夜航弩の見習い隊長と反転軍 第8話「第7章」
潮の匂いがキャンプの外縁を濡らし、黄昏はゆっくりと町の破片を黒く滲ませていった。レイは夜航弩を抱えたまま、壊れた倉庫の窓枠にもたれていた。冷たい金属の感触が掌に伝わる。弩の弦はまだ湿り気を帯び、刻まれた刻印が薄く光る。彼女はそれを見つめながら、自分の指先に残る感覚を確かめた。見える。聞こえる。匂いも、味も、暖かさも──失ったものはあってはならないと、身体が吠えるように訴えた。
潮の匂いがキャンプの外縁を濡らし、黄昏はゆっくりと町の破片を黒く滲ませていった。レイは夜航弩を抱えたまま、壊れた倉庫の窓枠にもたれていた。冷たい金属の感触が掌に伝わる。弩の弦はまだ湿り気を帯び、刻まれた刻印が薄く光る。彼女はそれを見つめながら、自分の指先に残る感覚を確かめた。見える。聞こえる。匂いも、味も、暖かさも──失ったものはあってはならないと、身体が吠えるように訴えた。
「自制するって約束したんだ」
声は自分自身に向けられていたが、同じ言葉を聞いたのは仲間たちも同じだった。だが、約束は薄紙のように重さを持たない。向こうから怒声が飛んできた。
「結果を出すべきだ、今だよ、レイ!」
アヤが倉庫の入口に立っていた。顔は泥と血で汚れ、瞳が赤く光る。アヤの手には小さな投光器。ささくれ立った唇が震えている。
「何を待つの? 人がまた連れていかれる。選ばれたって、何にも選べないまま消えていくのを見てるの?」
アヤの言葉には刃があった。仲間たちの中でも彼女は行動を求める声の尖端だった。ソウタがゆっくりと近づく。地面には紙地図と無線器。彼の額に薄い汗が光る。
「冷静に判断しよう。強行すれば確かに局所的な成功はあるかもしれないが、代償が大きい。夜航弩は単独で使えば反動を受ける。感覚の一部が戻ってこないかもしれないのを忘れているのか?」
ソウタの言葉は理論だった。数字と蓄積された地図が裏付けを与える。レイはそれを知っている。だが、目の前の小さな群れ──昨日まで笑っていた老人や子どもたち──の顔を思い出すと、身体が軽い震えを起こした。
「じゃあ、どうするんだよ、ソウタ! 待っている間に何人失えばいいんだ!」
アヤが声を張ると、ミハが包帯を抱えて出てきた。ミハは手先が器用で、負傷者の手当てを続けている。彼女の目は疲れていて、しかし決断は別の場所にあった。
「まずは傷を治す。混乱が起きたら、もっと大きな被害が出る。私たちは救護班だ。優先順位を間違えないで」
ミハの声には命を預かる重みがあった。言葉は簡潔で、周囲の空気をいくぶん落ち着けた。だがアヤは首を横に振る。
「守るって言うなら、即効で守れ!」
そのとき、テントの影から囁き声が走った。ミハがそっと耳を寄せる。小さな子どもが誰かに何かを話している。言葉は途切れ、情報はか細かったが、それだけでミハの顔色が変わった。
「守田が?」
ミハは短く呟き、手を止めた。守田──避難民のリーダー格の男。彼は穏やかな笑顔と年長者らしい落ち着きを装っていたが、今夜、彼の名前が出たということは、何かが露見した証拠だ。
「どこで聞いたんだ」
ソウタが頭を傾げ、ミハが口を引き結んだ。
「負傷者の一人から。小声で『約束の地』って。守田さんが反転軍と会っていたって。代物と、対象のリスト──それを見せられたって、涙を溜めながら言ってた」
言葉は屋根の梁にぶつかり、冷たく跳ね返った。空気が一瞬で凍る。
「どういうことだ、守田は、交渉していたのか?」
アヤの瞳が鋭くなる。守田の交渉といえば、これは個人の倫理の枠を超える。反転軍は弱者から選択を奪う制度を拡充する組織だ。守田が何を選んだのかで、ここにいる全員の立場が変わる。
「話を聞かなきゃ」
レイが立ち上がり、倉庫を出る。夜風が彼女の髪を乱した。だが彼女の手は弩を離さない。夜航弩は握られているだけで、重さ以上の責任を生む。仲間たちが彼女の後に続いた。
守田は焚き火の横に座っていた。灰の匂いが彼の周りにまとわりつく。顔は普段よりも疲れていて、どこか吹っ切れたように見えた。
「守田さん。あなたが誰かと会っていたって、本当か?」
レイは言葉を選びながら近づいた。守田はゆっくりと頷いた。小さな紙切れを取り出す。そこには手書きの場所と時刻、そして鉛筆で書かれた短い言葉があった。反転軍の印だ。
「私が選ばれる側を決めることはできない。だが食料も薬もない。どちらを優先するか──拒めば全員が飢えるかもしれない。交渉はそれを避けるために、こちらから提案したんです」
守田の声は震えていた。彼の目は血走っているわけではない。むしろ、計算と後悔が混ざった静かな熱だった。
「――誰が選ばれるかって、どうやって?」
ソウタが紙を覗き込む。そこにはいくつかの氏名と数字、そして「受け渡し」という言葉。手渡しの対象が暗黙のうちに決められている。守田は目を伏せる。
「彼ら(反転軍)は、制度で選ぶ。私たちが決める理由を与えない。救える数を最大にするための『交換』は、私の判断でしかなかった。もしかしたら間違っていた。だが、選択肢があるなら……」
言い訳にも聞こえたし、真実の告白にも聞こえた。どちらにせよ、その紙は現実を示していた。
アヤが拳を握りしめ、顔を真っ赤にして叫んだ。
「裏切り者だ! 守田は今すぐここを出て行くべきだ。私たちのために決める権利なんかない!」
だが声はただの憤りで終わらなかった。困惑と恐怖が混ざった人々も、リーダーに救いを求めている。選択を奪われた人間は、そもそも選べるべきかを失ったことに慣れている。反転軍の制度は、少しの安定と多くの屈辱を引き替えにする。
「選べる状況に戻すためには、ここと交渉の場を同時に断つ必要がある」
ソウタが冷静に言った。「だが、時間がない。反転軍は今夜動くかもしれない」
その瞬間、焚き火の炎が一つの影を投げかけた。それは地面に延びる五つの影──各人の立ち位置が示す分岐のようだった。遠景で、街灯の向こうに兵士の小さな光が見える。時計の針が回る音が、誰かの心臓みたいに聞えた。
「私たちで止める方法がある」
アヤが言った。彼女の手が夜航弩に伸びかける。仲間たちの目が一斉に彼女に向かった。レイの胸が凍る。アヤの指先が弩の側面に触れた瞬間、レイは咄嗟に前に出た。
「ダメだ、アヤ。あなた一人では使わせない」
だがアヤは押し返した。彼女の力は疲弊を知らない怒りだった。
「人が選べないなら、私が選ぶ。私が正しいと思った方法で救えるのなら、私は使う!」
その言葉は宣言だった。守田の顔が硬直する。ミハは必死に手を伸ばす。
「やめて、アヤ! それは人の意志を奪う道だ。私たちが守るべきは、守る側の暴走を止めることでもあるんだよ!」
言葉は届かない。アヤは弩を掴み、弦を張った。音が夜に刺さるように鳴った。瞬間、世界が鋭く歪んだ。
空気が引き裂かれるような感覚。レイの耳に鈍い振動が伝わり、砂の上で蠢く虫の羽音が急に無くなった。アヤの顔が二つに割れ、そこに蒼白が寄った。彼女が立てた計画は、確かに実現され始めた。火の粉が舞うように、周囲の人々の身体が一斉に動いた。指示も合図も出していないのに、避難民たちが決まった方向へ走り出す。まるで見えない糸に操られる人形のように、誰も疑問を口にしない。
「やった……」
アヤの声は震えていた。そしてすぐに、彼女の瞳から光が引かれていく。手が震え、耳に透明な世界が降りてくる。彼女は自分の呼吸の音すら聞こえなくなっていくのを感じ、顔を押さえた。
「アヤ!」
ミハが駆け寄り、彼女を支える。アヤの口から血が少し滲んだ。彼女は視線を彷徨わせ