虚数弓の測候士と砂時計軍

虚数弓の測候士と砂時計軍 第20話「第18章」

砂と紙片の匂いが混じった午後だった。広場の空気は乾いていて、砂時計軍の赤いポスターが風に拍子をとるたびに紙縁がかすかに擦れ合った音がする。そこに集まった避難民たちのざわめきは、まるで小石を投げ入れた水面の波紋のように、ゆっくり広がっていった。臨時の掲示板には、砂時計軍の黒字で太く書かれた文言が覆いかぶさり、その脇に春河(はるか)と由利(ゆり)が手描きのビラを貼り付けていた。ビラには虚数弓の図と、共同で選ぶことの大切さを示す簡単な絵があった。

砂と紙片の匂いが混じった午後だった。広場の空気は乾いていて、砂時計軍の赤いポスターが風に拍子をとるたびに紙縁がかすかに擦れ合った音がする。そこに集まった避難民たちのざわめきは、まるで小石を投げ入れた水面の波紋のように、ゆっくり広がっていった。臨時の掲示板には、砂時計軍の黒字で太く書かれた文言が覆いかぶさり、その脇に春河(はるか)と由利(ゆり)が手描きのビラを貼り付けていた。ビラには虚数弓の図と、共同で選ぶことの大切さを示す簡単な絵があった。

「ここまで来るとは思わなかったな」由利が唇を噛み、紙の端を指で擦った。遠く、砂時計軍の中隊が整列し、管野(すがの)少佐の声が広場のスピーカーを震わせる。彼の声は、鉄板に叩かれたように均一で、反論を許さない強さがあった。

「改変案が混乱を招く、避難は統制の下で安全だ」スピーカーが繰り返す。近くの幼い母親が子を抱き締め、目を伏せた。人垣の内側では、何人かがプロパガンダに怯え、もとの管理下に戻ることを望む声を漏らしている。そうした声が、広場に冷たい影を落とした。

相変わらず虚数弓は、葵(あおい)の背に沿って揺れていた。透明な弓形は夕陽を受けて虹色に光り、弦の代わりに砂の筋がふるえる。葵は測候士として危険の現場を支えた過去を持ち、今は避難民と仲間を守ることに心血を注いでいる。だが虚数弓には条件があった──味方と共有した作戦だけを、一度だけ現実にする。その「共有」は言葉だけの同意ではない。手の握り、視線、身体のリズムが縒り合わさる儀式のような合意が必要だった。合意を無視すれば、能力は敵にも作用し、単独で使えば反動で感覚の一部を失う。

「今日は儀式のデモンストレーションだ」春河が小声で言う。彼は計算外の事態を嫌う男で、虚数弓を象徴として使うことに慎重だった。「我々は透明に、選択肢を見せる。強制はしない。合意があれば、初めて動く。分かってるよな、葵?」

葵は俯き、弓の柄を指先でなぞった。掌に伝わる冷たさが、彼女の内側の決意と拮抗する。広場の隅で一群の子どもたちが石段に寄り掛かって笑っている。笑い声は刹那の安らぎだった――だが管野の隊列はゆっくりと近づいていた。彼らの先頭に立つのは、砂時計軍の新任監察官、伊吹(いぶき)。彼は若く、しかし目は冷たく鋭い。伊吹が近づくたびに、数人の顔が固くなる。

「合意がなければ動かない」由利が葵の腕をつかみ、視線を合わせる。そこには頼もしさと同時に苛立ちが混じっていた。「みんなで決めるんだ。葵が一方的な英雄になったら、それは私たちが変えたいものと同じやり方になる」

だが葵の胸の奥には別の声があった。幼い子の靴底が砂利の端に引っかかり、次の瞬間、押し戻される人波に怯えた母親が子を離しそうになった。押し寄せる兵士の列と、人々の意志が交差する寸前。誰かが叫んだ。「退け──!」

その瞬間、葵の身体は反応した。虚数弓の弦(砂の筋)がきしみ、掌に重力とは違う引きが走る。春河の目が大きく見開き、由利が叫び声を上げた。「葵、だめ──合意が──!」

だが言葉が届く前に葵は弓を引いた。視界の端で虚数弓の輪郭が濃くなり、空気が光の粒子で切り裂かれるように震えた。弦を弾くと、音ではないものが弧を描いて広場を横断した。肌に当たるのは、砂粒の冷たさと、時間が引き伸ばされるような圧迫感。集まっていた人々の胸に、一瞬の安堵と強制の二つの感触が同時に落ちる。

効果は直感的に示された。虚数弓が編み出した現実は、葵の脳が「押し出した」イメージに沿って広がった──避難ルートが光の帯となって現れ、人々を穏やかに導くように波立った。数名の兵士が足を止め、列が揺れた。泥を噛んでいた小石が光と共に位置を変え、幼子の母は自然とステップを踏んで子の手を取り直した。

だが同時に、誰も合意していないはずの者たちにも変化が及んだ。伊吹はその場で硬直し、瞳が遠くへ泳いだ。管野の側近の一人が、無表情に胸に手を当てて呟いた。避難民のうち数人は、目が一瞬半透明になり、思考の速度が落ちたように見える。まるで外から誰かが選択肢のスライダーを動かしたかのようだった。

「何を・・・やったんだ!」春河が葵に飛びかかった勢いで詰め寄る。胸の鼓動が耳に響き、周囲の音が薄れていく。葵は返事をする代わりに、自分の耳に違和感を感じた。左の耳が遠く、世界の音がスローモーションになったようにして消えかけている。砂が耳の奥で擦れるような、金属の刃が歯に触れるような痛み。笛の一音が半分だけ聞こえ残る、不自然な断絶。

「反動だ・・・」由利が低く言った。「単独。合意がなかった。敵も被害を受けている」

葵はその場に膝をついた。左耳の世界は白く、音は向こう側で薄れていく。視界は保たれているが、世界との距離が一度引かれた感覚がする。手の中の虚数弓も、弦が消えかけていく。力を解放したために、弓は次の一度を奪われたのだ──本来味方との「共有」がなければ使えないはずの一回目を、自らが強引に発動した。目的は果たした。だが代償は現実に刻まれた。

広場のざわめきは、全員が何かを「された」と感じた混乱に変わる。プロパガンダの幟を持つ者が、突然泣き崩れた。別の者は怒りを露わにして声を上げる。伊吹はフラッシュのように我に返り、管野に向き直った。「この行為は・・・」彼の口元が震え、しかし声はスピーカーの均一さを保てず、震えた抑揚が混じった。「報告せよ、ここで何が起きたか・・・」

管野は冷然と状況を受け止め、隊列を引き締めた。「慌てるな。ここは統制を維持する」だがその言葉には、どこか後ろめたさが混じっているように見えた。彼らが恐れているのは、虚数弓の表れ方そのものではなく、それが人々に示した「選択の可視化」だろう。管野は鉄面皮を保とうと努めるが、細い指先が小さく震えた。

春河は葵の肩を叩き、声を低くした。「正しいことだったのか、葵?合意のないやり方は、やるべきじゃないって俺は・・・」

葵は左耳の中に残る鈍い鳴りを感じながら、答えを探す。彼女の瞳は避難民たちの表情を追った。安心の表情を浮かべる者もいれば、顔色を失った者もいる。誰かが自分の意志で歩き出し、誰かはその場に立ち尽くしている。効果は混濁していた。だがあの瞬間、小さな子どもの掌が母の指をしっかり握り直したことだけは確かだ。

「・・・俺たちは、選ばせるつもりだった」葵の声はかすれていた。聞こえにくい左耳の向こうで、ビラが風にふるれる音が小さなパルスを打つ。「でも、今は違う。無理にやってしまった。代償を払った」

由利が眉を寄せ、葵とは違う角度から事態を見ていた。「だが結果は出た。人々は何かを感じた。耳を奪われたのは取り返しが付くかもしれないけど、虚数弓を使って無理に人の選択を変えることが可能だと示してしまった。管野たちがそれを利用するのは時間の問題よ」

その言葉に、広場の端に立っていた年配の女性がゆっくりと前に出た。顔には長年の苦労と、たぶん誇りの痕が刻まれている。彼女はゆっくりと手を差し出し、葵の反対の耳、右耳に触れた。指先は温かく、粗い布切れの感触が皮膚に伝わる。

「聞こえないのかい?」彼女の声はほとんど囁きだったが、葵には確かに右耳に届いた。女性は無理に同情