深海槍の修理師と天井評議会

深海槍の修理師と天井評議会 第27話「第二部幕間」

工房の空気は、いつもより湿っていた。外では潮の匂いが強く、風が古い鉄板屋根を叩いている。レンは作業台に肘をつき、深海槍の先端を覗き込んだ。槍の金属皮膜は青い微光を帯び、指先に伝わる振動が自分の心拍とずれるたびに小さな違和感が胸に刺さる。

工房の空気は、いつもより湿っていた。外では潮の匂いが強く、風が古い鉄板屋根を叩いている。レンは作業台に肘をつき、深海槍の先端を覗き込んだ。槍の金属皮膜は青い微光を帯び、指先に伝わる振動が自分の心拍とずれるたびに小さな違和感が胸に刺さる。

「動くか?」とユラが戸口で訊いた。手には半分分解した水圧モーターが載った箱を抱えている。顔は不眠でやつれていたが、目はいつもの冷静さを失っていなかった。

レンは黙って槍の側面を撫でる。触覚が今もところどころ欠けているのを確かめた。数日前に使ったとき、聴覚を喪った痕がまだ耳鳴りとなって残っている。あの日の代償は、身体だけでなく時間の断片をも削っていった。思い出のひとつが抜け落ちて、そこに風穴が開いているような気分になる。

「完全修理には中枢共振器が必要だ。表面は溶接できても、コアの位相整合が崩れたら——」ユラが言葉を切る。彼女は工具箱を机に放り投げ、レンの目を見る。「君ひとりで試すのは無茶だよ。合意がないと、あの槍はどちらにも作用してしまう。前回だって……」

言いかけてユラは顎を引いた。レンはその語気の先にある罪悪を知っていた。前回、完全な合意を得られないまま、彼は小さな時間遅延を作った。結果として、拘束される筈だった住民の一部は助かったが、同時に査察側にも影響が及び、防護装備の一部が誤作動して犠牲者を生んだ。レンはその映像を昼も夜も見続け、耳鳴りの中で誰かの叫びを繰り返し聞いている。

「今日は住民の代表が来るって連絡があった」カイが独特の低い声で入ってきた。彼は背中に資材袋を背負い、微かに汗ばんでいる。「だが査察の再配置命令が早まったらしい。次の巡回は明日の午前だが、予備隊が先に来ているかもしれん。撤収の準備はしておけと──」

レンは槍を台に寝かせ、内側のガラス円盤に触れた。そこには、微細な網目状の亀裂が走っている。手に残る触覚の微妙な差が、亀裂の奥に何かが蠢くのを伝えてくる。ユラの言った「合意」は、ただ声を合わせるだけではなかった。仲間が同じ契機で同じ意思を持ち、時間の一点に集中する必要がある。槍はその同調を「媒体」として物理化する。だが媒体が傷つけば、反応は予測を離れる。

ガラス戸の向こうに小さな影が現れた。足音が軒下に落ちる。マリエだ。自治会長の顔は青白く、手には幼い子どもの手を引いている。子の目は大きく、鉄塔のシルエットを恐れてか震えていた。

「レンさん、お願いがあります」マリエは息を整えずに言った。「住民の一部が自力で逃げられない。補助物資も切れかけている。あなたの力で、少しでも……」

レンは返事を仕方なくうなずく。合意を取るためにマリエが集めた小さな輪が外の通路にできつつある。だが声はばらばらで、あちこちで意見が交錯していた。ある者は「逃げるべきだ」と叫び、ある者は「評議会の命令に従うべき」と訴える。合意は一つに収束しない。

「ここで決めないと、明日の午前に来る彼らがもっと厳しくなる。先遣隊が今いる可能性もある」マリエは子どもの髪を撫でる。指先が触れるたびに、その小さな体温がレンの胸を締め付ける。

レンの思考は、前世の工具箱と現場の喧騒を交互に映し出す。彼は深海槍を使うべきではないことを知っている。だが、目の前の子の顔という一点が、彼を引き戻す。合意が得られないなら──彼は微かに舌打ちした。そして、やってしまうことを選んだ。

「ユラ、カイ、短時間でいい。外の通路を遅延させる。拘束される者が出る前に数秒間の裂きを作る。私は槍を使う」レンの声は冷たかった。二人とも彼の決断を止められない。ユラの手が僅かに震えたが、口は閉じた。カイは無言で頷くだけだった。

合意は完全ではない。だが、代表達に「はい」と三人の声が届いた。レンは深海槍の柄を握る。冷たさが掌に落ち、指先が麻痺するような感覚が走った。ユラが外からカバーを始める。カイは工房の窓を開け、外へと視線を投げた。

レンは合図を出す代わりに、自分の意志を槍に注いだ。計画は単純だ。三秒の遅延を作り、屋外の歩調を緩め、出入り口に集まる者たちに逃げる猶予を与える。合意は不完全だが、レンは微妙な妥協を自らの判断で埋めようとした。

槍は脈動した。青い光が一瞬、工房の壁に波紋のように広がる。レンは身体の中心から冷たい刃が通るのを感じた。だが次の瞬間、世界がずれた。音が引き剥がされ、潮騒が分厚い布に包まれるように消えた。窓外の足音が遅く伸び、影が引き伸ばされる。

その効果は両側に及んだ。外の巡回隊が重力を引き伸ばされたかのように動作が鈍り、住民も同じ遅延に囚われた。誰もが数秒間、引き延ばされた時間の中にある。だがそこで起きたことは、レンの意図とはずれていた。先に遅延に巻き込まれた住民の中に、心臓の弱い老人がいた。引き伸ばされた生理に耐えきれず、彼の胸は痛みに悲鳴を上げた。巡回隊の装備の一部は誤作動を起こし、かえって混乱を生んだ。

レンは自分の手の感覚が薄れていくのを感じた。工具を握る右手の指先が、ふわりと遠くなる。そこにあったはずの粗い皮膚の感触が消え、レンは手を見ても自分の指先がどこにあるのか確かめられなかった。痛みが走る。耳鳴りは叫びに変わり、記憶の一角が欠け落ちる。

「レン!」ユラの声が割れた。彼女は必死で外の人々を引き寄せ、窓際で手を伸ばすが、遅延の場は時間の針を捻じ曲げ、触れ合いが届かない。カイは怒鳴っていたが、その声も千切れて宙に浮く。

効果が消えた瞬間、工房に激しい静寂が戻る。床には老人が倒れ、数人の呼吸が荒くなっている。巡回隊は数秒遅れて行動を再開し、手際よく老人を介抱する者もいれば、記録端末を取り出してデータを吸い上げる者もいた。マリエは子を抱き寄せ、震えながら喉を押さえている。

レンは右手の掌の欠落した感覚を確かめる。触っているはずの槍の柄が、冷たく光を返すだけで、細かな目の感触が無かった。もっと恐ろしいのは、確かにあったはずの父の顔の輪郭が、穴のように抜け落ちていることに気づいた瞬間だった。記憶の中のあの皺の入り方、声の調子、手の匂い——幾つかが風に乗って消えた。

「レン、しっかりして」ユラが額を合わせる。彼女の手は濡れていて、触れられると温かい。だがレンはその温かさをどう形容していいのか言葉が出なかった。

工房の隅に、巡回隊の一員が落としたと思われる小さな端末が転がっていた。金属の冷たいケースには天井評議会の紋章が刻まれている。レンはそっとそれを拾い上げ、画面に映し出された波形に目を奪われた。槍の脈動と、不思議な符号で重なっている。規則的だが人工的な共振。

マリエが息を整え、名指しで言った。「あの端末、何か記録しているようです。彼らが去る前に——」

ユラがそれを遮る。「待て。これを持ち帰って解析する。今はもう動けない人がいる。状況を見て、私たちは——」

カイは工房の入口に立ち、外を見張った。巡回隊は戻って行く。だがその背後に、半ば陽炎のように浮かぶ機影があった。遠くの誰かが、彼らの行き先を不安そうに見送る。

レンは端末の画面の反射に、自分の目がそこに映らないのに気づいた。何かが、彼の視界の一部を奪っている。記憶の欠片と同じように、視界の左端が