天蓋鎌の消防士と虚空市

天蓋鎌の消防士と虚空市 第15話「第13章」

焦げた布の匂いが、葵の鼻腔をつんざいた。市場の屋根が崩れ落ちた鉄骨の陰から、薄紫の煙がゆっくりと流れ出す。ランタン代わりに吊られた発光板の冷たい光が、群れになった避難民たちの顔を微かに照らしていた。子どもの咳が近くで止まらず、誰かが祈るように手のひらで頬を押さえている。

焦げた布の匂いが、葵の鼻腔をつんざいた。市場の屋根が崩れ落ちた鉄骨の陰から、薄紫の煙がゆっくりと流れ出す。ランタン代わりに吊られた発光板の冷たい光が、群れになった避難民たちの顔を微かに照らしていた。子どもの咳が近くで止まらず、誰かが祈るように手のひらで頬を押さえている。

葵は背中の天蓋鎌に触れた。柄はまだ熱く、ざらついた革の感触が指先に残る。長い生命線のように、鎌は葵の背中に食い込み、周囲のざわめきを吸い取るように低い唸りを立てた。彼女の胸の中には、選択が重くのしかかっていた。目の前の群れを動かせる時間は、せいぜい十秒──では間に合わない。鎌を媒介にすれば、仲間と共有した作戦を一度だけ、戦術として実現できる。だが、それには仲間の合意が必要だ。合意がないまま使えば、代償が仲間ではなく自分に降り、そして──その力は敵にも作用する。

「残留セクションまで波形が入る。封鎖まで九十秒。」桐生(きりゅう)が肩にかけた端末を覗き込み、数値を吐き出す。装甲の影から秩序班の機械群が姿を現し、地面に黒い網の筋が伸びていく。網に触れた者は集中管理センターへと誘導される。管理局の新方式だ。優先的に搬送されれば、身体的な負傷は低減する代わりに、選択肢は剥ぎ取られる──何度も葵はそれを見てきた。

「全員で動かすしかない。鎌で一気に移送経路を作る。ここを――」葵は言葉を途切れさせ、仲間の顔を順に見る。真琴(まこと)は額に深い皺を寄せ、リオは担架を背負いながら唇を噛んでいる。塩井(しおい)はまだ硬直した若い顔だ。

「合意をくれ」葵の声は震えていたが、それを彼女自身は聞ききれない。周囲の雑音が瞬間的に遠のき、指先へと冷たく響くようだった。天蓋鎌はただそこにあるようで、同時に重力の中心をずらす装置のようにも感じられた。

「俺は同意できない」真琴が低く言った。言葉に力があった。彼は長く現場に居た、葵の一歩先を読もうとする男だ。彼の視線は葵を刺すようだった。「お前が一人でやるとき、いつだって代償はお前だ。俺はそれを受け取らせない」

リオが眉を寄せる。「でもここにいる人たちを見てよ。時間がない。鎌が使えるなら……」

塩井の手が小刻みに震えた。彼の口から出たのは、すがるような声だった。「頼む、同意して……」

葵は天蓋鎌の柄を握りしめた。皮膚が摩擦で疼く。周りの声が薄れていく──ではない、むしろ拾いきれない音が増幅して、耳鳴りのように重なる。不快な振動が胸の奥を伝い、彼女は判断の端が揺らぐのを感じた。

「いい、やる」桐生が急に前に出た。彼は手を伸ばし、葵の握る柄に軽く触れた。その瞬間、葵を包む空気の粘度が変わった。桐生の同意。リオが続き、塩井も躊躇いながら手を添える。真琴は最後までその手を伸ばさなかった。

葵はぎりぎりまで踏みとどまろうとした。だが、避難民の顔を見ると、胸の奥が千の針で刺されるように痛んだ。彼女は一瞬、真琴の顔を見た。そこには固い決意と怯え。葵はひとつの選択をした。彼女は鎌を引き上げ、声に出して作戦の輪郭を言葉にした。

「私が前方に展開する。天蓋は避難経路を形作って、一斉に移送する。装甲群の網を潜らせるつもりだ。合意するのは──」

真琴は静かに首を振った。だが他の三人の手は離れない。合意は三分の二。葵は天蓋鎌を前に翳した。言葉を飲み込み、彼女は最後の準備を整える。

その瞬間、銃声が遠くで鳴った。装甲が速度を上げ、網が地面を這い寄る。避難民の一部が動揺してつまずく。数秒の遅れが命取りだ──葵は我慢できず、合意を完全に得ていないことを忘れた。彼女は咄嗟に動作を完了させた。合意の無いまま、天蓋鎌を単独で解放してしまった。

金属的な音が空気を切り、鎌の刃先から薄い膜のような光が広がる。光はすぐに市場を覆い、半透明の天蓋が人々を包んだ。肌触りは冷たく、羽のように柔らかい。しかし、同時に葵の世界はぐらついた。真ん中から左側の視界がぼやけ、耳の右側が鋭く引き裂かれるように痛んだ。匂いは急に遠ざかり、手先の感覚が鈍くなる。彼女の体のどこかが奪われていくのを直感した。

だが、景色は作為のように動き出した。光の天蓋に導かれるように、避難民は浮遊するように決められた経路へと滑っていった。葵は安堵の笑みを浮かべる余裕もなく、破裂音を聞いた。装甲の制御システムが、同じ天蓋のパターンをなぞるかのように動いたのだ。敵の装置が、一瞬にして彼女たちの作戦と「共有」されてしまった。

「何だ……?」桐生が悲鳴に近い声を上げた。端末に映る動きが、葵たちが作った経路と完全に一致している。敵のドローンがその経路を予期して待ち構え、出口に門を下ろした。避難民の列が閉ざされた瞬間、数人が押しつぶされるように倒れた。銃声が近づく。皮膚が熱を感じる。葵は左耳が遠ざかり、世界が半分だけまともにあるように思えた。

「合意がなかった。鎌の共有が、向こうにも――」桐生の声は震えていた。彼も初めて見る現象に言葉を探していた。「鎌の――連動が敵にも掛かった。彼らが我々の意図を同じ形で受け取って動いてる」

真琴が唇を噛んで血の味を感じた。避難民が叫び、リオが天蓋の隙間から数人を引き抜く。塩井は顔を泥だらけにして、泣きそうな声で誰かの名前を呼んでいる。葵の胸は刃物で抉られたように痛む。代償は確かに訪れていた。視界の左端は常に霞み、指の感覚は戻ってこない。

「やり直す」真琴が低く言った。彼の目には以前には無かった冷たさが灯る。葵はその言葉を希望としてではなく、命令として受け取った。

桐生が端末を叩きつけ、制御の干渉を試みた。「相手はこっちのパターンを反転して使ってる。指揮リンクを切っても、物理的に合わせて動いている。だが、もし我々が――全員で、別の‘共有’をして、逆の波形を出せれば、彼らの追随を逆利用してトラップにできるかもしれない」

「今ならまだ間に合う。一回だけ。鎌の本来の力は、仲間と合意した作戦を一度だけ実現する。今度は皆で同意して、相手の鏡像を裏返す」リオが言った。その言葉は、すでに起きてしまった代償を取り消すものではなかったが、これ以上の被害を防げる可能性を含んでいた。

真琴は葵の前に立ち、鎌の柄に手を伸ばした。指先が触れたとき、葵は一瞬何か温かいものが自分に戻ってくる気配を感じた。彼は短く息を吐いてから、ゆっくりと頷いた。「同意する。お前の代償は、俺たちの選択で払わせてもらう」

それは言葉だけの同意ではなかった。真琴は目を閉じ、避難民一人一人の顔を思い浮かべ、自分がこれから何を賭けるかを確かめた。リオと桐生、塩井も次々に同意を示した。四人の掌が柄に重なった。その重なりは強固な意思になり、天蓋に触れた光が鋭く変調した。

天蓋鎌は再び鳴った。前とは違う波形──揺らぎの位相が反転し、半透明の天蓋が一瞬にして裂けるように見えた。装甲群の動きがそこで止まり、互いに擦れ違う指令が衝突して、ドローンの一部が自律を失った。裂け目から作業員が走り出し、倒れていた数人を抜け出させる。避難民たちは自分たちの足で走り、自由な出口を見つけた。

葵は胸の中に大きな穴を感じながらも、誰かが彼女の肩を支えてくれるのを感じた。真琴が優しく肩を抱いた。代償は消