虚数弓の測候士と砂時計軍 第6話「第5章」
薄汚れた朝が、瓦礫の谷を低く這っていた。風は砂粒を舌の裏にへばりつかせ、遠くからは金属が擦れるような音が断続的に届く。刈谷瑠伽は肩にかけた小さな革筒から、虚数弓を取り出した――木でも鉄でもない、その輪郭は光を拾って歪み、見る角度で弦の位置が揺れる。握る指に、まだ早朝の冷えが残る。
薄汚れた朝が、瓦礫の谷を低く這っていた。風は砂粒を舌の裏にへばりつかせ、遠くからは金属が擦れるような音が断続的に届く。刈谷瑠伽は肩にかけた小さな革筒から、虚数弓を取り出した――木でも鉄でもない、その輪郭は光を拾って歪み、見る角度で弦の位置が揺れる。握る指に、まだ早朝の冷えが残る。
「もう見えた?」梶原翼が前に立ち、低い視線で道の先を覗き込む。目の前の廃線路の向こう、コンクリートの裂け目に砂時計軍の歩哨が一列に現れた。砂の詰まった時計盤の紋章が、黒い防具の肩に光る。
瑠伽は弦を撫でるだけで拒否反応が起きるような感覚を覚えた。前回の夜襲――虚数弓を発動できず、連携も崩れ、多くを負傷させた記憶が胸に疼く。真央が単独で飛び出して人を救ったその手つきと、血の匂い。あのときの成功は仲間の主体性を示したが、同時に瑠伽の不在は明白な失敗でもあった。
「使うか、避けるか。どっちだ」翼が問い、周囲の顔に緊張が走る。リナが片膝をつき、怪我人運搬のための布を広げる。風にぴらつく布の縁が、まるで合図のように私はという。
「砂時計が本隊を呼ぶ前に抜けたい。虚数弓を……使えれば、短時間で隊形を切り替えられる」瑠伽は声を低くした。虚数弓は単なる攻撃道具ではない。彼女の説明の仕方がいつもそうであった――測候士として現場を支えた頃の習慣が残る、計測と条件を並べる語り方だ。
「気をつけろ。瑠伽、あれは一度しか動かせない。しかも――」真央が言葉を切る。彼女は医師用の包帯を手に、不安げに瑠伽を見た。「この前だって、共有できる計画がないと動かなかった。君の判断で使ったらどうなるか…」
「単独で使うと反動が――」リナが付け加える。「感覚の一部を失うって言ってた。聴力だって、視力だって、どれが飛ぶかわからない。しかも合意を無視すると能力は敵にも作用する。つまり、君だけが勝手に設計しても、敵もその『効果』に巻き込まれる可能性があるってことよ」
言葉の向こうに、砂時計軍の金属音が近づいた。隊列はゆっくりと、しかし確実にこちらへ歩みを進めてくる。
「じゃあやるなら、今しかない」翼の声が硬い。彼は前線に立つことをためらわない男だ。だがその目にあるのは苛立ちと疲労で、瑠伽は俯いた。共有の計画を練る時間などほとんど残されていない。
「同意は取れるか?」瑠伽は仲間を見回した。真央は唇をかみ、リナは腕組みしている。誰もが虚数弓の力を欲している。しかし同意するか、同意の上で動けるかは別問題だ。合意というのは口約だけではない。体で突き合わせた計測、役割分担、そして信頼。前回の散開はその全てを欠いていた。
「俺は賭けに出るべきだと思う」翼が言った。「あの群れをここで迎え討つのは不利だ。揺さぶって分散させるなら、犠牲を減らせる」
「私ゃ、負傷者を優先したい。虚数弓を温存すれば他に使えるかもしれない」真央。彼女の眼差しは包帯の切れ端に向けられ、揺れる決断を示している。
時間は砂時計の砂のように少しずつ落ちていく。瑠伽の手の中の虚数弓が微かに震えた。彼女は仲間の眼差しを集め、口を開いた。
「計画をつくる。私が弓を媒介にして、全員が同じ動線を『共有』する。翼は前衛で囮、リナは通路の障害を解除、真央は負傷者の搬出ルートを確保。私が一、二の指示で全員を瞬間的に同期させる。合意がとれれば、効果は味方にのみ掛かるはずだ」
真央の顔が強張る。リナの指先が小さく震えた。合意は口で言うほど簡単じゃない。互いの動きを信じ、同時に息を合わせる欠かせない操作。だが、時間がない。
「やるなら今だ!」翼が叫ぶ。彼の叫びに、兵の足音が一層大きくなった。数秒の沈黙のあと、真央がゆっくりと手を上げた。リナも続く。瑠伽の胸から、冷たい気持ちが湧いた。合意。ほんの小さな二つの手の合図。それだけで虚数弓は仲間を選ぶ。
瑠伽は息を整え、革筒から弓を引き出す。弦に触れると、世界の音が一瞬細糸のように震えた。弦の光が彼女の指先を撫で、目蓋の裏に――測候士の時代の記録が映る。時間を計り、風を読む。彼女は全員の動きを想像し、指示を口に乗せる。
「翼、三歩目で右へ折れ。リナ、二で障害を開けて。真央、搬送ラインを一列に。合図は私の息で――今だ」
瑠伽の息が静かに吐かれたその瞬間、虚数弓が震え、弦が音を立てる。ではなく、音が弦を生むとでも言うべき感覚。周囲の空気がわずかに層を成し、瑠伽の中で計画が固まり、共有されていく。合意が回路を閉じる。味方にのみ掛かるはずの術式が、順に――。
しかし、皮肉なことにそのとき、遠くの瓦礫の影が屈託なく動いた。砂時計軍の一隊長が、腕の紋章を叩くようにして何かを操作したのを瑠伽は視界の端で捉えた。彼らもまた、同期のための装置を持っていたのだ。動きは早く、機械の音が弦の音と共鳴する。
「騙されたか?」リナが呟くように叫んだ。
効果は作用した。だが合意の輪は見えない何かによって部分的に割られた。虚数弓の術式は、美しいが脆い共振であった。瑠伽の中心に冷たい衝撃が走る。頭蓋の奥が割れるような痛みと共に、耳にあった世界の層が剥がれ落ちた。最初は薄い布が引かれるように、次第に音の全てが遠ざかっていく。
「――んっ」真央の声が口元で開いたが、瑠伽には声が届かない。唇の震えと口笛のような空気の流れだけが分かり、言葉の輪郭は崩れていた。振り返ると翼が叫び、足取りを速めるが、その声の意味は鼓膜を伝わらない。鼓動だけが、耳鳴りを伴って重く胸を押す。
同時に、術式の広がりが予想外の結果を生んだ。合意の輪が完全ではなかったため、敵もその「共有」の一部に取り込まれたのだ。瑠伽が描いた隊形の変換は、敵味方双方に等しく作用し、砂時計軍の前衛が即座に彼らの動きを読み取り、反転して合流してきた。瞬間的な同期は、双方向の鏡となって戦場を歪めた。
リナが叫び声を上げ、真央が負傷者を抱えて崩れる。翼は前に出て敵とぶつかり合うが、敵の動きは彼の動きと驚くほど似通っていた。まるで向こう側も同じ脚本を手にしていたかのように。瑠伽は映像のようにその光景を脳裏に映す。従来の音が消えた世界で、彼女は振動と波長、熱だけを頼りに判断しなければならなかった。
血の匂い、布の擦れる感触、地面の振動。そんな非言語の情報が、彼女に世界を伝える。腕の中で真央が何度も息を切らすのを感じ、翼の足取りの確度が低下するのを足裏で捉えた。だが、耳は戻らない。鼓膜の奥で鈍い土のような詰まりが広がり、世界は永遠に遠い音を被ったように沈黙した。
戦闘は短く、しかし血が多かった。同期が両軍を混乱させたせいで、最も混乱したのは瑠伽たち自身だった。砂時計軍が増援を呼ぶ間に、われわれは何をしても一歩遅れを取った。負傷者を担ぎ、瓦礫の陰へと退く中で、瑠伽は両手で耳元を押さえた。耳鳴りは高く、しかし明瞭な音は無い。
「瑠伽!」誰かが叫ぶ。唇の動きで識別すると、真央だ。彼女は泣きそうな顔で瑠伽の顔を覗き込み、指を瑠伽の頬に当てた。指先の温度と小さな震え――それが瑠伽に伝わる全てだった。
退避した後、味方のひとりが敵の遺留品をひっくり返している。暗い金属の塊、壊れた砂時計の端片が光を反射する。その破片に刻まれた小さな刻印を、リナ