虚数弓の測候士と砂時計軍

虚数弓の測候士と砂時計軍 第24話「第22章」

砂嵐が峡谷を切り裂くように吹き込んだ朝だった。刻まれた岩盤の影に、薄いテントと壊れた送風機が並ぶ避難区画。その間を、紡は虚数弓を背にしたまま駆けた。弦は見えないが、胸の奥でかすかな鼓動のように鳴っている。手の甲に刻まれた小さな数列が、冷たい蒸気のように光を吐いていた。

砂嵐が峡谷を切り裂くように吹き込んだ朝だった。刻まれた岩盤の影に、薄いテントと壊れた送風機が並ぶ避難区画。その間を、紡は虚数弓を背にしたまま駆けた。弦は見えないが、胸の奥でかすかな鼓動のように鳴っている。手の甲に刻まれた小さな数列が、冷たい蒸気のように光を吐いていた。

「右側の排煙路、塞がれるぞ!」リオが声を張る。小柄な彼は風にさらわれそうな声を抑えて、手で合図を送った。岩壁に沿って砂の柱がねじれ、砂時計軍の先遣隊がすでに避難民の脇を固めている。彼らの手には小さな砂時計 — 針の代わりに砂が折れるように移る器具が光り、そこから放たれる粒が人々の足元で波紋のように広がった。

「被害を抑えて通路を開ける。合意が必要だ、紡」ハルカがそういう。彼女の手には、儀式用の円盤があった。あの特製の円盤は同意を示すための触れ合いを可視化する。以前なら一行だけで使えたはずだが、試験運用の反省から今は「複数の参加者」が不可欠になっている。

だが、テントの中で小さな子が泣き出した。蒼い目をした少年が、しがみつく母の腕の間から外を見ている。砂柱はその通路を潰す勢いで寄せていた。「助けて」と少年が言う。砂は次の瞬間、鉄のように固まり、壁になる。塞がれた通路の向こうでは砂時計兵が笑っているように見えた。

紡は反射的に走った。計器としての本能が、時間と距離を分解し、最短で少年の元へ到達する軌跡を描く。虚数弓はいつだって擬似の矢を作るための媒介だ。だが、その矢はただ「一度だけ」しか現れない。ふたり、三人の合意でしか起動しないように仕組まれている――紡は頭でその条件を復唱しながら、手を伸ばした。

「紡、待て!集合が出来てない」ハルカの声が届いた。だが砂壁はもう半分、少年の前に迫っている。

紡は一瞬、揺れた。合意なしに弓を引けば――代償がある。単独での使用は、感覚の一部を失わせる。測候士としての時間の感知、秒の肌理が剥がれ落ちるような代償だ。だがもしあのまま少年が埋まれば、避難民たちの合意を得る機会そのものを逸する。選択の余地を守るために、紡は選ばなければならないと知っていた。

「ごめん」紡は小さく言って、虚数弓の意識を自分の胸に呼び込んだ。空気が引き締まり、見えない弦が指先を撫でる。虚数弓は合意を媒介にする道具だが、強引に触れることもできる。音が消え、世界が一度引き延ばされた。矢は光の帯となり、砂壁の断面に滑り込む。砂は音もなく裂け、少年は母の腕から引き離されずに通路が開いた。

だが矢が去った瞬間、紡の胸から何かが抜け落ちるような感覚が襲った。目の前の世界が時間の筋目を失う。人の呼吸の間隔がばらばらに見え、砂粒の落ちる速度が寸断された。脈拍は存在するのに、それが「何秒」のことなのかがわからない。紡はその場に崩れ落ちそうになった。足元の石畳が遠い惑星のように踊る。

「紡!」リオが飛び出し、彼を支えた。ハルカが急いで円盤を差し出す。「なにをした、紡!全員の同意なしで発動したら――!」

「止められなかった」紡は舌がもつれるように答えた。喉の奥に砂の味がした。時間の感覚を失うと、測候士は測れない。矢を放った正確な瞬間さえ、自分の中で欠けている。だが生きている少年の声が、確かに紡を戻す。母親の手が紡の肩を掴んだ。「ありがとう」と一語だけ。

その瞬間、峡谷の向こう側で違和感が走った。砂時計兵たちの器具が、紡が放った光の軌跡を反転させるように震えた。そして――意外なことに、彼ら自身の体からも同じ光が走った。まるで紡が放った「一度きりの奇跡」が波紋となって逆流し、敵の間でも具現化したかのようだった。

「合意……無視すると、敵にも作用するって言ったろ!」ユウタが叫んだ。鋼の顎をきしらせ、手近な鉄板で盾を作る。彼の目は冷たかった。砂時計兵の一人が、その瞬間に隊列を崩し、内部の砂を操って隣人の意志を縛り始める。敵は紡の弱みをそのまま転用したのだ。虚数弓が与えた「単発の物理的事象」は、合意という形で解釈されれば敵にも道具になる。

「これは、試験運用の想定外だ」ハルカが息を荒げる。円盤に記された光の配列が小刻みに震えている。彼女はすぐに解析を始めた。砂時計兵たちが口々に、むやみに現れる光の恩恵を受けている。袋小路に逃げようとした避難民の足が固められ、敵が一斉に前進する。

紡は時間の感覚がないままじっと見つめた。秒が抜け落ちると、自分の行動のタイミングを外す。狙いは狂い、合図はずれる。彼は虚数弓の残滓を胸に引きずり、声を出した。「皆、自分の頭で動いてくれ!」

その声は命令ではなく、頼みだった。ここで仲間たちが自律的に選ぶことが、何より大事だった。ハルカは即座に判断した。彼女は円盤を抱え込み、儀式の「合意」そのものを一時的に封じるために、自分を囮にして砂時計兵を引きつけると言った。リオは子どもたちを集めてすぐに通路を先導する。ユウタは盾になると言った。サナは怪我人の手当てを始めた。

それぞれの選択は強制されず、自発だった。紡はその光景をぼんやりと見て、自分が奪った「選択」を自ら取り戻すように感じた。合意のない行為が敵に利益を与えたのなら、合意は武器でもあり盾でもある。だからこそ、それを取り返さなければならない。

ハルカは円盤を高く掲げた。「みんな、私だけを見て!」彼女の声は小さかったが確かだ。砂時計兵は彼女に矛先を向ける。ハルカの体が砂の波を受け止め、円盤から光が跳ね返る。彼女はそれを使って「合意用の窓」を一瞬だけ作り出す。民衆がその光に触れる――その瞬間、数名の避難民が自らの意志で手を差し伸べた。合意の連鎖が生まれる。

リオが先導し、子どもたちが列を成して走る。ユウタが前を切り、サナが負傷者を後ろへ押す。紡は近寄って、ハルカの隙を突こうとした。しかし時間の欠落は思いがけない罠を仕掛ける。銃を撃つべき瞬間がどの瞬間かわからない。狙撃に失敗すると、砂の反撃が仲間を直撃する。リオが砂の壁に捕まりかけたのを、半分遅れて紡が補助して救った。彼が助けなければリオは穴に落ちていたかもしれない。

「先に行け、紡!ここは任せる」ハルカが言う。彼女は自分で引き付けた注意を利用して、円盤をさらに一段と輝かせた。避難民たちが次々に手を重ね、光は掌の間を伝っていく。虚数弓は本来、数人の合意で計画を一度だけ具現化する。それが今、少数ではなく、避難民全体の小さな合意の積み重ねで変形し始めている。

だが、その時、峡谷の高みに立つ黒い巨人のような兵士が叫んだ。彼は砂時計軍の副司令、黒砂(こくさ)と呼ばれる男だ。黒砂は砂の装置を抱え、笑みを浮かべた。「面白い、虚数弓のエネルギーを同調することは出来る。合意の波形を透過させれば、一種のフェイクが作れる。あなたたちの『同意』を模倣し、我々が再配分すれば、選択そのものを我々の都合で配分できる。つまり――選択を奪うより軽い手段だ」

その言葉が、皆の肩を冷たく打った。ハルカの顔が固まる。紡は自分の胸の下で残滓の光を感じた。敵は単に模倣するだけでなく、合意の見かけを作り出せると宣言したのだ。虚数弓を「多数の合意を可視化する道具」に変えようとした彼らの試みは、敵によって逆に「合意の偽造」という武器になり得る。