白炎剣の交渉人と偽勇者団 第27話「第二部幕間」
空気はまだ、あの夜の煤の匂いをひいていた。倉庫の明かりは半分壊れ、針金の影が床に斑(まだら)を作っている。風間真白は毛布の上で、包帯の巻かれた手を膝に寄せて座っていた。右手の指先にはまだ感覚が戻らない。触れたはずの布の温度、すぐ傍で流れる湯の重さ、何よりも救いの握りの感触が、そこにないことがくっきりと分かる。指先の世界が穴をあけたように、そこだけが薄い紙の裏の空白みたいだ。
空気はまだ、あの夜の煤の匂いをひいていた。倉庫の明かりは半分壊れ、針金の影が床に斑(まだら)を作っている。風間真白は毛布の上で、包帯の巻かれた手を膝に寄せて座っていた。右手の指先にはまだ感覚が戻らない。触れたはずの布の温度、すぐ傍で流れる湯の重さ、何よりも救いの握りの感触が、そこにないことがくっきりと分かる。指先の世界が穴をあけたように、そこだけが薄い紙の裏の空白みたいだ。
「……動いたか、指先は」
橘凪が、メモ帳を片手に静かに訊ねる。凪の声は、いつもより刃物のように冷えていた。彼女は作戦の設計者であり、同時に真白にとっての合意のゲージでもある。合意がなければ、白炎剣はただの火と金属だと言い続けた凪だが、今夜は言葉の端に疲労がついていた。
真白は首を振る。言葉が喉を滑らなかった。右手を見下ろす。皮膚の上に残る白い瘢の跡が、光を吸って黒く見える。白炎の残像が、時折まぶたの裏に浮かんで滲む。
倉庫の奥から、子どもの泣き声が割り込み、医療区画の薄いカーテンを揺らす。田島茜がバケツを拭い、薬箱を蓋に戻す仕草を止め、茜の手が一瞬空中で止まった。外からは重いブーツの足音が近づいてきた。偽勇者団の外套が、野外照明の暗がりに断片的に見える。
「奴らが来る」高城颯が低く呟く。彼は腕っ節の武闘派だが、目は今日ほど険しく見えたことがない。
皆、立ち上がる。倉庫の扉の隙間から、外の放送が震えて聞こえた。低く整った声。演説とも告知ともつかない機械的な抑揚で、保護の受諾を求める。「当団の保護証を発行された者だけが、今後の救援と移転の対象となります」。言葉の後ろで群衆がざわつく。少し離れた広場に、白炎剣の一振りが焚火のように立っているのが見えた。剣の白い芯は夜空に突き刺さった矢のように輝いて、人々の顔を鉄板みたいに白く塗り替えた。
「保護証だって」斎藤蒼が、指先で額を拭う。蒼は避難区の自治委員をやっている若者だ。「あの子たちを連れていくって、言ってる」
真白の視線は、外の光と自分の右手の間を往復した。昨夜の救出の瞬間、白炎剣に触れたときのことが、肉の奥の記憶として疼いた。合図を出したのは自分だけだった。合意の輪は、そこにはなかった。救いたいという一心で、誰の手も借りずに、剣に触れて、言葉を吐いた。世界が一度だけ、約束の形として鳴った。瓦礫が裂け、子どもが吹き飛ぶようにして倉庫の入口に現れた。助かった。だがその代償は、右手の感覚。指から戻らない温度。以後、彼女は何度も指先を確かめるようになった。
「今回は、録るべきだ」凪が言った。「証拠を残す。記録を持って外部へ出す。でなければ、この場で我々が守れるのは、点でしかない」
「でもあの子が――」茜の声が割れる。彼女の目は潤んでいる。鞄の中で、何か小さな人形がぶつかり合う音がした。
扉が大きく叩かれ、外の声が荒くなった。「保護の時間だ。公認手続きを始める。拒否した者には移転優先権が付与されない」
そして、最悪の知らせが直接入った。蒼の携帯が振動し、画面に短い動画が流れた。撮影した静止画が一瞬で目に入る。広場の端で、偽勇者団の下士官が、抱えられるようにして子どもを連れて行く。母親が叫んでいる。母親の手は縛られていたのかもしれない──画面は揺れ、悲鳴だけが断続的に入る。
真白は足が勝手に動いた。彼女の中に、交渉に裏打ちされた癖が残っている。話し合いで造る隙間の感触を覚えている。だが、今、時間はなかった。外の数秒は、倉庫の中で永遠にも感じられる。
「合意を取ろう」凪が手を差し出した。いつも通りだ。合意は、接触だ。白炎剣を介して行われる合意は、皆で手を重ねて剣に触れることを意味していた。手の温度が伝わり、互いの意思が剣の回路に映る。合図は声でも、合いの手でも、決まった小さな振りだ。
だが集まった手の輪は震え、誰も剛胆にはならない。遠くの広場で、子どもの泣き声が突然途絶えた。画面の中の母親が地面に崩れ落ちる。誰かが足を踏み外したような音がした。
「行くぞ」颯が扉へ走りかける。彼は人を追い、殴り合うことにためらいがない。だが凪が彼を掴んだ。「今は違う。勝負は仕掛け方だ」
真白の胸の奥で、何かが硬くなる。交渉で人を守ってきた。だが交渉が無効化される制度の前では、紙切れが風に飛ぶのと同じだった。保護証という制度が、個々の選択を機械に取り込み、人々の意思を消していく。凪の言う「証拠」は正しい。記録は制度を暴く刃になる。
しかし、その真理と、今目の前で連れ去られる子どもは、釣り合わない。思考が分裂する。救うか、証拠を取るか。二つの線は、同時に走らない。
真白は、倉庫の端に置いてあった白炎剣の鞘を見た。剣はいつもそこにあるわけではない。あの白い芯が地面に刺さっているときの光景が目に浮かぶ。あのときの選択が、指の先を奪った。だが、もしあれを使えば、子どもを取り戻せるかもしれない。誰かの合意を取る時間は、もうない。
「真白」凪の声がまたきつくなる。「一度だけの代価を、軽々しく払うな。代償は君自身だけじゃない。剣は……剣は、合意を外に向ける機能も持っている。つまり、仲間の意思を無視して使えば、その動きは周囲にも及ぶ。いいか、剣は約束を外へ押し出すんだ。皆で決めたことだけを叶えるはずのものが、逆に共同体の外側に干渉を始める」
その説明は、真白の胸に新たな冷たさを置いた。説明が正確であるかどうかは置いておく。凪はいつも、最悪の可能性を先回りして語る。だが今、子どもは――。
「俺が行く」颯が叫ぶ。だが真白は颯の腕を掴んだ。「やめて。まだ分からない。合意を――」
言葉が終わらないうちに、外で大きな衝撃音がした。扉の向こうで、金属の蓋が落ちる音。すぐに続いて、遠くから低い嗚咽のような歓声が聞こえる。真白は顔をしかめる。
「見て」蒼が、窓の隙間から指さす。広場の中央、白炎剣から放たれた光が、一瞬で波紋のように広がり、周囲の掲示板や紙に白い印影を残した。光のあと、そこには小さな印が浮かんでいる。丸い円の中に、小さな針のような刻み。誰かがカメラを寄せると、その印は、制御端の合図のように見える。真白はそれが何かに似ていると感じた。――自分の手の掌に残る瘢の、模様に。
「奴らが……刻印を」茜の声が震える。「保護証に押す印だ。それが、あの剣の影と一致してる」
真白は無意識に白炎剣へ手を伸ばしていた。鞘の冷たさは鉄のようで、そこに残る煌めきはどこか機械的だった。剣の柄に触れた瞬間、彼女の掌に微かな振動が走る。思考の隙間を埋めるかすかな機械音が、耳奥で鳴った。合図だ。いつもと同じ一瞬の合図だ。だが今、触れているのは自分の手だけだ。
真白は、すべてを一気に決めた。合意の声も、他の手も、時間もない。冷たさと救いのどちらをとるのか、身体が先に答えた。彼女は右手を剣の柄に押し当て、目を閉じた。そして小さな、けれど彼女にとっては全ての意味を込めた合図を口にした。いつもの短い呼び名。合意の確認であった音声だが、今は自分だけの呪文になった。
白炎が膨らむ瞬間、空気の粒子が剣の周りで膨らみ、周囲の空間が引っ張られる感触が体内に届いた。瓦礫の匂いが一瞬淡くなり、次の刹那、広場の中央が光の泉の