風圧靴の演算士と発火侯爵 第24話「第22章」
金属の匂いと、焼けた絶縁体が吐く乾いた熱が、塔の芯室を満たしていた。床板は冷えた鋼と、ところどころ膨らんで亀裂の入った電線の被覆が露出した灰色のモザイクだ。天井のファンは止まり、代わりに低い振動が空気を揺らしている。光は不安定で、基盤の列が断続的に点滅するたびに、影が網の目のように壁を走った。
金属の匂いと、焼けた絶縁体が吐く乾いた熱が、塔の芯室を満たしていた。床板は冷えた鋼と、ところどころ膨らんで亀裂の入った電線の被覆が露出した灰色のモザイクだ。天井のファンは止まり、代わりに低い振動が空気を揺らしている。光は不安定で、基盤の列が断続的に点滅するたびに、影が網の目のように壁を走った。
「ここだ。コアはこの下層にある」マルコがいう。彼の声はいつもより荒く、階段を二段飛ばしで下りてきたせいで肩が揺れる。革のブーツの縫い目からはまだ煤が舞い、風圧靴の外殻が微かに唸りを漏らす。レイナは手元の照明を絞り、端末を向けて回路図を読み上げる。シンはコアの周囲に張り巡らされた結晶導体を指差し、眉を寄せる。
コアは思ったよりも小さかった。直径一メートルにも満たない金属の円盤、その中心から螺旋状に伸びた導線が網のように絡み合っている。導線の結節ごとに、半透明のホログラムが浮かび上がる。ホログラムは「同意」を図式化したように見える。輪が重なり、矢印が流れ、ある時点でひとつに収束する様が映っている。
ユラはその図を見た瞬間、胃の奥が冷たくなった。見覚えのあるサブルーチンの名前が、ホログラムの縁に薄く刻まれている。小さな英字列──「合一断続(Concordia-Σ)」。それは彼女が、前世と呼ぶべき時に書いた演算法の断片だった。彼女の指先に、過去の作業室の寒い蛍光灯、指の腱を鳴らしながらキーボードを叩いた感触が薄く浮かぶ。だがここでは人の選択を奪って強制するために組み替えられている。
「これ、私が──」ユラは言葉を飲み込む。手のひらが汗で濡れていた。照明が一瞬明滅し、彼女の指先の汗が光る。
エルが素早く端末を差し出し、コアの小さな開口部を指でなぞる。そこには古い汚れた端子と、いくつかの操作パネルが埋め込まれている。モジュールは生体同意のトークンを期待しているように見える。シンが低く唸る。
「外部からの強制的合意、だな。文字通り、入力を受けて第三者に同意を成立させる」シンの声は平静を装っているが、その目は鈍く輝いた。「問題は、どうやってそれを止めるかだ。外部に信号を投げれば、逆に周囲の人間を強制的に“同意”へ導く。連中のやり方だ」
ユラは膝に手をつき、風圧靴のストラップに触れた。靴底が微かに振動する。自分の能力はここで役に立つ。だが決まりごとがある──風圧靴を媒介にして実現できるのは、仲間と共有した作戦だけ。一度だけ。単独で起動すると、身体の感覚の一部を代償として喪失する。仲間の合意を無視すると、その作用は敵にも拡散する。ユラはそれをよく覚えている。あの痛みも、あの眩暈も。
「修正すれば止められるかもしれない」ユラは静かに言った。「合一断続の出力ゲートにチェックポイントを噛ませて、任意の“外部入力”を差し替える。強制的な同意を発生させる代わりに、選択のためのインターフェイスを提示する。人々が手を挙げない限り、何も成立しないようにする──」
「──それは理想だ」レイナが小さく息をついた。「でも、どうやってそのチェックをコアに認証させる?彼らのシステムは外部署名を拒絶するように組まれている。トークンがなければ、コアは勝手に“同意”を生成し始める」
ユラは端末を取り、コアの側面にそっと当てた。ホログラムの輪の一つが、彼女の接触に反応して淡く脈打つ。内部で何かが震え、光の筋が矢のように跳ねた。ひとつの可能性が浮かんだ。風圧靴の作戦実行は「合意」そのものを入力として取り込める。もし自分たちの合意を“正しい”署名としてコアに渡せれば、コアの出力ロジックを書き換えられるはずだ。だが、それは一回限りの鍵を使うことを意味する。使えば、その一回で何かを得、何かを失うだろう。
「私が一度――テストできる」ユラがつぶやいた。言葉にした瞬間、マルコが一歩前に出る。
「待て。無理するな。ユラが単独でやると感覚を失うんだろ。ここで彼女を失うわけにはいかない」マルコの手が固く握られる。彼の拳は指先の白さを露わにしていた。
「でも時間がない。もしこの核が暴走すれば、塔中に同意の波が広がる。避難民たちが勝手に“受け入れた”ことにされれば、侯爵の軍が介入する口実になる」レイナの目に焦りが走る。
ユラは頭を振った。「それは分かってる。だから単独は絶対に避けたい。私の能力は、味方と共有した作戦だけを信号化できる。皆が同意するなら、安全にコアを鎮められるはずだ。だが──」彼女は言葉を切った。心の奥に小さな恐怖が渦巻く。それは彼女の過去に絡むものだった。
「何が?」シンが訊ねる。
ユラはコアの側面にあった小さな溝をなぞり、そこに刻まれた文字を指でなぞった。自分の姓名符、あるいは識別子──彼女が知らぬ間に刻み込まれていた演算法の作者IDと一致する番号列。コアは彼女の手の動きを読み取り、反応している。目に見えぬ配線が彼女とコアを結びつけているようだった。
「このコア──私の書いた断片を認識している」ユラの声が震える。「もし私の署名で書き換えを行えば、コアは私に“補正”の依頼をする。だけど、その補正は私の演算履歴を参照することで完成する。つまり、私自身の記憶や作業ログを吸い込む可能性がある。ここにある欠損部分を埋めるために、私の過去を利用する──」
沈黙が落ちる。エルの指が震え、端末の表示が微かに歪む。マルコが荒い息を漏らす。
「記憶を吸われるって、どれくらい?」レイナが訊く。
ユラは答えられなかった。彼女の胸に、見えない裂け目がぱちぱちと音を立てるようだった。記憶を失う──前世の痛みや、失った人たちの顔、避難民たちの泣き声、仲間と交わした言葉。それは彼女が守ろうとしている世界の一部でもあった。
「いやだ」──ユラの脳裏に、過去の断片が刺さる。終末の現場で、白いライトに浮かぶ自分の手。誰かの指を掴んだ瞬間、世界が急に遠ざかる感覚。失った音、色、温度。記憶の消耗は、彼女の能力の代償でもあった。だが今回、代償は彼女個人の身体性にとどまらないかもしれない。もしコアが一部の彼女の演算法を取り込み、それを再配布すれば、外部に歪められた「同意」の仕組みがさらに強化される危険がある。
「だからこそ、全員の合意でやるべきだ」シンが言う。「俺たちの合意を“署名”にすれば、コアは我々の意図に従って動かざるを得ない。だがここで問題がひとつある。風圧靴の作戦実行は一度きりだ。代替案がない」
マルコの視線がユラに集中する。彼の顔には、守りたいものを守ると決めた顔がある。「なら俺は出るぞ。無理してユラが一人で抱え込む必要はない。俺たちが順に合意を出して、最後にお前が……いや、交代でやるんだ」
レイナがすばやく口を滑らせる。「順にって、二度と戻せないんだよ。風圧靴は作戦を“実現”する。順番にすると、その一回の実行でしか書き換えられない」
ユラは視線を落とす。足元の風圧靴が、微かなハム音を立てる。彼女にはわかっていた。もしコアに自分の署名が求められるなら、他の誰が合意しても、コアは自分の演算法の欠損部を埋めるためにユラの記憶を参照するだろう。つまり、仲間が犠牲になっても、彼女の過去は取られる可能性が高い。
「選べるのは私だけなんだろうか……