黄昏刃の工兵と鏡塔公

黄昏刃の工兵と鏡塔公 第17話「第15章」

蛍光灯の一つがちらりと瞬いて、教室の天井に浮かぶ埃の粒がゆっくりと落ちた。夜の風が廊下の窓に当たり、ガラスの向こうで遠く塔の方角から低い唸りが走るのが聞こえる。教壇に置かれた小さなランプだけが、木の机の列と満員のひざ下を温く照らしていた。

蛍光灯の一つがちらりと瞬いて、教室の天井に浮かぶ埃の粒がゆっくりと落ちた。夜の風が廊下の窓に当たり、ガラスの向こうで遠く塔の方角から低い唸りが走るのが聞こえる。教壇に置かれた小さなランプだけが、木の机の列と満員のひざ下を温く照らしていた。

「みんな、手を――」とアリが声を潜める。彼女の前には、直径十センチほどの銀色の円盤が積まれている。表面は小さな鏡面で覆われ、ところどころに細い導線が繋がって黒いケースに収まっている。アリは一つを取り上げ、ゆっくりと手のひらで温めるように撫でた。盤が微かに振動して、薄い蒼白の光を放った。

カナメは後方の席に座り、膝の上で古いゴム手袋をぎゅっと握りしめた。手のひらの皮膚に残るしわまで、冷たい感触が伝わってくる。胸の内側でまだ痛むのは、以前自分が単独で黄昏刃を使った時の記憶だ。左の耳鳴り。指先の痺れ。匂いが二度と戻らなかった日々。代償の具体を思い出すたび、喉の奥が乾いた。

「どうしても反対する人は?」アリが静かに訊く。教室の隅に腰掛ける年配の男、市村が首を振った。その目には疲労が滲んでいるが、手は堅く隣の女性のそれを握っていた。塔の装置に関する恐怖は、彼らの肌感覚として深い。あの煌めく鏡面は、今でも夜の夢に忍び込む者を攫うと語られていた。

「塔のことを信用できるわけじゃない。でも、あの子たちを救わなきゃ」市村が低く言った。彼の隣では、小学生くらいの女の子が毛布にくるまり、目をつぶっている。外の壁が揺れ、ガラスに細かなひびが走った。遠隔監視の鏡像が、彼らの動揺を吸い上げるかのようだ。

「合意を可視化するだけ。参加はいつだって自由。アリの装置は『見る』ことを手伝う。強制するものじゃない」アリはそう言って、円盤の一つを黒板の横に設置した。薄い針金が壁の漆喰に小さな電撃の跡を残す。装置は鏡面の外皮を一時的に書き換え、接続した者の意思表示を集約するはずだった。

しかし、塔の気配は既に近い。廊下の端から、鏡粒子をまとった兵装の金属音が断続的に響き、近づいてくる。扉の隙間から漏れる冷たい光。教室にいた子供たちは、一斉に顔を上げた。

「ここでやらなきゃ、外の避難路はもう塞がれてる」カナメは立ち上がる。声に震えはなかったが、両手の指先の感覚はすでに薄い。前回の代償はまだ彼女の体に刻まれている。黄昏刃に触れた右手の甲が、時折ピリピリと痛む。

「カナメ、私がやるから、君は声をかけて」アリが言った。彼女は端末で装置のシーケンスを入力し、円盤が重低音のように鳴動した。教室のあちこちで人々が互いの手を探し、幾つかの声が重なる。合意の輪が出来始める。

ただ、全員が席に手を伸ばすわけではなかった。塔の装置に対してひどく疑い深い者、すでに塔の手先を疑っている者が数人、腕を組んで固まったままだ。タオだ。彼は元防災係で、塔の技術に直接触れたことがある男だ。彼の眼差しはアリの円盤を一切受け付けなかった。

「これで本当に安全なんだろうな?」タオが低く言う。声には怒りが混じる。「もし、あの塔がどうにかして――」

「偽の合意であっても、今は時間がない」ミオが割って入った。教室の赤いセーターを着た女性で、避難所の裏方だ。彼女の手は震えながらも、隣の老女の指を包む。「子どもたちを逃がす道が開くなら、私は参加する」

アリの装置が微かに光を強める。円盤の鏡面に、小さな光点が浮かんでは消え、参加者の意思が可視化されていく。賛同を示す手は蒼白の連なりを作り、反対の者の影が一角を陰らせる。その時、廊下で金属の爪がガラスを叩いた。鏡粒子が一枚、窓の曇りの向こうで花開いたように揺れる。

「外へ行かせる!」カナメが叫ぶ。彼女は深呼吸し、黄昏刃を腰の鞘から引き抜こうとした。刀身は影の中で黄褐色に染まってうごめいた。触れた瞬間、脳裡にあの冷たい静寂が戻る。音の輪郭がぼやけ、手の感覚が一瞬引き上げられるような感覚。以前より短時間で済ませたいという焦燥が胸を突いた。

「カナメ、待って!」タオが前に出た。「全員の合意はとれてない。強行すれば、あの能力、敵にも働く可能性がある」

教室に静寂が落ちる。口火を切ったのは市村だった。「敵にも? それがどうして——」

アリは端末のスクリーンをカナメに向けて見せた。そこには、黄昏刃が形成する「共有作戦」を可視化するためのプロトコルが描かれている。アリが設計したのは、あくまで同意を補助する「翻訳器」だが、もし合意が不完全なまま実行されれば、共有された作戦は"拡張"する。拡張された場では、作戦の枠組みが味方の外側まで広がり、境界を越えた対象にも同じ動線を強制することがある――カナメはその説明を聞いたとき、初めて「敵にも作用する」という警告が具体的に脳裏に落ちた。

「犠牲を出さずに済むのなら」アリは目を伏せた。「でも、それは間違えたら双方に適用される。塔の反応次第で――」

外側の金属音が一段と大きくなり、窓枠が共鳴した。鏡粒子の一体が、教室のドア前で八つの影となって膨らんで見える。時間はない。

カナメは鞘を握る手を落ち着かせようとした。右手の指先が冷たく、細かい布の感触がうまく分からない。黄昏刃を使えば、自分はまた何かを失うだろう。嗅覚か、聴力か、指先の細かい動作か。代償は確実だ。だが、ここにいる無防備な人々をそのままにはしておけない。選択はいつだって残酷だ。

「合意が完全でなくても、やるしかないのか?」タオの声は震えていた。「敵にも作用したら――」

「敵にも作用するなら、それを利用することもできる」とカナメは静かに言った。「同じ作戦が敵にも働けば、今この場は一時的に鏡合わせになる。混乱の中で、逃げ道が作れるかもしれない」

アリが顔を上げた。彼女は決断の前に端末を一度だけ走らせ、小さな確認音を鳴らす。円盤の光が激しく波打ち、教室の空気が一瞬固まった。ミオが娘の肩を抱きしめ、老女が手を握りしめ直す。タオは目を見開き、しかし口を閉ざした。

「一度だけ、私にだけ許して」カナメは言うと、腰の鞘から小さな布袋を取り出した。中には、黄褐色に輝く刀の角に触れたときだけ発現する結晶片が一枚収まっている。それは彼女が前に何ヶ月もかけて探し、ようやく手に入れた代替の媒介だった。アリの装置と合わせれば、合意の可視化を"強制的に拡張"することができる。ただし、代償は大きい。

「これを使って、あなたの意思と合意がない部分を補助する。だが、使ったら私は必ず何かを失う。戻れないものもある」カナメの声に、誰も答えなかった。灯りが揺れる。遠くで塔の警告音が低く鳴った。

「やるなら今だ」アリが吐息とともに言う。彼女は円盤に最後のコマンドを打ち込み、スクリーンに薄い網目のような図形を表示させた。その網目は教室の全員の意思を模し、足りない分を仮想的に埋めるための補正係数を算出していた。アリは目を伏せ、言葉にならない祈りを端末に送る。

カナメは深く息を吸い、黃昏刃に布袋の結晶片を沿わせて呪文のように指でなぞった。刀身が薄く震え、光が指先から腕に流れた。耳鳴りは一気に増幅し、世界は遠景と近景の二層に分かれたように歪んだ。床の感触が薄く、靴底のゴムの摩擦が遠い思い出になる。視界の端が冷たく欠けて