砂鉄翼の探索者と群体王 第10話「第9章」
鉄扉の継ぎ目から吹き込む風が、細かい砂を鼻先に押し当てた。灯の少ない記録室には、紙と油と古い金属の匂いが混ざっている。アオイは掌に乗せた小瓶をそっと握りしめ、指先で砂鉄の粒を数えていた。月明かりを受けて微かに赤く光るその粒は──彼らが「砂鉄翼」と呼ぶものの一部だ。冷たく、どうしようもなく重い。
鉄扉の継ぎ目から吹き込む風が、細かい砂を鼻先に押し当てた。灯の少ない記録室には、紙と油と古い金属の匂いが混ざっている。アオイは掌に乗せた小瓶をそっと握りしめ、指先で砂鉄の粒を数えていた。月明かりを受けて微かに赤く光るその粒は──彼らが「砂鉄翼」と呼ぶものの一部だ。冷たく、どうしようもなく重い。
「はやく。時間がない」ミナが壁の影から小声で言った。彼女の目はコンソールのランプに吸い寄せられている。カズマは古い机を引きずってバリケードを作りつつ、耳を澄ませた。サイラは救急袋を押さえ、ノアは入り口を見張る。エレンは向こう側のキャビネットにかじりつくようにして、そこにある書類をめくっていた。
「見つけた」エレンの声が低く震えた。彼が差す指先に、薄汚れた帳簿がある。封筒には公式の印章。登録──レジストル。アオイの胸がぎゅっと縮んだ。あれがあれば、支配の仕組みがどこまで及んでいるか、誰がその上にいるか、少しは分かる。
エレンが封を切る。ページをめくるたび、インクの匂いと紙の擦れる音が薄く響いた。名簿。住所、所属、優先度。「群体再編予定」。数字と印。人の名前。ページをめくる手が震える。
「ここに、ウチのロッジの名前がある」ノアが呟く。彼の指が震えていた。「しかも……優先度が高い」
「このエリア全部がリストに入ってる」ミナがさらに読み進める。「再編日は四十八時間後。中央塔の『集約』に組み込まれる予定だって書いてある」
「四十八時間……」サイラの息が白く薄れる。「そんな余裕はない」
「そして」エレンが顔を上げる。「この登録は単なる搬送指示じゃない。登録した住民の意思を一律に同調させるための『契約コード』が付帯してる。仕組みは塔の触媒回路で一斉に配布される。つまり──塔が動けば、選択肢そのものが変えられる」
アオイは小瓶を更に強く握った。液面が揺れて、中の砂鉄が窮屈にぶつかり合う。彼女の能力は、砂鉄翼を媒介にして、仲間と「共有」した作戦だけを一度だけ実現することができる。その「共有」──同意と宣言、そして互いの手の内を晒すこと──がある限り、彼女は一つの奇跡のような動きを編み出せる。だが代償は苛烈だ。単独で使えば、感覚の一部が確実に奪われる。以前、自分で試して知っている──聴力を一部失ったあの痛みを、彼女は今でも覚えている。
「我々が使えば、塔の同期を阻害して、巻き込まれる人々の意思を解き放てるかもしれない」ミナが続ける。「だが、同時にそれは──大量の合意を必要とする。ここに書いてある通り、塔は数百の回路で市民側の「承諾」を検証する。少数で無理やり押し込めば、逆にその力は周囲へも波及する。規定通りの『共有』でなければ、影響は制御不能になる」
カズマが唇を噛む。「制御不能って……具体的には?」
アオイは小瓶を瓶足で押し、砂を一粒つまみあげてみせた。月光に透けて、銀の粒が小さな星のように光る。
「僕が独りでやって、避難民を一斉に飛ばした時、左耳が聞こえなくなった」アオイの声は静かだが、みんなの首が一斉に動いた。彼女は声を低くする。「空間の共有を一方的に押しつけると、身体の感覚が反動で代わりに奪われる。視覚、触覚、聴覚……どれがいくかは、その時の状況で変わる。運が良ければ微かな違和感だけで済むかもしれない。運が悪ければ、人の一部が戻ってこない」
サイラの顔が青ざめた。「それって、人質を取るみたいなものじゃない」
「そうだ」ミナが頷く。「だから強制はできない。仲間の合意を無視して使えば、能力は意図しない相手にも作用する。敵側にも及ぶ。奴らがそれを利用して、他者の意思を奪うために使えば、我々は同じことをしてしまうことになる」
アオイは壁に背を寄せ、小瓶を胸元に抱えた。彼女の左耳に、かすかな静けさが残る。以前の代償は、彼女にとって戒めであり、証だった。
「──でも、待っている時間はない」ノアが割り込む。若い声には必死さが混じる。「登録されている人たちが、今夜にも塔へ連れて行かれるかもしれないんだ。四十八時間なんて悠長だ。使えるなら、今だって使うべきだ!」
「誰と共有する?」カズマが問い返す。「今ここにいる少数で? それとも、登録された全員の合意を取ってから?」
ミナが机の上に一枚のトレイを置いた。透明の小箱──彼女が取り出したのは、昔の投票箱の残骸だった。蓋には細い穴。箱の中には既に少数の砂鉄が並んでいる。ミナの目が静かに燃えた。
「選択は──コミュニティで」彼女は言った。「我々だけで決めるべきではない。彼ら自身が何を望むかを示す必要がある。だから、投票を取る。砂を一粒ずつ、同意の証として落としてもらう。透明な箱に。誰にも見えない多数の手が、一つの決断に向かうのか、それとも分裂するのかを、私たちは確認する」
アオイはその箱をじっと見つめた。砂鉄が一粒、音も無く細い口から落ちる。澄んだ金属音が部屋に響いた。時間がスローモーションのように伸びる。砂の粒が箱の底に当たるたび、誰かの息が止まり、また始まる。
「我々のルールを守るかどうかだ」カズマが言う。「この箱に入った砂が、その人の合意。合意のないままに私が能力を行使したら、また代償を負う。だが、もし箱の砂が足りないなら──どうする? 待っている間に、あの塔が動くかもしれない」
エレンは帳簿を掌に乗せて、ページを指でなぞった。「さらに厄介なことが書いてある」彼は小声で続けた。「特定の名前が'優先転送'にマークされている。優先転送は対象が『触媒的価値』を持つと認定された場合に適用される。つまり──」
その続きを誰も言わなかった。薄暗がりで、彼らの影だけが帳簿の上に落ちる。アオイは指先で砂鉄を二つ摘んで、箱の上にそっと掲げた。
「私の名は?」ノアが恐る恐る言った。
エレンがページをめくる。指の腹が震える。空気が重くなる。最後のページに、コンピュータのプリントアウトが挟まっていた。そこに赤いインクでしるされた行が、冷たく彼らの目を捕えた。
「ここ……」エレンの声がかすれた。「アオイ・ハルキ──優先転送、対象に指定。部隊配属:中央塔。予定時刻:三十六時間後」
アオイの小瓶が手の中でカタリと鳴った。砂鉄がまた一粒、瓶の縁に当たる。左耳の奥で、遠い波が砕けるような感覚が蘇る。胸の鼓動が耳の代わりに、世界の音を作り出す。
「三十六時間……」ミナが唇を噛む。「登録日が早まってる。誰かが予定を繰り上げたか、追加の移送が組まれたか。いずれにせよ、あの塔の起動は目前だ」
時間はなかった。だが同時に、アオイが自分一人の判断で砂鉄翼を使えば、彼女はまた何かを失う。すでに失ったものがあるというのに、さらに誰かを守るために自らの一部を差し出すのか。しかも、その使用が仲間の合意を欠けば、能力は敵にも作用し、無関係な人間の選択をも奪うかもしれない。
ミナはゆっくりと投票箱の蓋を閉めた。「判断はすぐに必要だ。だが、我々のやるべきことは一つだ──誰にも押しつけられた意思を与えないこと。だから、まずは住民の意思を集める。時間を稼ぎつつ、同意を増やす。だが──」彼女はアオイを見据えた。「アオイ、あなたの件は別だ。もし三十六時間以内に何か手が打てないなら、君を