逆光銃の護衛と凍結政府 第24話「第22章」
腕時計の黒いガラスに、赤い秒針が断続的に光を落とす。凍えた夜気が隙間風のように廊下を走り、金属の匂いと汗の混じった匂いを掻き混ぜた。蒼井凪(あおい・なぎ)は腕を伸ばし、秒針の動きを目で追いながら、背中の鞄にぶら下がった逆光銃の冷たい金属を指先で確かめた。逆光銃は逆向きの銃身の内側に弱い光を抱え、わずかに脈打つように見える。普段は光の向きに従うはずの銃が、ここでは逆方向の光を集めているようだった。
腕時計の黒いガラスに、赤い秒針が断続的に光を落とす。凍えた夜気が隙間風のように廊下を走り、金属の匂いと汗の混じった匂いを掻き混ぜた。蒼井凪(あおい・なぎ)は腕を伸ばし、秒針の動きを目で追いながら、背中の鞄にぶら下がった逆光銃の冷たい金属を指先で確かめた。逆光銃は逆向きの銃身の内側に弱い光を抱え、わずかに脈打つように見える。普段は光の向きに従うはずの銃が、ここでは逆方向の光を集めているようだった。
「時間がない」
ミコトが低く言った。背負っている毛布をきつく抱え、顔を壁際に隠すようにしている。彼女の息が白く揺れた。廊下の先、出口に向かう群衆の動線が乱れ、金属の靴音と群衆のざわめきが混ざる。外は封鎖ラインが張られているはずだ。非常措置の指示が空を走り、移動は許可制になった。だが今、この中で誰かを置いていくことはできない。
「翔太はどこだ」
凪の声は平静を装っていたが、細さが残る。橘翔太(たちばな・しょうた)が最後尾で足を引き止めてくれた。壁に背中を押しつけ、両手で簡易バリケードを作り、パイプの隙間から監視のライトを睨んでいた。だが彼の左肩に血が滲んでいるのを見逃さなかった。包帯は簡易のもので、震えが止まらない。
「行け、凪。行けって言ってるだろ」
翔太は顔を上げ、無理に笑った。声は掠れていた。彼の視線は群衆の安全を優先する方向に固定されている。誰かが彼に向けている敬意か、潔さがそこにあった。
「行かない。あんたを置いていけるほど、私たちは余裕がない」
ミコトは爪先で床を蹴るようにして喰い下がる。だが群衆の一人が口を挟んだ。
「ここで足止めは死を意味する。複数が確保されれば全員が危ない。翔太さんが時間を稼いでくれてるんだ、行け!」
「それでも――」
凪は自分の手の中の銃を見た。逆光銃は単なる道具ではない。彼女が最後に頼れる数少ない切り札であり、同時に破滅の種でもあった。銃は「計画を媒介にして共有された作戦だけを一度だけ実現する」能力を持つ。仲間全員が同意した一つの計画を、銃が物理に実現する。だが条件がある。単独で発火すれば、使用者は感覚の一部を失う。さらに、仲間の合意を無視して作動させれば、能力は敵にも作用し、相手の行動を強制してしまう――相手の選択を奪うのだ。
その言葉を考える間もなく、廊下の先で金属が激しくぶつかる音がした。鋭い動き。巡視の影が巡り、白い防護服の縁が廊下の明かりをかき消した。翔太は声を上げ、バリケードの影から飛び出した。咄嗟に監視が反応し、電気ショックのような光が翔太の胸を貫いた。
「翔太!」
凪の手が今までよりも早く動こうとした。鞄を外し、逆光銃を構えた。感覚がいつもより研ぎ澄まされ、銃身の震えが手のひらに伝わる。足が前に出る。計画は勝手に形を取ろうとしていた。――ここで撃てば、救出のための奇襲を「一度だけ」発動できる。群れを裂く軌道とタイミングが脳裏に瞬時に浮かぶ。だが――。
「やめろ!」
ミコトの声が頭をかすめた。彼女は凪の手首を掴み、逆光銃の銃身を下に引き寄せた。隣で別の仲間、トオルがバランスを崩し、床に手をついた。蒼白な顔。みんなの目が凪を見ていた。そこには、使ってほしいという切望と、絶対に使ってほしくないという恐怖が混在している。
「救えるなら――!」
ミコトの目に涙が浮かんだ。「翔太を今すぐ救うことがあなたにできる一番簡単なことだってわかってる。でも、逆光銃は一回限りだ。しかも、合意のない発動は――あいつらにまで『選択』を強いることになる。私たちは同じことをしてはいけない」
凪の指が引き金の近くで一瞬震えた。使用すれば、翔太は間違いなく助かるかもしれない。だが、敵に「行動の強制」を与えてしまう代わりに、敵から何を奪うことになるのか。凪の胸の奥に、かつて守護した現場で見た冷たい光景がよみがえった。自由と選択が奪われた顔。凪は、あの光景をもう二度と自分の手で再現してはならないと、固く思い出した。
「使うなと、言ってるんだ」
凪は低く唇を噛んだ。逆光銃をゆっくりと背に戻す。指先に流れる金属の冷たさが、まるで別れの痛みを伝えてくる。彼女は自分を刺すような後悔の予感を一度受け入れ、そこから立ち上がった。
「翔太を助けたい。私も助けたい。だけど、あのやり方は違う。あいつらに『選択』を奪われることを正当化したくない」
「でも、どうするんだよ! ここで時間を稼いでる人間を見捨てるのか!」トオルが食い下がる。怒りと恐怖が混ざって、声が高くなる。
廊下の外、監視の声が増えた。ドローンが低いホーミング音を立てて空気を振るわせる。赤いライトが一列に灯り、封鎖の輪郭をはっきりさせていく。時間は減る。
その時、ミコトが喉を鳴らして黙り、次に決意のような表情を作った。「じゃあ、自分たちで選ぼう。凪が決めるんじゃない。翔太のことを、私たち自身の意思で決める」
一瞬、皆が凪を見た。凪の胸の中で、小さな温度の変化が起こる。これが彼女が守りたかったものだ――盾で守るだけではなく、守る側に選ばせること。だが選ぶということは同時に、誰かが自分で手を挙げるということでもある。
「私が行く」
ミコトの声は静かだったが、そこに揺るぎはなかった。彼女は布の包みを肩から外し、深く息を吸った。「自分で選んだ。これは私の判断だ。誰かに命令されたわけじゃない。凪、止めないで」
次々と手が挙がった。トオルは無言で頷き、幼馴染のカナは目を擦ってから「私も」と言った。三人の輪が自然にできる。誰かが強制したわけではない。そこには恐怖も躊躇もあるが、最後はそれぞれの意志であった。
凪はその光景を見て、逆光銃を完全に背に押しやった。銃の冷たさは消えず、重さだけが残る。彼女は手を伸ばし、ミコトの肩に触れた。固い手触りが伝わってきて、凪の目が熱くなる。
「気をつけて。無理はするな。合意がないときは、絶対に使うな」
「わかってる」ミコトはうなずく。彼女の唇が小さく震えたが、それは恐れを抑えるためのものだと凪はわかった。
出発の前、短い打ち合わせが行われた。建物の構造、巡視のパターン、光の死角。トオルが小声で指示を出し、カナが簡単な地図を指でなぞる。凪は隊列の前に立ち、最後に一つだけ言った。
「これは、救助チームの選択だ。私は背中を守る。けれど、その計画を逆光銃で『実現』するかどうかは、君たち自身で決めてほしい。合意が必要だから。私が決めることじゃない。命令じゃなくて、選択をして」
ミコトが短く息を吐く。「了解。私たちの意思で動くよ」
その合意の言葉は、逆光銃にとって最も重要な儀式だった。銃は仲間の共感でしか真に動かない。誰かが強制して作動させるのなら、それはただの機械の悪用に成り下がる。凪はそれを許せなかった。
出発の瞬間、彼女は腕時計のガラスをもう一度見た。秒針が着実に進んでいる。ミコトたちは細い影となって、非常口から外へと消えていった。街灯のオレンジが背中を照らし、三つのシルエットがゆっくりと夜に溶ける。足音は薄れ、ホーミング音が遠ざかる。だが凪の心拍は早いままだった。
「行ってらっしゃい」
それだけを言って、彼女は背中の鞄を締め直した。銃は静かに脈打ち