルは小さく震え、傘を差す手を持て余していた。薄い白衣の裾が泥を跳ね上げる。彼女の目は赤く、声はひとつひとつ言葉をかみしめるように押し出した。
「……家族を、人質に取られたの。連れて行かれるって、証拠を掴む前に言われた。全部、私の判断で……少しでも時間を稼げば、って。情報を送ったのは嘘じゃない。本当に、守りたかった」
雨が彼女の髪を濡らし、黒い線を額に作る。彼女の指先を澪がそっと捕まえた。誰も声を出せない。澪の掌にはまだ作戦の冷えた紙片があり、紙と指の間に雨水が吸い込まれていく。
「情報を流したって、ただの“見逃し”じゃない。私たちの拠点、避難民のルートが全部――」リキの言葉は鋭利だった。「どうして黙ってたんだ。仲間を裏切ったんだぞ?」
「裏切り、ではない」澪は低く言った。声は雨音に溶けて、しかし決然としていた。「誰かの命を天秤にかけるような状況で、あなたはどう判断する? 私たちだって完璧じゃない。ハルは選べる立場にはなかった」
群れの視線が一斉に澪へ向く。サナは両手を胸の前で組み、顔を歪めた。「甘い。私たちは避難民を守るって誓ったんだ。信頼のルールを破られたら、どうやって次に会えって言うんだよ」
「信頼は大事だ。だけど、人質を取られる人間に“信頼しろ”って言うのも酷だ」澪はハルの手を離し、小さく息をつく。雨が頬を叩く感触が、生温かくも鋭く、澪はそれに耐えるように目を細めた。
「彼らは今、家族を車内に押し込んでいるって連絡が来た。移動が始まれば追える場所がなくなる」エイチが言った。彼のコートの裾は泥で重く、肩越しに石英軍の灯が遠くに見えた。四角いライトが白い筋となって空を切る。
時間がない。空気は締め付けられるように重く、決断を迫った。
澪は、銀河鉄拳を思い浮かべた。あの冷たい拳は、澪の胸のなかで今もうごめき、いつでも作戦を“実現”することを約束している。だがその代償を澪は幾度か味わっていた。前回の代償は、澪にとってまだ生々しい:鋭い痛みと、嗅覚の半分を失ったこと。今度使えば、もっと大きな何かを失うかもしれない。さらに、仲間の合意を無視すれば――能力は敵にも作用する。
「澪、どうするんだ?」サナの声は震えている。
澪は言葉を選ぶ。胸の中で、鉄の冷たさが指先まで伸びるのを感じた。作戦を共有すれば、この能力は“約束”の力になる。計画を合わせて口にし、互いに同意し、同じイメージを固める。たった一度だけ、それを現実にできる。だがその合意がなければ――澪はよく知っている、合意のない拳は刃となる。
「一度だけ。全員でやる。今こうして言葉に出して、同意してくれるなら――私たちの作戦を銀河鉄拳に与える」澪は言った。彼女の声は雨に溶けず、そこに立ち止まるように響いた。
沈黙が長く続いた。誰も即答しない。足元の水たまりに、石英軍のライトが横切って行く。
「俺は無理だ」リキが先に口を開いた。「そんな能力を一度だけって、責任が重すぎる。お前が使って反動で……それで済む話じゃない。俺たちは澪を失いたくないんだ」
「でも今助けなきゃ、家族はそこで終わる」ハルの涙が相変わらず雨と混じり、白衣の襟を濡らした。「私が言った場所。移動が始まる。お願い、澪……」
エイチは顎をこすり、視線を落とした。「合意には時間がいる。今はない。使うなら、個人の判断になる」
澪は、体の奥の琴線が引かれるような感覚を覚えた。彼女は仲間を見回し、一人一人の顔を覚える。サナの顎の震え、リキの硬い目、ハルの壊れそうな笑顔。彼らは──その場で自分の判断を下す。
「じゃあ、私がやる」澪は言った。
言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。驚きと恐れが波のように走る。サナが口を開く。「澪、ダメだ、やめて。ひとりで使うなんて——」
澪は振り向きもせずに手を掲げた。掌の中心に、かつてないほど冷たい圧が集まる。齋むような痛みが胸を貫いた。鋼鉄の感触が、まるで筋肉の代わりに縫い付けられるように広がる。銀河鉄拳は要求する。代償を要求する。
「合意がないなら、敵にも作用する――」澪は思い出す。記憶の縁にある断片的な恐怖を押し戻す。だがその時は家族が、今は生きている人たちが、目の前にいる。澪は自分の誓いを選んだ。
拳を降ろす。世界が崩れるような衝撃が、澪の頭蓋を震わせた。音が引きちぎられ、左耳の奥が空洞になったかのように遠ざかる。雨の音は消え、代わりに金属が擦れるような音だけが鳴る。手先の触覚が鈍り、指先の感温は薄れる。代価だ。澪は鋭い痛みに噛みつき、歯の摩擦だけがリアルさを保たせた。
「澪!」サナが叫ぶ。だがその声は――澪には届かない。
次の瞬間、世界はひとつの絵になった。構想した計画の輪郭だけが白く浮かび上がり、澪の意志に沿って周囲の物が音もなく動く。列車の扉が一斉に開き、人々が流れるように導かれた。濡れたレールが光り、足場となる。何人かの兵士の脚が仮面のようにゆっくりと動き、澪の計画に沿って配置を変える。遠くで、石英軍の車列が道を曲げ、思わぬ方向へ促されるように見えた。
それは奇跡に近かった。澪の意思は、手早く作られた救出の映像と共に現実を切り取った。ハルの家族は列車から引き出され、雨の中で抱き合い、澪の仲間が助けを差し伸べた。子どもは母の胸に顔を埋め、湿った髪に笑いが混じった。
だが、合意のない拳は、別の影も連れてきた。兵士たちの目は空洞のように遠く、命令の輪郭を受け取ったかのように規格化された動きをした。ある一隊が目的を失い、線路脇の避難民の列へと向かっていく。そこでは、混乱が生まれた。人々は自分の意志で動いていない。澪はそれに気づいた瞬間、何かが胸に落ちてくるのを感じた――それは怒りでも、後悔でもない。もっと深い、底なしの虚無。
計画は成功した。家族は保護された。だがその代わりに、数人の避難民が混乱の中で傷つき、誰かの家の一部が崩れた。兵士の一人は、自分の足で誰かを押しのけてしまった。彼らは口々に「命令に従っている」と言うだろう。だがその言葉が、救いなのか呪いなのかは、澪には判別できなかった。
雨の音が戻ってくるまで、しばらく時間がかかった。左耳の奥は、まだ空洞のままだった。澪は膝に手をつき、地面の冷たさを確かめる。手の感覚は半分しかない。代償は、身体の一部の喪失という形で訪れた。
「澪……」ハルが駆け寄る。彼女は泣きながら、澪の肩を抱きしめる。澪はその温もりを感じるが、距離がひとつ増えたように冷静だった。ハルの目に映るのは救われた家族の姿であり、同時に自分が引き起こした混乱の影だ。彼女は震え、小さな声で呟いた。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。私が……私は――」
「やめて」澪は言った。声はまだひび割れているが、確かだった。「二度