深海槍の修理師と天井評議会 第22話「第20章」
波間に浮かぶ黒い影が、ゆっくりと水を割った。低い汽笛のような音が、遠くから届く。だがそれは風ではなく、金属が振動している音だとレンはわかった。艦のプロペラが海を掻き、ライトが水面を引き裂く。水塔区の外周を囲むように、数列の艦影が並んでいる——天井評議会の封印チームと強襲部隊だ。
波間に浮かぶ黒い影が、ゆっくりと水を割った。低い汽笛のような音が、遠くから届く。だがそれは風ではなく、金属が振動している音だとレンはわかった。艦のプロペラが海を掻き、ライトが水面を引き裂く。水塔区の外周を囲むように、数列の艦影が並んでいる——天井評議会の封印チームと強襲部隊だ。
「来るわ。五隻、中央に装甲母船。封印器の投下装置を積んでる」
ユラの声は端末越しに澄んでいた。指先が小刻みに震え、光の軸が揺れるのが見える。彼女のスクリーンには船影の配置図と、先ほど麻痺させた装置の残響が赤く点滅していた。ユラは小さく息を吐き、コードを打ち続ける。
屋根の縁に座るカイは、肩に掛けたジャマーのアンテナを手で押さえていた。金属の冷たさが掌に伝わり、夜気の塩の匂いが混ざる。カイは歯を噛みしめて、海の向こうを見つめる。彼の瞳は暗闇でわずかに光った。レンはその顔を見上げて、言葉を選んだ。
「確認する。今、俺が深海槍を使うための条件を言う。共有された作戦だけを一度だけ実現する。合意は全員だ。住民も含めるかどうかは別として、ここにいる仲間全員の承認が必要だ。もし俺が単独で行えば、反動で感覚の一部を失う。合意を無視すれば、その作用は敵にも及ぶ——いや、むしろ敵へ向く」
レンの手には、黒い布に包まれた棒があった。布の端から、青い海光のようなものが透けている。それはただの鉄ではない。彼が前世で扱った修理用具とも異なる、重みにも似た「意志」が伝わってきた。修理師として生きた日々の勘が、それをただの道具ではなく「回答器」として認識している。
「また一度きりだ。消耗も大きい」
ユラは無言で頷いた。彼女の目はモニターの明かりに映り、真剣そのものだ。カイは少しだけ顔をしかめた。
「それで、どうするつもりだ? 船を止めるか、装置を無効化するのか」
カイの声は低かった。彼は実利を求める男だ。感傷より結果を優先する。だがそれでもカイは、ここにいる全員の犠牲と被害を計算していた。ライトを掲げた住民の列が、下の広場に静かに並んでいるのが見えた。子供の肩車をした母親の影、老人の白い頭巾、背の高い青年。皆が揺れる灯りを握りしめている。
「住民を守る。船の前方に展開する装置の展開軌道を断ち切る。可能ならば、封印器を投下させないために母船の推進系を乱す」
レンは言葉を吐きながら深海槍を抱え込む。彼の心の中で、修理の図が浮かぶ。接点を外す、コネクタを切り替える、そこにあるのは戦術的な「修復」とも言える設計だった。ユラは指でスクリーンに描き、カイは口の端で冷静に計算を返す。
「俺は賛成する」
ユラが先に言った。音が小さくて、しかし確かだった。レンは胸の奥に軽く温度が走るのを感じた。ユラはいつも理詰めだが、今は仲間を守るために即決した。
カイは黙ったまま、やがてゆっくりと首を振った。「状況次第だ。子供たちの列が前にいる。もし槍の効果が拡散するなら、あの灯りすら巻き込む。俺は認めない」
その言葉は、夜の空気を裂いた。集まっていた数人の仲間たちの期待が、一瞬で凝縮される。住民の列から小さなざわめきが上がった。レンはカイの顔を見る。怒りでも悲しみでもない、カイの瞳には硬い決意があった——「人を巻き込むわけにはいかない」。
「カイ…」ユラの声が震えた。
「これが最後の一回だって、分かってる」レンは言った。手のひらで深海槍の布を強く握ると、布から伝わる微かな振動が指先を痺れさせた。「もし誰も合意しないなら、俺は——」
「単独で使うのか?」カイが遮った。言葉の端に、拒絶と恐れが混ざる。「単独でやれば、感覚を失う。――でもその先に、何が残る? 君が見えなくなっても、聞こえなくなっても、それで住民が助かるなら、それを選ぶのか?」
レンは目を閉じた。過去の記憶が、修理の現場の油と汗の匂いとともに収縮してよみがえる。彼は知っている。単独で槍を引けば、捻じ切られるような衝撃が身体を貫く。音が粒になって消え、色がぼやけ、手の感覚が遠のく。修理師としての誇りは、それでも可能性を見逃さなかった。だが彼は一人ではない——という理性と、即座に行動しなければ人が死ぬという衝動の狭間が、胸を引き裂く。
海の向こうで、艦のスピーカーが高圧的な声を流し始めた。「水塔区住民に告ぐ。これより一時的な拘束措置を実施する。秩序に従え。抵抗は違法行為と認定される」鉄の抑揚が、波間に落ちていく。
その時だった。灯りを掲げた群衆の中から、一人の老人がゆっくりと前へ出た。顔は深く刻まれ、指は震えている。それでも老人の目は驚くほどはっきりしていた。彼はレンを見上げ、そして口を開いた。
「若いの、私たちはもう選ぶ時を待てない。もし君が行くと言うなら、私たちは同意する。だが一つだけ——君はその代償を一人で背負うな」
その声は小さく、しかし波紋のように広がった。周囲から、ぽつぽつと同意の声が上がる。レンは驚いて顔を上げる。ユラの指が震え、カイの顔が変わる。カイは上唇を噛んで、目を閉じた。彼はまだ反対するつもりだったのだろう。しかし住民の意思が、空気を変えた。
「みんなが同意するのか?」レンは訊いた。条件はここだ。共有された作戦——言葉を出し合い、意思を交差させること。全員の合意が必要なのだ——だが「全員」とは誰を指すのか。彼らの住民全員を指すのか、それともコアチームだけか。老人は笑って首を振った。
「ここにいる者のうち、反対する者はもういない。私たちは外にいる者たちと話をつける。だが、君は私の耳元で約束してくれ。私たちを救った先に、私たちの意志を奪わないと」
レンは喉の奥が熱くなるのを感じた。彼は約束した。深海槍が許すならば、住民に選ばせる仕組みを、救った後に残すと。
その瞬間、海面に光の柱が上がった。レンはとっさに槍の布を剥がし、柄を握った。金属と海光が触れたとき、遠い修理場での作業音のようなハーモニーが体内で鳴る。彼は息を吸って、深く、そして鋭く海に向けて力を込めた。
槍が一回、大きく震えた。水が軋むように音を立て、空気の温度が変わる。光の矢が水面を突き破り、海を杯のように切り取って上へ伸びる。真っ直ぐに母船の前方へと伸びる光柱は、まるで海そのものを貫く槍だった。艦の機関が理解不能の振動で止まり、ライトがちらつく。母船の装甲がきしみ、推進系の軸が凍りつくように動きを失った。
しかし、予想外の音が次の瞬間レンを襲った。遠く聞こえるはずの衝撃が、彼の頭蓋の内で寸断されるような破裂音となって叩きつけられた。まるで世界が一瞬で逆回転し、彼の鼓膜が引き剥がされるかのように、音が消えた。次に来たのは白い静寂だった——街のざわめきも、ユラの叫び声も、波の打ち寄せる音も、すべてが遠ざかる。レンは片手を耳に当てた。空いた手は震え、指先の感覚もぼやけた。
「レン!」ユラの声が聞こえない。カイが叫び、群衆がどよめいた。だが遠く、老女のすすり泣く声が、骨の奥でかすかに振動しているように感じられただけだった。レンは目を閉じ、世界が色で埋まっていくのを見た。音が無くなると、逆に色が鮮やかに見えるものだ——と、以前誰かが言っていた記憶が、刹那に浮かんだ。
効果は強烈だ